第118話 鮮血の夜
――事実として、第七分隊の追撃は迅速であった。非戦闘員、それも弱者の保護という目的を達成せんとゲリラ部隊を追撃し、そのことごとくを駆逐せんとする試みを抱いたことも誤りではない。
圧政に苦しむ敵国の人民を援護することもヴェーザー王国軍人の務めであり、それを「正義の戦い」であると捉えて駆けた彼女ら第七分隊のあり方は、軍人の模範として称賛に値するものであった。
戦意は旺盛、練度も十分――追撃戦においてこの上ない条件である。単に平地に離脱した敵を探し、直ちに打ちのめすだけであればそう難しいことではない。だが、彼女らが追う敵の姿は、既に過半が森の奥へと隠れていた。
歩兵主力の民兵隊といっても輸送に供する馬匹の類は最低限確保されており、非常手段としてそれらに乗って逃げた者も少なくはない。徒歩で逃れた者の大部分は森に入る前に槍の餌食となったが、残りは木々の間へと隠れ去り、森の入口で乗り捨てられた駄馬やロバの類が所在なく辺りを歩き回るのみであった。
月明かりが薄く差し込むばかりの森での視界は皆無に等しい。かといってランタンや松明の類を掲げれば、狙撃と夜戦に長けた民兵を利するばかりである。部隊長を務めるエリカは暫し悩んでいたが、やがて決然とした表情で顔を上げて森の奥を指し示した。
「……ユニコーンの眼なら見えるはずよ。この子たちも敵と味方の区別はつく。私たちには見えなくても、捜索撃滅なら可能なはず。この短時間ならブービートラップの敷設も不可能だし、軽い偽装で私たちをやり過ごすか、場合によっては小規模な待ち伏せに徹するしかない。白兵で潰すわよ」
幻獣の能力は野性的な部分に関して言うならば人間を遥かに上回り、通常の「装備」として運用される馬匹を凌駕する。軍用幻獣の大半は暗闇を見通す力と、人間の命令を忠実に理解するだけの知能を備えており、その作戦遂行能力は単なる「装備」の域を超越しているが故、一対の人馬をもってして小隊に匹敵する「戦闘単位」として取り扱われる。
その特性を最大限に生かすことこそが彼女らユニコーン騎兵に求められるあり方であり、エリカの判断は、追撃を実行するという目的において限りなく完璧に近いものであった。
「密集して進軍、先頭は……アイリス、貴女にお願いしていいかしら」
「大丈夫だよ。《ブリッツ》なら、敵を見つけられる――お願い」
軽くたてがみに触れて言葉を掛けると、アイリスの愛馬は悠然とした足取りで薄暗い森に踏み込んだ。照明の類は一切持ち込まず、小さな月明かりのみを目印にして森へと踏み入る。入隊前の彼女らであれば脚がすくんだであろうが、戦う術と確かな知識を得た彼女らにとって、闇夜はもはや恐れるべきものではない。
森に踏み入ってからはただ無言のまま、静かに歩を進める。軽やかな足取りの進軍ではなく、さながら亀の歩みに等しい。しかしその遅さは、彼女らにとって身を護る手段でもあった。
山岳戦に長けた民兵は、どれだけ小さな物音であっても決して聞き逃すことはない。背が高く透き通る銀毛のユニコーンに騎乗した彼女らが身を隠すには、ただ静かに移動する以外にない。幸いにも彼女らの愛馬は、枯れ枝を踏み折らぬ程度の分別を備え、這うような遅さではあったものの、大きな音を立てることなく前進を続けていた。
アイリスが命令を下したのはただ一度であり、追跡の判断は全て《ブリッツ》によるものである。人間を凌駕する夜目の持ち主である彼らを信じるほかに、夜闇に逃れた敵を見つける手段はない。敵を見つければ直ちに突進、阻止射撃に当たらないことを祈りつつ白兵戦闘を挑むばかりである。
(私だけじゃ敵が見えない、けれど……)
私たちなら見える。そう思ってアイリスが槍の柄を握りしめたとき、不意に《ブリッツ》が立ち止まった。何かを感じ取ったかのような行動――その意味を理解するよりも速く、彼女は鋭い衝撃と共に自分の体が宙へ舞い上がったのを感じた。
それが《ブリッツ》の本気の跳躍であり、周りのユニコーンも同じく跳んだことを把握したのは、空中へと躍り上がってからであった――が、彼女はその理由をすぐに理解できた。眼下で銃火が閃き、轟音が突き抜けていったが故である。
(待ち伏せ――!)
彼女の愛馬が攻撃をどの時点で察知したのか、アイリス自身には推し量る他にない。フリントロック式小銃特有の撃鉄が落ち、点火薬から装薬に引火するまでの僅かな時間に跳躍したのか、敵が銃を構える動作を鋭敏な視覚でもって捉えたのか。
だが、何をするべきかは明瞭に理解できた。彼女の愛馬は自らの責を果たして主を救った。ならば、その主たる者が為すべきもまた同じく、軍務に忠実にあり、なおかつ誇り高く戦うのみである。
「総員、降下に備えて――」
ハーネスで体を鞍に固定していなければ振り落とされかねないほどの凄まじい跳躍であったが、アイリスに続いて跳んだエリカは即座に状況を把握し、ランスレストに槍を預けて眼下の敵を睨みつけた。敵を滅せねば罪なき民草に刃が向けられる――それを知っているからこそ、彼女は慈悲を全て捨て去り、仲間にもそうせよと命令できた。
跳躍からの自由落下――時間にすれば僅か一瞬であり、アルタヴァ軍民兵は突如として射線上から消えた第七分隊に動揺して着剣することも忘れている。十分な練度を有する第七分隊を前にして、それは全くもって致命的な隙であった。
「っ――」
落ち葉を舞い散らし、枯れ枝を踏み折りながらアイリスが真っ先に着地する。立て続けの刺突が三連――電光じみた連撃で周囲の敵を屠り、背後から抜剣して打ちかかってきた相手目掛けて、彼女は槍を地面に突き立てて腰のホルダーからショートカービンを抜き、即座に持ち変えるやいなや銃床の打突を見舞った。
もんどり打って倒れた敵を《ブリッツ》の蹄が容赦なく踏み砕く。数秒のうちに四人をその場で叩き伏せられ、一個小隊で展開していた民兵隊の表情に怯えが宿る。だが、彼女がそのようなことで手を緩めるはずもない。
流れるような手付きで着剣――左右から挟み撃ちに飛びかかってきた敵を踊るように切り伏せると、正面から向かってきたもう一人を燃える瞳で睨みつけ、左手で銃を持って地面に突き立てていた槍を引き抜いた。
「ッらあぁ!」
右手一本でそれを振り上げて刺突――革製の胸甲を穂先が貫いて鮮血が飛沫いて頬に飛ぶ。彼女がそれを手で拭うと、さながらウォー・ペイントのように頬に紅い跡が残った。周囲でも次々と第七分隊の兵士たちが着地し、激しい白兵戦でもって敵を駆逐――待ち伏せのつもりでいた民兵隊は瞬時に混乱に陥り、その大半は何が起きているのかも知らないままに散っていった。
「――状況報告!」
『全敵撃破!』
唱和する声が森に響く。それを確認したエリカは兵員を自分のもとに集めると、足元で呻いていた民兵の一人――アイリスが放った痛打によって骨を砕かれた男に視線を向け、下馬してその喉元に銃剣を突きつけた。
「何故、村を奪ったの」
「答える理由が……あるか?」
「見上げた忠誠心ね。それが最後の言葉になってもいいなら、あと一度だけ――」
妄言を吐くことを許しましょうか、とエリカが言おうとしたそのとき、民兵の口元がいびつな笑みに歪んだ。
「お前ら、あの村人のために追ってきたのか……? だとしたら――お生憎だな。アルタヴァ軍は反乱分子を許容しない。土地勘の無いお前らが村を襲いに来た理由くらい……俺たちにも想像がつく……」
「……!」
「気になるなら見てこいよ、すぐそこだぜ――背伸びすりゃ、見えるかもな」
その一言に、全員が表情を凍りつかせた。聞いてはならない――半ば反射的に意識を逸らそうとしたが、続く言葉は呪いのように彼女らの胸を突き刺した。
「……もう行っても遅いぞ、間抜けめ。これが何だか……わかるか?」
男が軍服のポケットを探り、血に濡れた布――否、青い子供用の帽子を取り出すに至って、ついにエリカは感情を爆ぜさせた。
「貴様ッ!」
闇夜を銃火が貫く。激発した感情に任せてエリカはトリガーを引き、名も知れぬ民兵は歪んだ笑みを浮かべたままに事切れた。それだけでは収まらず、振り下ろした銃剣の切っ先が死者の胸を貫いた。無意味であることは理解している――が、そうしなければ、彼女自身が自分自身の激情を処理できなかった。
「エリカ――まだ、決まったわけじゃ……」
アイリスはそっと手を伸ばしかけたが、視界の端に遠く、一瞬だけ見えた「何か」――木に吊り下げられたものに気付いてその手を下ろした。見てはいけない、と彼女は本能的に視線を逸し、他の者たちも目を背けた。
だが、ユイだけは違った。衛生兵として、死にゆく者を繋ぎ止める――その責務を負った彼女は決然とした表情で手綱を握りしめると、周りの者が止める間もなく飛び出そうとした。だが、彼女の愛馬――黄金のたてがみを持ち、主に似て穏やかな心を持つユニコーン《リヒト》はその場から動こうとはしなかった。
「ねえ、どうして――行ってよ、《リヒト》。死なせたくないの、お願い――」
「……」
言葉はない。ただ青い瞳から一筋、涙が溢れただけである。
「……行ってもお前が辛いだけだ。やめろ、もう――」
何もできない、誰も生きちゃいない――声をかけたカレンは、その先が言えず言葉を呑み込んだ。重苦しい沈黙の中、エリカは血に濡れた銃剣を乱暴に布で拭って鞘に収め、自分たちが来た道の向こうに視線を向け、視線を逸したまま命令を下した。
「村に戻るわ。軍事物資は焼却、地図類だけ確保して、直ちにここから離れる。言いたいことがあるのは分かる。けれど――」
その先は言葉にならなかった。エリカにとって唯一の救いがあるとすれば、分隊の誰も、彼女に対して何も言わなかったことであった。もとより敵の集積拠点を焼き払うことのみが任務であり、村人を救うことまでは作戦に含まれない――そう自分に言い聞かせられる程度の分別を身に着け、戦争が不条理なものであると理解していたが故の沈黙である。
言葉にすれば実に陳腐な、兵士にとって戦う理由となると同時に、理性的な判断を鈍らせるもの――敵への確かな憎しみは、少女たちの胸に鏃のように食い込みつつあった。エリカは夜空を一度見上げ、槍の柄を強く握りしめた。
(よくあることだ。けれど――私は、あいつらを許せない)
――吹き抜ける夜風の冷たさは、少女たちに敵を憎むことを教えるかのようであった。