第11話 善人と悪党
人間の表面的な部分を見抜くには、概ね三日あれば足りる――と、アイリスはブレイザー男爵家の帝王学において教えられてきた。あくまで人間としての表面的な要素、すなわち普段の言動から人格を大まかに把握するという一点のみに適用されることではあるが、彼女はその理論の合理性を信じてこれまで生きてきたし、これからも生きていくと決めていた。
その理論に基づくならば、自身の周りの人間的環境は概ね恵まれたものである――と、彼女は現状を判断していた。訓練生の大半は穏やかで素朴な性格の持ち主である。どこにでもいるごく当たり前の十五歳の少女たちが、それぞれの思いを胸に集ったこの場所を、アイリスは心地よいものと捉えていた。
だが、何事にも例外というのは存在する。確かに訓練生の大半はごく普通の少女たちであり、エキセントリックな性格の持ち主はそう多くない。
しかし、アイリス自身の「槍仲間」については数少ない例外に当てはまるものであった。乱暴な物言いと直情的な性格のカレンに、優秀ではあるが常に冷淡なエリカ――両極端な性格の二人に挟まれた彼女は、少なからず困惑していた。
(二人とも、悪い人じゃないんだけどね……ただ、何ていうか……極端かな)
三段ベッドの中央――上段のカレンと下段のエリカに挟まれた状態で、彼女は昼間の訓練で負った打ち身をそっと撫でた。エリカが投げ飛ばした訓練生に激突して負った傷だ。重傷ということはなく、一晩経てばなんの問題もなく完治するだろう程度のものだった。
アイリス自身に積極的にエリカを責めようという意志はない。ただ、若干ばかりの不信感が彼女の中にあることは確かだった。あのように冷淡な態度を取らなくても良いのではないか――そのように思わずにはいられない。
だが、それと同時にアイリスはエリカを高く評価していた。確かに他者を顧みない傾向は少なからずある。しかし、彼女の兵士としての素質は卓絶の域にあり、なおかつ彼女の在り方には、一切の媚や自己憐憫が見られない。ただ己の責務を全うしようとするひたむきさが、訓練に取り組む姿から感じられた。
その姿勢はある意味、彼女が理想としてきた武人の在り方に通じるものがあった。他者を顧みない姿勢ばかりは賛同できないものがあるが、それ以外の部分については、エリカの兵士としての在り方には多いに倣うべきところがあるとアイリスは感じていた。それ故に、彼女はエリカを強く責めようとはしなかった。
だが、周りの者たちはそうではないらしい。今日の格闘訓練の一件で、それが明らかなものとなった。仲間を顧みない者への怒り――そこには半分、完璧に訓練をこなすエリカへの嫉妬も含まれているだろう。ただ、彼女に反感を抱く者が少なくないという一点においては同じことだった。
(このままじゃ良くない――けど、私に何かできるわけでもない。困ったな……)
アイリスは一人、小さくため息をついて寝返りを打った。ちょうどその時――上の段で横になっていたカレンが、聞こえるか聞こえないかくらいの声でアイリスに話しかけてきた。
「……お嬢、まだ起きてるか?」
「うん。眠れなくって」
「傷のせいか」
「そうじゃないよ。けど――」
「……ああ、そうだな。お前の下でバカみたいに寝てる爬虫類のせいだな」
「……」
思ったより察しがいい――アイリスは密かに、カレンへの評価を上方修正した。直情的ではあるが、思っていた以上に仲間思いで細やかな気遣いができる性格らしい。
「……昼間は、ありがとう」
「あ――礼はいい。あれはアタシがムカついてたから、ついキレちまっただけだ。礼を言われちゃこそばゆいぜ」
「それでも、嬉しかった。カレンが仲間思いだって分かって、安心したんだよ」
数秒間の沈黙ーそれを経て、カレンはアイリスの言葉に応えた。
「……そうかよ。なら、受け取っとく。ありがとよ、お嬢」
「どういたしまして。それでどうしたの、こんな夜中に?」
アイリスが問いを投げると、カレンは少しばかり考えてからそれに答えた。
「ひとつ、お嬢に聞いてみたいことがあってな。いいか」
「体重とウエストのサイズ以外なら」
「そんなの聞いてどうすんだ――ドレスでも仕立てるのかよ。そうじゃなくって――哲学だ」
「哲学?」
「そうさ、哲学だ――なあお嬢、本物の悪党と本物の善人、世の中でマジに恐ろしいのはどっちだと思うよ? 殺しも盗みも上等ってやつと、世の中を良くすることをいつも考えてるやつ」
「悪党と善人……?」
アイリスは暫し考え込む。常識的に考えれば、悪党のほうが危険である。だが、そのような当たり前の答えをカレンは求めていないだろう。アイリスが頭を悩ませていると、カレンはくつくつと小さく笑って口を開いた。
「時間切れだ――アタシは、善人のほうが恐ろしいって思うぜ」
「……どうして?」
アイリスが問いかけると、カレンは普段とは打って変わって静かな声で答えた。
「まあ考えてみなよ――悪党ってのは、どこまで行っても所詮は悪党だ。自分が生きるためとか、贅沢をするために悪事を働く。何だってするだろうが、それは自分って器の中に収まる悪事だ」
「……」
「だけど、本物の善人ってやつは『正しいことのために』何だってする。世の中の正義ってやつを守るためなら、どんなに残忍なことだってやってみせる。自分が正しいと信じているから、どんなに人間の尊厳を踏みにじっても笑っていられる。とんでもねえ事だが、善人ってのを突き詰めるとそうなっちまうんだ。一種の怪物みたいなもんだ」
「……なるほどね。でも、何で急にそんな話を?」
アイリスが問いかけると、カレンはベッドの縁を人差し指で何度か叩いた。
「怪物の卵がお前の下で温まってるから教えてやろうと思ってな。思いやりがないくせに頭が良い人間は、怪物になる可能性を常に抱えてるのさ――そういうタマゴを正義と権力で温めると、毒の牙を持ったヤベぇのが生まれてくる」
「……エリカが、そうなるかもしれないってこと?」
「ご明察だ、お嬢。冷血動物と一緒に戦うなんてアタシはごめんだね。気がついたら虐殺者の仲間として軍事法廷に立ってた、なんてことになったら最悪もいいとこだ」
「……それはそれで、極端な話だと思うけど」
「そうかもな。でも、根っこは同じさ。思いやりのないやつと組んで戦うなんて、アタシは嫌だ。そんなことのために、アタシは軍隊に入ったわけじゃない」
その言葉は真剣そのものだった。良く言えば直情的で熱血――悪く言えば考え無しだと思っていたカレンから出た思わぬ言葉に、アイリスは少なからず驚いた。
「……その、正直驚いた。カレンがそんなことを言うなんて思わなかったから」
「ンだよ、お嬢――アタシだって世の中とか人間とかについて、色々考えたりすんだぜ? ま、アタシが言いたいのはそこのインテリにはよく気をつけろ、ってことだけだ。悪党は殴られりゃ悔い改めるだろうが、善人ってやつは殴っても変わらねェのが怖いところさ……」
その言葉は、何処か悲しみを帯びているかのように聞こえた。詳しく聞いてはいない――だが、カレンが他の者たちと違って何らかの「訳あり」だということは、何となく察していた。秘密を暴くような行為を好まない彼女らしく聞き出すようなことはしなかったものの、家庭に何らかの事情を抱えていることだけは薄っすらと知っている。
「……悪ィな、眠いのに付き合わせて。アタシはもう寝るぜ――明日も悪魔の腹の中だ」
「……うん、おやすみ」
アイリスがそう言うと、暫くしてカレンの規則正しい寝息が聞こえ始めた。アイリスはベッドの中でぐいと体を伸ばすと、明日が穏やかな日であることを胸の中で願いながら、そのまま穏やかな眠りの渦に落ちていった。