第104話 内紛
与えられたゲストハウスの一室――第七分隊の少女たちは、ただ無言でナイフとフォークを動かしていた。歩哨任務を一旦解かれた彼女たちに供されたのは、一介の下士官には不釣り合いなほどの豪勢な夕食――事実として、シュヴァイガート中将の言葉に偽りはなく、驚くべき歓待と呼んで差し支えのないものであった。
(確かに美味しい。けど……)
薄くスライスされたハムを頬張りながら、アイリスは明らかに何らかの裏がある、と考え続けていた。明らかに何らかの意図がある――本来ならばこのような高待遇は単なる軍曹に与えられるものではない。オンリーワンの特殊部隊であるという前提を考慮に入れたとしても、彼女たちへの接遇は異常であった。
(……目眩まし、かな)
アイリスが達した結論は、この歓待の裏でハト派に対する工作が行われている、というものだった。シュヴァイガート中将が強硬なタカ派であり、休戦協定を隠れ蓑にしてアルタヴァ共和国軍を裏から突き刺そうという意図を持っていることは、既にアイリスも十分に理解している。
現状のユニコーン隊――第十三幻獣騎兵独立部隊を巡る政治的な綱引きは複雑怪奇の様相を呈しており、タカ派は戦闘を勝利に導く切り札として、対するハト派は国内闘争に備えた戦力として彼女らを捉えている。
その中で、シュヴァイガート中将率いる軍部タカ派は「行動を縛る」という形で彼女らをゲストハウスに縫い付けた――それが、アイリスの達した結論であった。歓待という形式を帯びてはいるものの、それは実質的には軟禁と大差がない。
そうしたやり方というのは、古来より例がないわけではない。国内で強い影響力を持つ集団、その気になれば武力による事態の解決すら可能となるであろう者たちの打撃力を一時的に和らげる、あるいは作戦行動から目を逸らさせるために酒宴を開いてもてなし、融和的な雰囲気を醸し出すことによって戦闘への意欲を削ぐ。
必要とするリソースは軍事作戦の展開と比較して段違いに少なく、なおかつ心理作戦としては十分な機能を持つため、多くの軍政家が用いてきた手法である。会談の席を設けて何らかの密約を取り付ける、あるいはハニートラップを仕掛けて相手の弱みを握る、あるいは機密情報を掠め取るなどの行為を兼ねる場合も多くあり、古今東西の軍部で行われてきた手段が展開されていることを、アイリスは肌身で感じ取っていた。
それに気づいていたのは彼女ばかりではない――政治に明るいエリカは無論のこと、もとより聡明なユイは現状が政治的側面を帯びた目眩ましであることを十分理解していたし、他の三人はそこまで考えが至らずとも、何らかの裏があることを感じ取っていた。
彼女たちとて自分の政治的利用価値が分からないわけではなく、同席するヴェーザー王国軍の文官たち――いずれも高級官僚と呼んで差し支えないだけの者らと言葉を交わし、時折笑顔を浮かべさえしていた。
だが、心から楽しんでいるというわけではない。笑顔の裏に猜疑心を隠し、現状の異常性を認識しながら表向き穏やかな時間を過ごす――細いロープの上を渡るがごとき緊張感が、いずれの者の胸中をも満たしていた。
(裏で見せたくない何かが進んでいる……そう見て間違いない)
ナイフとフォークを置き、隣に腰掛けた文官と言葉を交わしながら、アイリスは一瞬だけエリカに視線を向けた。刹那に交錯する視線――その一瞬の衝突のうちに、彼女らは自らの政治的判断が概ね同一であることを確認していた。
この場において可能な選択は二つ――何らかの裏があることを見抜いたと宣言するか、あるいは胸の奥に隠してやり過ごすかである。彼女らが若き兵士ゆえの直情に基づいて行動したのならば前者を選び、ごくあたりまえの政治的敗北を迎えたであろう。
だが、政治的観察眼を持った参謀が二人揃っているとなれば話は異なる。幼少期から貴族の社交という荒波に揉まれ、自らも政治的英才教育を受けてきたアイリスと、軍人一家に生まれ育ったが故に軍政家の採り得る策略の全てを呼吸と同時に吸収してきたエリカの力をもってすれば、十代半ばの少女の集団にあらざる政治的判断もまた可能となる。
(今は動かなくていい。相手のペースに乗せられているうちは、まだ安全圏内だ)
料理を平らげたところで食後酒として運ばれてきたワインで唇を湿らせると、アイリスは辺りを見回した。現状、敵意を露わにしてくる者はこの場にはいないが、あまり長居したい場所ではない。
グラス一杯程度で行動不能になることはないが、軽く芝居を打つ必要があると彼女は判断し、隣の文官の話に相槌を打ちながらゆっくりとグラスを空けていき、タイミングを見計らってぼんやりとした目つき――実際のところ明瞭な意識を保っているものの、彼女自身が可能とするもっとも完璧な演技でもって、酔って眠りかけているふりをした。
「……軍曹?」
「あら――失礼。久しぶりに飲んだものですから」
隣に座っていた文官が顔を覗き込む――かかった、と言いたいのを抑えてアイリスは眼を軽く擦り、笑みを浮かべて手にしていた空のグラスをテーブルに戻した。それを見たエリカは小さく頷くと、背筋を伸ばして立ち上がり、辺りを見回して穏やかな声で呼びかけた。
「……今夜はここまでにいたしましょう。そろそろいい時間ですから――私たちのためにこのような席を設けていただけたこと、感謝いたします」
深々と腰を折って一礼――その姿は、令嬢と呼んで差し支えないものであった。だが、彼女の本質は鋭い戦略眼を備えた指揮官であり、同時に政治に対する洞察力を備えた謀略家でもある。彼女の観察力は、アイリスのそれが演技であることを見抜くに十分であった。
他の隊員に一拍あるいは二拍遅れてアイリスが立ち上がる。近くに居たテレサが素早く彼女に腕を貸し、文官や給仕らの見えない場所でにやりと笑った。
酔っていないことに気づいたらしい彼女はそのままアイリスを士官用食堂の外へと連れ出し、途中で二人部屋のエリカへとバトンタッチする。その直前、テレサは「ややこしい話は任せた」と一言言い残し、他の四人と一緒に去っていった。
最後の最後まで演技を忘れるアイリスではなく、近くに立っていた護衛――という名の監視に水を持ってくるように頼むと、エリカに肩を借りながらゆっくりとした足取りで部屋に入っていき――ドアを閉めた途端真顔に戻った。
「……演劇の心得が?」
「これくらいのこと、貴族なら誰だってできるよ。やり方はまあ色々あるけれど、一番慣れた方法だから。それと――ここから先をどうにかできるのは、私とエリカだけだもの」
笑みを浮かべてエリカが問いを投げ、アイリスは冗談めかしてそれに答える。だが、彼女らは真剣そのものであった。テレサの最後の一言――それは、軍政において抜群の感覚を持つアイリスとエリカに状況を託すという意思表示であった。だからこそ、失敗は許されない。
「アイリス、まずは貴女の認識を聞かせてちょうだい――何が起きているのかしら。この宴席が何かの目眩ましだってことは、私にも分かるけれど」
すっと瞳を鋭く光らせ、エリカが問いを投げる。それを待っていたかのように、アイリスは胸を張って口を開いた。
「私たちに見せられない何か……それも、私たち自身に直接関わる何らかの事情を、軍部のタカ派は抱えている。そして、それに対処するための行動が今夜為されると見たけれど、エリカはどうかな」
「私も概ね同じ意見よ。けれど、実力部隊の私たちが政治的局面に介入することはあり得ないわ。特殊部隊といっても軍曹ばかりだもの。せめて士官なら、何か政治的に動けたかもしれないけれど……私たちが動いてどうにかなる政治的案件といえば、それこそ暗殺――」
そこまで言った途端、エリカの表情が変わった。午前中に訪れた陸軍法務班――彼女の父であるシュミット大佐の一件と、この目眩ましじみた宴会が無関係とは思えない。一瞬で顔から血の気が引き、震える手は枕元に置いていた銃剣へと伸びていた。
「……アイリス」
「……かもしれない。けれど――」
最悪の展開――にもシュヴァイガート中将がシュミット大佐を本気で始末するつもりでいたと考えれば、全ての展開に説明がつく。大佐がハト派に属しているというだけでなく、エリカの父であるという事情を鑑みたとき、中将が第七分隊の動きを封殺する必要性は当然ながら出てくる。
政治的な説得――半ば脅迫に近いだろうが、そうであればまだよい。問題は実力行使に出た場合である。万が一にもシュミット大佐が「消される」ことになれば、第十三幻獣騎兵独立部隊がタカ派の手中に落ちることは免れられない。
しかし、その程度のことは想定した上でシュミット大佐も動いていることを二人は理解していた。法務執行権限を付与されている以上、妨害に対しては武力での反撃、排除が認められている。例えそれが上位の指揮権を有する陸軍将官であったとしても、である。
だからこそ、アイリスは軽率な行動を取ることはしなかった。ただ一方的に暗殺されるというわけではないと分かっていれば、ある程度腰を落ち着けてはいられる。彼女は深呼吸して心を静め、両足で地面を踏みしめて言葉を続けた。
「――今、私たちが動いても利にならない。ここで手を出すべきじゃない」
「……わかった。なら、私たちは――」
このまま待機、とエリカが言おうとしたそのとき、不意にドアをノックする音が聞こえた。アイリスは素早く反応してソファーで寝ているふりをし、エリカがそっとドアを開ける。そこには、先程護衛に立っていた者とは違う兵士の姿があった。その手には錫の水差し――それに加えて、一枚の羊皮紙があった。
「これは?」
「ご確認を」
兵士は堅い表情でそう言って、エリカに書類を開くように促した。彼女は不穏な空気を感じながらもそれを開き――次の瞬間、目を見開いてその奥にナイフのような輝きを宿した。兵士はその様子を見ても特段驚いた雰囲気を見せず、ソファーで眠ったふりをしているアイリスを起こしに行くようエリカに指図した。
「アイリス――」
声を殺し、エリカはアイリスの耳元で囁く。その声は刃のような誇りを帯びていると同時に、どこか恐怖と緊張に震えてもいた。
「――ハト派が動くわ。詳しい説明は後でするから――来て。武器は向こうが用意してくれる。お父様は……自分を餌にして、シュヴァイガート派の実働部隊を釣り出すつもりよ……!」