第115話 敵地の民草
古今東西を問わず多くの戦場において、夕暮れは作戦行動の終了とほぼ同義であった。主力兵装であるマスケット銃は闇夜においては何ら意味を持たず、いかなる砲術の達人と言えども、相手を見定められなければ必中の技を見せることはできない。大部分の兵士にとって闇夜は自らの身を隠す安寧の盾であると同時に、一日の戦いの終わりを告げる使者でもあった。
だが、闇の帳が全てを覆い隠すわけではない。見えないという条件は、身を隠す上で役に立つのみならず襲撃者に隠れ場所を与えることにもなる。それ故、近代的な軍組織は夜襲を常に警戒する。少数のゲリラ・コマンド――白兵戦闘に熟達した精鋭による襲撃は、少数の戦力投射で大混乱を引き起こし得る。
そうしたゲリラ部隊に対する警戒として夜間歩哨は常に立てられ、その役目は、ごく小規模な野営地――キャンプというにも小さな拠点を守る第七分隊にも必然的に与えられていた。
「夜間歩哨の一番手は……アタシとインテリか、よろしく頼むぜ」
小銃を肩に担いだカレンがエリカに視線を向けると、彼女は腰に下げたサーベルを外して地面に下ろし、小さく頷きを返した。
「ええ。期待しているわ――焚き火はできたかしら?」
「ああ。うちの分隊にキャンプの達人がいたおかげで助かったぜ――アルタヴァの夜はやけに冷えやがるからな」
カレンはそう言って、足元の焚き火――二つの穴をトンネル状に繋ぎ、一方に薪を詰めたものに視線を向けた。片方から空気を取り入れ、なおかつ地面よりも下に火を置くことが可能な地下式の焚き火である。冷たい夜風に耐えながら、敵から発見される危険性を最小化するための手段――サバイバルに長けたオリヴィアの発案で作られたものであった。
「よく思いつくわね……」
感嘆したようにエリカがつぶやき、両手を火の上にかざす。オリヴィアはにっこりと笑って、手にしていた串で干し肉を刺して炙りながら答えた。
「自分に何が必要かを考えれば、割とすぐに思いつくよ。ナイフがなければ石を割って作ればいいし、ロープが必要なら蔦を探してくればいい。見えない暖房が欲しいなら地面に埋めればいいんだ。空気と燃料があれば火は燃え続けられるってことさえ押さえておけば、自然とこの形になる」
「流石ね――狙撃と森林戦じゃ敵わないわね。みんなは適当に食べて、休んでおいて頂戴。交代で休憩を取れば最低でも6時間は眠れるはずよ。次は……アイリスとユイがお願い。じゃあ、一旦おやすみなさい」
その言葉に敬礼を返し、部隊の四人はその場で横になった。落ち葉の上に布を一枚敷き、背嚢を枕代わりにした寝床――訓練学校時代の粗末なベッド以下だったが、彼女らはあっさりと眠りの淵に落ちた。規則正しい寝息が聞こえ始めたところで、エリカとカレンは一度だけ視線を交わし、焚き火に背中を向けて手にしたマスケット銃をしっかりと握りしめた。
そのまま視線を動かさずじっと闇の奥を見つめるエリカを前に、カレンは少しばかり考え込んでから問いを投げた。
「……まさかと思うが、このまま寝ないつもりじゃないだろうな?」
「寝るわよ、流石に。機械人形じゃないんだから……けど、不思議ね」
「何がだよ」
「訓練学校で死ぬほどベッドメイクの練習をしたの、覚えてるかしら」
「忘れるわけねえだろ、三段ベッドだ――あのクソ重いやつが全部横倒しになった事件のことも、そのあとお前がタコ殴りにされたことも……全部さ。忘れるわけねえだろ」
「……そうね」
今となっては何もかも遠い思い出、といった雰囲気でエリカが苦笑を浮かべる。あの頃の自分は控えめに言っても傲慢に過ぎた、と思い返す。王国の防衛を担う人間として誇りはあった。だが、気負い過ぎて周りが見えていなかった――その目を覚まさせてくれたのが、他でもないアイリスとカレンの二人だった。
「あの訓練、どう役立てればいいかしら――ベッドが見当たらないんだけど」
「……驚いた、お前冗談言えたんだな」
「私を何だと思ってるのよ……まあ、いいけれど。出発前に集めた落ち葉を散らして、焚き火の痕跡を消していくの、忘れないでね」
「もちろんだ――アタシが忘れても、他の奴らが覚えてる」
その一言に、エリカはふっと笑みを浮かべた。
「変わらないわね」
「変わるには短すぎるさ。何年も軍隊にいれば、もっと変わるのかもしれないがな――っと、あまり無駄に喋ってると、敵がこっちに来る」
「了解――授業中みたいに寝ないでね?」
「ぬかせ、眼は開いてたぜ――」
「そうね。あれは真似できなかったわ」
軽口で気分を解し、エリカは小銃を低く構えて辺りを見回した。生い茂る木々が月光を遮る森では、視界は大きく制限される。夜目の利く者を集めた夜襲専門の精鋭部隊が存在する、という噂を聞いたことならある――が、そうした部隊が投入されるのは、特定の対象を壊滅させるときに限られることを彼女は知っていた。
自分たちの現在地が露見していない限りは機動力で敵の捜索から逃れ続けることが可能であるし、万が一会敵したところで、そのことごとくを撃砕する自信が彼女にはあった。それに加えて、目標は敵の脆弱な補給線――小規模な護衛隊に守られた輜重部隊や、後方に位置する物資集積拠点である。物資を奪い、焼き払い、国境付近で展開される敵の戦闘行動を阻害し、徹底的に「嫌がらせ」を実行することで、第七分隊の存在意義は達成される。
(補給線を破壊して敵の動きを止めれば、それだけ前線が助かることになる。私たちに追撃の手を割けばなおのこと――こっちの負担は大きくなるけれど、それを振り切る脚があれば大丈夫なはず……)
最後の結論を出して自分を納得させようと、エリカは闇の向こうを見つめてから一瞬だけ目を閉じた。一種の癖のようなもの――その瞬間、彼女は鋭敏な知覚でもって、枯れ枝を踏み折る僅かな音を聞いていた。
「……!」
マスケットの撃鉄を起こし、音がした方向に銃口を振り向ける。歩兵一個分隊程度の人数の何者かが接近している。カレンも気付いたのか、銃を油断なく構えて闇の奥に視線を凝らした。敵の勢力圏に入った状態で、得体の知れない何者かがこちらへ向かっている――警戒するには十分な材料である。当然ながら、状況によっては二人とも撃つつもりでいた。
エリカは銃を手にしたまま、周辺の偵察地図を思い起こした。森を進まなければならない距離はあと少しであり、近所には小さな村がある――敵軍が村を接収し、拠点化を進めている可能性も十分にあった。敵の哨戒班が出てきたとしても不思議ではない。一度は眠りに落ちた隊員を揺り起こすと、エリカは何者かが接近していることを手短に告げ、銃を持たせて命令を下した。
「……視界に入った時点で、敵と分かれば撃っていいわ。分からなければ警告を発して、答えがなければ即時射殺。遠慮なく殺りなさい」
『了解』
小声で答えを返し、全員が小銃を一斉に構える。掲げたかがり火が木々の間に見え、話し声が近づくと、彼女らはトリガーに指を掛けて狙いを定めた。限界まで引き寄せ、逃れようのない距離に達してから攻撃態勢を取る――待ち伏せによる一撃必殺が、彼女たちの狙いだった。
(あと、あと少し――)
オリヴィアの持っているライフル銃を除けば、第七分隊の射程はそう長くはない。五十メートルまで引き寄せた時点で、エリカは銃を構えたまま警告を発した。
「動くな! 何者だ!」
「ひっ――!」
闇夜を切り裂く鋭い一声――その烈しさに、先頭を進んでいた者はかがり火を取り落としそうになった。彼女の視界に入ったのは、老人と婦人、そして子供ばかりの集団である。
(民間人? いや――ゲリラかもしれない)
油断させた上での奇襲はゲリラ戦の常道である。その姿をエリカはよく確認し、銃を油断なく構えたまま一歩進み出た。
「直ちにここから退去しろ。さもなくば――」
「ちょっと待ってくれ……!」
撃つ、と言おうとしたところで、先頭に居た老人がその場にひざまずき、エリカを見つめて悲痛な声で訴えかけてきた。
「あんたら、ヴェーザー王国の軍人さん――それも騎兵隊だろう? お願いだ、民兵隊の無法者を追い払ってくれ! あの連中、村を占領しちまって儂らを追い出しやがったんだ! 頼む場所がもうどこにもないんだ……! 頼む、あいつらを叩き出してくれないか……!」