第10話 小さなささくれ
徒手格闘――それは、兵士にとっての最後の武器であるとともに、必須の技能である。銃火器の発達した今日の戦場において、素手による格闘戦が求められる機会は極めて少ない。
マスケット銃を装備した戦列歩兵による射撃戦、そしてそれに続く銃剣突撃と騎兵部隊の側面攻撃によって勝敗の大部分が決する今日、武器を失うなどの事故に見舞われない限りは、兵士がその技能を発揮することはない。格闘戦による敵の排除が通常の任務として求められるのは、王族や貴族の身辺警護に当たる部隊、あるいは治安維持に関与する国家憲兵などに限られる。
だが、兵士一人ひとりに格闘訓練が最重要項目として施されるのは理由がある。それは「いかなる状況においても、己の意思に基づいて敵を打倒する」という敢闘精神を身に着けさせるためである。
自らの手で敵を打撃し、状況によっては素手でとどめを刺す――それは、通常の人間においては耐え難い苦痛を伴う。逆上あるいは錯乱といった異常な精神状態にあるときなら可能かもしれないが、冷静さを保ったまま自らの手で人体を破壊するという行為に耐えうる者は決して多くはない。
だが、軍人である以上は自らの身を護る、あるいは仲間の命を護るためにそうしなければならない状況に追い込まれることは、稀ながらも無いとは言い切れない。そうなったときにためらうこと無く相手を倒せるか、それとも殴りつけることができずに倒されるか――それを分けるのは、何があろうとも相手を倒そうとする意思に貫かれた敢闘精神となる。それこそが、通常の作戦においては発生しにくい敵兵との直接的格闘を踏まえた訓練が施される意義である。
だが、訓練学校に入校してまだ3日目の少女たちにその意義を理解するだけの余裕はない。突然三人組になって格闘しろと命じられた彼女たちは困惑し、グローブを着装した両の手を握ったり開いたりしながら、眼前の相手を見つめるばかりだった。
教官の命令に従ってすぐに飛びかかろうとする者はいなかった。しかし、命令から三十秒ほどして一人の少女――カレン・ザウアーが静かに一歩前に踏み出した。ショートカットの茶髪をかき上げてグローブを嵌めた手を何度か握っては開き――そして、鋭い瞳で眼前の相手を見据えて口を開いた。
「取っ組み合いか――いいぜ、やってやるさ。三人同時でもいいぜ、来いよ」
彼女は静かに腰を落とし、目の前の三人――「芋」ことカーラ・レイフォス、「スペアリブ」ことイリナ・アーセナル、「ミートボール」ことリッカ・レスターに視線を向けた。隊長を務めるカーラの頭には、白いバンダナが巻かれている。その様子を見た教官のベアトリクスは、一つ頷いて少女たちのほうを向いた。
「……いいだろう、まずは見本で、この三人にやってもらおう。打撃戦は無しだが、投げ飛ばそうと締め上げようと構わん。『チンピラ』、殺さない程度に存分にやれ」
「マム・イエス・マム……!」
そう返事をした次の瞬間――カレンは肉食獣じみた勢いで前方に跳んだ。土埃が舞った瞬間、彼女は隊長を務めるカーラの眼前に立っていた。
「甘ェんだよ――終わりだ」
電撃のように伸びた手がバンダナをつかもうとした刹那、横合いから飛び出した仲間――イリナが激しい体当たりをカレンに浴びせた。技術もなにもなく、ただ走って飛び込んだだけといった格好だったが、カレンの伸ばした手は空を切り、カーラは即時の試合終了を免れる形となった。イリナは体当たりと同時にカレンを両手でホールド――カーラへの追撃を妨害する。
「余計なことを――」
カレンは自らに体当りしたイリナを睨みつけ、両手で彼女を押し出して拘束から逃れながらバックステップで距離を取った。カーラは少しばかり混乱しながらも、声を張って二人に指示を飛ばした。
「イリナはカレンを妨害――リッカは私と来て、エリカを攻撃! 行くよ!」
「オッケー!」
技量は不十分、人を殴ったことなどない――だが、彼女らは自らにとって最良の結論を導き出した。すなわち、一人が相手の最有力者を押さえ込み、残りの二人で強襲を仕掛けるという戦法である。確実なコンビネーションは難しいにしても、2vs1の状況を二度作り出すことで、アイリスとエリカを各個撃破することならできる。
そして、三人にはそれを可能とするだけの連帯意識があった。少なくとも、アイリス、カレン、エリカよりは連携が取れていると言って差し支えない。お嬢様育ちのアイリス、荒くれ者のカレン、冷淡なエリカといったちぐはぐな性格の三人とは違い、彼女たちは部隊として「均質」なパーソナリティを持ち合わせている。
「くっ……!」
アイリスはぎり、と眼前の相手を見据えた。剣術なら並の兵隊に負けるつもりはない――だが、取っ組み合いなど未経験だ。出来ることと言えば、自らの身を盾にして隊長であるエリカを援護するだけ――そう思った彼女が一歩前に踏み出したとき、その脇をエリカが駆け抜けていった。
「……貴女は後ろに下がってて。私一人で、十分よ」
「エリカ……!」
カレンは慌ててエリカを援護しようとしたが、次の瞬間にはエリカは既にカーラとリッカを相手に飛びかかっていた。素早く伸びた手がカーラのバンダナを掠めたが、リッカがそれを横合いから迎え撃った。リッカはエリカの手首をしっかりと掴み、カーラと視線を交わして叫んだ。
「カーラ、今だよ!」
とても見ていられない――このままでは負ける、と判断したアイリスが飛び込もうとした刹那、エリカは掴まれていた手首を振りほどくと、右手でエリカの戦闘服の襟元を、そして左手で左の手首を力強く掴むと、次の瞬間には右足を水平に大きく刈り払っていた。
リッカの体が水車のように半回転して宙を舞い――そして、彼女は突進しつつあったアイリスと激突した。たまらず目を回してリッカは昏倒し、アイリスも人間一人分の衝撃を受けてその場に倒れ伏した。アイリスはぼやける視界に、カーラと激しく格闘するエリカを見た。しかし体は動かず、ただじっとその場で様子を見ることしかできない。
「おい、インテリ――何やってんだテメェ、お嬢を巻き込んで……!」
カレンの声が飛んだが、エリカは何の関心もアイリスに寄せようとはしなかった。倒れたアイリスを無視して、エリカは抵抗を続けるカーラの襟元を両手で締め上げ、そのまま足を払って彼女を地面に押し倒し、問答無用で彼女からバンダナを奪い取った。
「……待てよ、おい」
バンダナを手に立ち上がったエリカのもとに、カレンがつかつかと歩み寄る。その瞳には明らかな怒りの炎が燃えていた。
「お嬢に謝れ」
「……どうして?」
エリカの緑色の瞳がすっと細くなり、嘲るような色が浮かぶ。カレンは瞬時に感情を激発させ、両手でエリカの襟元を掴んだ。
「どうしてって――分かんねえのかよ! テメェが迂闊な投げ方をしたおかげで、そこでお嬢が目を回してンだろうが! それとも、知っててやりやがったのか、あぁ!?」
「迂闊に突っ込んできて自滅したのは、あの子よ」
「ふざけんな! 周りを見てなかったのはテメェだろうが! 調子に乗りやがって、自分の技を誇るために、テメェは仲間を――」
全て言い終わる前に、エリカはカレンの手を振りほどいて薄笑いを浮かべ、彼女を静かに見据えて冷淡な口調で言い放った。
「足を引っ張ったこの子のせいよ。状況を見ていれば、私についてこられたはずだもの。それに、独断専行で飛び出していった貴女に私を責める権利なんてないわ」
「んだと、この……!」
「分かっていないなら言ってあげる。貴女たち二人がいなくても、私なら対応できた」
「なに――ざけやがって、もう一度言ってみろ!」
「何度でも言ってあげる。貴女たちは、私の足手まといよ。遊びで軍隊にいるつもりなら――」
消えて、と言おうとしたのだろうか――だが、エリカの言葉は最後まで続かなかった。突進してきたベアトリクスの鉄拳が、彼女を容赦なくその場に殴り倒したからであった。ベアトリクスは吹き飛ばされて倒れたエリカの喉元を掴むと、そのまま彼女を引き摺りあげて、額が擦れ合うほどの距離で罵声を浴びせた。
「もう我慢ならん――貴様! 一人で戦争をするつもりか、このゴミカスが!」
「っ……!」
「確かにチンピラとお嬢は貴様の足手まといにしかなっておらんし、貴様ならば単独で三人同時にイカせられただろうよ! だが、今の貴様には『兵士』を名乗る資格はない! 仲間を信じようとせず、救いの手を差し伸べなかった者が騎兵になるなど、考えただけで気分が悪くなる! 少しでも悪いと思うなら、今この場で膝をついて、そこでノビている『お嬢』に謝罪しろ!」
容赦のない面罵であったが、その場にいた少女たちの大半がそれに同意した。まだ三日目ではあるが、それだけ彼女は目立っていたのだ。優秀でありながら他者に冷淡であり続けるその態度に苛立ちを覚える者は少なからず存在し、一部は彼女が殴られる様を見て密かにほくそ笑んでさえいた。
「……っ、申し訳ありませんでした!」
流石に状況を察したのか、エリカはその場でベアトリクスに頭を下げたが、ベアトリクス容赦なく彼女を蹴り倒した。
「私に詫びてどうする、この爬虫類女が! ハラワタに穴開けて胃袋で××××するぞ! そこでノビている豚に頭を下げろと言ったんだ!」
「……っ!」
一瞬、エリカの表情に影が差す。だが、逃れられないと知ったのか――彼女は、地面に倒れたまま呻いているアイリスの元に歩み寄ると、静かに膝をついて頭を下げた。表情は変わらず冷淡――形だけを取り繕ったような謝罪だったが、一応の形式だけは保たれていた。それを見たベアトリクスはふんと鼻を鳴らして、地面に倒れたままのアイリスとリッカに、腰に提げていた水筒から水を掛けた上で脇腹を蹴りつけた。
「貴様ら、いつまで寝ているつもりだ! さっさと起きろアバズレども! 売春宿で次の客を取るのには三十秒とかけんくせに、訓練のときは休みたがるのか! 違うというならさっさと起きて、次の戦いに備えろ! 貴様らは殺し以外の役目を持たんのだ、早くしろ!」
散々な取扱を受けたアイリスとリッカが身を起こし、のろのろとした足取りで自分の槍仲間のもとに向かう。だが、エリカはアイリスに対して一瞥もくれようとしなかった。もう終わったこと、とでも言いたげな表情でアイリスとカレンを無視すると、彼女は静かにバンダナを巻き直した。その様子を見て、カレンは忌々しげな表情で吐き捨てた。
「けっ、エリート気取りもほどほどにしろってんだ……後で覚えてろよ」
――その後の訓練でも、エリカはアイリスとカレンを無視し続けた。大きなミスはせず、最初の格闘訓練のように周りを見ずに力を振るうこともしなかったが、彼女は一貫して冷徹であり続けた。