第111話 哨戒線突破
主権国家の成立と共に国民軍が形成され、国防を貫くものが個人の忠誠や精神から科学と論理に移り変わってどれだけ時間が経とうとも、結局のところ「戦闘」を支配するものは個人の力でしかない――戦場という独特の環境に身を置いたアイリスは、刃を振りかざしながらそのようなことを考えていた。
もっとも、体系立てられた思考のもとにその結論に達したわけではない。もっと本能的な――どんな理論のもとに戦争が遂行されるかはともかくとして、この場を生き残るには力が必要である、という極めて戦闘的な判断によるものである。
今の彼女を貫く思考は、貴族として生まれたが故に身につけてきた政治や歴史、あるいは独特の処世術といった広義の「帝王学」と呼べるものと、軍学校において学んだ効率的な兵力の運用、すなわち科学的に敵を殲滅する手段を体系化したものによって成立している。
もちろん、刃を交える場においてもそれらは無意味ではない。だが、今この瞬間にあって、彼女は一人の貴族であることを忘却し、原始の戦士にも近い衝動のままに銃剣を振り下ろしていた。
「――ッらああぁ!」
右手を銃床の床尾板にあてがい、突進の勢いに合わせて馬上から突き込む一撃――着剣ラグが砕けかねないほどの凄まじい威力で放たれたそれは、民兵が身につけていたハードレザーの胸甲を深々と刺し貫き、背中から鋭い切っ先を突き出させた。
一言も発しないうちに民兵が絶命し、引き抜いた瞬間に飛び散った返り血が艷やかな黒髪と白い頬に飛ぶ。だが、彼女はそれを一切斟酌せず、次の敵に狙いを定めていた。地上から突き上げるように放たれた刺突を逸らして横に弾くと、両の手でしっかりと銃身を握りしめ、相手の脳天目掛けて銃床を叩きつけていた。普通の神経を持った同年代の少女であれば絶対に不可能な行為であったが、施された苛烈な教育が、その罪悪感と抵抗感を奪い去っていた。自分が生き残り、仲間を救うためには他の方法などありえない。
(これで二人――)
敵を打ちのめし、素早く辺りを見回す。接近戦を苦手とするオリヴィアとユイを部隊のツートップであるカレンとテレサがカバー――近接戦で勝てないと見た敵の判断は素早く、目眩ましに拳銃を乱射して森の奥へと引っ込む。それを見たカレンはさらに追撃を加えようとした――が、状況を見ていたアイリスは即座に彼女を呼び止めた。
「深追いしないで! 引きずりこまれる――手榴弾を使って!」
「……!」
その一言でカレンは我に返ると、胸のポーチに着けていた手榴弾を一発手に取り、素早く火打ち石で点火――後退していく敵目掛けて、強靭な腕で投げつけた。馬上という不安定な状況にありながら、投げ放たれた手榴弾は弧を描いて飛び、敵の頭上で炸裂した。
木の葉と枝が爆風で吹き飛び、その直下に居た兵士に爆圧と金属片が降り掛かる。黒色火薬を充填した手榴弾の殺傷能力は限定的であったが、敵を怯ませる一瞬の時間を稼ぐにあたって、その爆音は十分以上の効力を発揮した。
「今だ――続け!」
部隊長として事態を把握したエリカは血に染まった銃剣の切っ先を指揮刀代わりに振り上げると、本来進むはずであった細い山道をその切っ先で指し示した。もとより想定外の戦闘――主な哨戒線からは外れているものの、ヴェーザー軍の勢力圏に浸透してきたゲリラとの遭遇という不測の事態にあり、自ら刃を手に敵と切り結ぶという凄惨な状況においてもなお、彼女は冷静さを失ってなどいなかった。
(ここで時間を使うべきじゃない――これは遭遇戦だ、ユニコーンの脚なら振り切れる……!)
薄暗い森を猛然と疾走――六騎が矢となって絡み合う根を踏み越える。距離が空いたと見るやいくつもの発砲音が響いたが、視界を遮られているのはアルタヴァ軍民兵とて同じことであり、放たれた弾丸のことごとくが木に突き刺さった。
叫びが背後から追ってくるが、少女たちはそれを無視して狭い林道を突き進んでいく。いずれそれすら消え去り、野獣が残した道跡へと入ったが、進む脚は止められない。背後から追跡してくる山岳民兵の身のこなしは機敏で、特殊訓練を受けていることが容易に窺えた。
それだけではない――予め側面に展開していたらしい新手の部隊が押し包むように動き始めたのを、彼女らは確かに察知していた。本来の移動経路は使えないと判断したエリカは、ユニコーンを急転回させて別方向へと疾走を開始した。分隊員たちは、困惑しながらもそれに続く。
「……インテリ! どこに向かってるんだ! 地形図じゃ――」
手元の地図を確認したカレンが叫ぶ。エリカはその声を背中に聞きながら、獰猛な笑みを浮かべて銃剣の切っ先を前へと振り向けた。迷いも躊躇も持たず、彼女は溌剌とした声でカレンに向かって叫んだ。
「そうよ! 貴女の思う通りの場所ね!」
「そうよじゃねえよ! こっちは崖で――」
何かあり得ないものを見たような表情で反論したカレンに、エリカは笑顔のまま応えた。
「――分かってるじゃない、崖から飛ぶのよ!」
「なんてこった――おい、隊長サマがヤル気になっちまったぞ! やべえ!」
あまりにもあっけらかんとした返答に、カレンは逆に笑いがこみ上げて来るのを感じていた。敵を振り切る最短ルートを選ぶために崖から飛び降りる――なるほど、確かに敵が追ってくることは絶対にできない。だが、普通ならば考え付きもしないほどの奇策、ともすれば狂気に等しい行動である。
「だったら――」
背後から迫る敵兵を振り切るために増速、第七分隊は一直線に崖目掛けて突き進んでいく。その行為を民兵たちは何と思うか――道を知らずに自殺行為に出たとあざ笑うか、それとも崖から飛んで振り切るほどの覚悟を見せたと驚嘆するか。だが、どちらであれ彼女らの知ったことではない。任務に必要ならば実行し、最大の結果を得るのみである。
「――飛んでやろうじゃねえか!」
一瞬にして崖が迫る。側面から追撃していた部隊とも距離を取り、一気に前方へと抜け出た――その次の瞬間には、鋼の線を束ねたように強靭かつしなやかな四本の脚が大地を強く蹴りつけ、六騎は一斉に空中へと飛び出した。
眼下には鬱蒼とした森が広がり、常人ならば安全に着地することなどできない。だが、彼女らの駆る幻馬は、その身に纏う神秘――条理を捻じ曲げる魔法の力をもってして、自らにそれが可能であると判断して命令どおりに空中へと跳んだ。
弾道を描いて飛び出した彼女らであったが、その動きは飛行と呼べるものではない。グリフォンであれば何の問題もなく空を駆けたであろうが、やがて重力がその体を捉え、無慈悲な自由落下が始まる。
大半の者たちは目を閉じて愛馬の判断に身を委ねたが、そこにあってなお、アイリスとエリカ、そしてカレンの三人だけは、類まれなる度胸でもって眼を開いたままでいた。半ば意地だけで迫りくる地面を見据え、木々の間に突っ込むその瞬間でさえ、自らがどこにいるのかを常に意識し続けていた。
数秒で着地――凄まじい衝撃に備えた少女たちだったが、神秘を帯びた脚は着地の衝撃を半分以上殺しきった。それでも鞍から腰骨を貫く打撃が少女たちを脳天まで揺らし、視界に火花を散らせた。
「……生きてる?」
「死んでたらどうやって返事すりゃいいんだ……でも、撒いたな」
青い顔をしながらも、カレンは拳を突き上げて自分が無事であることを示した。他の隊員も健在――ゲリラに袋叩きにされるという最悪の結果から逃れたことに、隊長を任されたエリカはひとまず安堵して手元の地図に一瞥をくれ、そして全員に呼びかけた。
「さっきの崖が境界線よ。敵の哨戒線の内側に入った――ここから先は、何が起こってもおかしくはないわ。気を引き締めて行きましょうか」