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第103話 影武者

 何の容赦もなく殴打されてその場に卒倒させられたことを知ったエリカは、数分で目が覚めるやいなやアイリスの姿を探し、彼女が戻ってきた途端に殴りつけられた側頭部を押さえながら長い説教を始めた。何故にいきなり殴るという手段をとったのか、仲間を出し抜くとはどういうことか――彼女が耳にしたなかでも最も長く、同時にこの上ないほどに論理的であった。

 アイリスはそれら全てを遮ることなく最後まで聞いてから、深々と頭を下げた。あの状況で父子が刃を交えることを避けるには他に方法がなかったのは事実である――が、仲間を全力で殴打したことに変わりはない。確固たる信念を持っての行動であったが、エリカが被った痛みはまた別の問題である。


「……ごめん。殴らなくてもよかった――とは言わないけれど、痛かったよね」


 素直に謝罪したアイリスを前に、エリカはどこか驚いたような表情を浮かべた。エリカ自身も理解している。あの場で殴打して昏倒させなければ、必ず父と刃を交えていたであろうこと――それだけの覚悟は彼女にあったが、結果が不幸なものに終わることを避けようとアイリスが行動に出たことそのものは決して責めてはおらず、肉親を自ら剣で貫く、あるいは父に処刑されるという悲劇的な結末を回避しようと動いた彼女を、密かに讃えてすらいたのが実情である。


「……別に大丈夫よ、うまく入ったから痛いなんて思わなかったわ。革手甲だし。それに――死ぬよりずっといいわ。それで、お父様は今どこに?」


 エリカの問いかけに対して、アイリスは暫し答えに詰まった。シュヴァイガート中将に武器商人からの収賄の疑いが掛かっていることを知っているのは、今の所自分だけだ。仲間同士とはいえ、迂闊に情報をばらまくことは最悪の結末を招きかねない危険な行為である。

 全ての人間が全ての情報を共有していれば、集団の行動は合理化、最適化されていく――そのような錯覚に囚われる人間は少なくない。情報共有が為されていれば共通認識の形成がたやすくなり、大集団であっても迅速に機動できるという考え自体は、決して誤りというわけではない。

 だが、身内に敵を抱えている場合――特にそれが政治的な案件であり、迂闊に踏み込むべきでない複雑性を備えているときには、情報の共有は仇となる。同じヴェーザー王国軍でありながら、国際協調と外交を重視するハト派と、積極的軍備拡張による圧力の強化――場合によっては武力介入すら厭わないタカ派の間での政治的緊張は、ある種の内戦の様相を呈しつつある。公式調査では決して表に出ないものの、暗殺を疑われる事案の噂を、アイリス自身も何度か耳にしたことがある。


(もし何かあっても、エリカなら絶対に口を割らないはず。けれど、秘密を知っている人間が少ないほうがいいのも、また事実……なら、私は――)


 なかなか答えを返さないアイリスを前に、エリカは瞳を鋭く光らせ――そして、小さく息を吐いて一歩下がった。


「……話しにくい事情ね?」

「まあ、そうなるかな。エリカには悪いけれど――」

「いいわよ、それくらい。私だって軍人だもの。それに、陸軍法務班の監察令状が出ている案件なのに、迂闊に踏み込めるはずがない……ある程度の予想は、もうついているけれどね。言葉にしなければ、単なる私の空想で終わるから」


 そう言って、エリカは少し冗談めかした口調で言葉を続けた。


「知らないほうがいい情報は、知らないままでいるのが一番よ。気にしなくていいわ。無知は罪であると同時に、甘露でもある……でしょう?」

「まあ、そうかもしれないけれど……」

「それに、万が一の場合のダメージは限定されるべきだと思ってアイリスが黙っているのなら、私はそれに賛成するわ。不都合な情報を知っている人間が二人いれば、どちらも消していくのが軍政屋のやりかたよ。決定的な情報を知る人間は少なくていい――任務に戻りましょう。お父様のことだから、表門からどうにかして出てくるでしょう。私たちは歩哨をしていれば、それで十分よ」


 何か覚悟を決めるように一気に言いきったエリカは、ランスレストに預けていた槍をしっかりと握り直して正面を向いた。基本的に秘密裏の出入りに使う裏口とあって、彼女らの前を通る者はそう多くはない。時折、書類を抱えた文官が取り次ぎを願い、それに応じて書類を運ぶばかりである。歩哨としての緊張は無論保っている――が、退屈という静かな敵は、彼女たちを緩慢な疲労へと誘っていた。

 だが、そうあることこそが兵士として何より喜ぶべきであることを二人は知っている。市街地で突然襲撃を受けたが、あのような事態が続けて起きれば、国境でのにらみ合いから生じた一時的な平和すら奪われることになりかねず、民草の命は絶えず危機に曝される。


(このまま何もなく進んでくれれば、それでいい――)


 そう思って、アイリスが槍の柄を軽く握り直したそのとき――彼女たちの目の前に、不意に見慣れない馬車が止まった。全体的なスタイルは民生用に似ているが、分厚い鎧戸が降ろされたその様は、明らかに通常のものとは一線を画す。大衆の乗合馬車でもなければ、王都に居を構える法服貴族のものでもない。


「……エリカ」

「分かってる」


 二人は揃って槍の柄をしっかりと握りしめ、彼女たちは眼前の馬車に向き直った。政府関係者が秘密裏に移動しているというのなら話は分かるが、扉が開くまで警戒を解くことはできない。怪しい動きがあればこの場で制圧するしかないと覚悟を決めて、二人は愛馬を一歩進ませた。槍で貫き、そのまま蹄をもって踏み砕く――次の行動を頭の中で整理しながら、アイリスは青い瞳を静かに光らせた。

 馬車のドアがゆっくりと開き、二人の緊張が最大まで高まったその最中――響いたのは、予想だにしない人物の声だった。


「歩哨の務めご苦労である――軍曹」


 その声に、アイリスとエリカは目を見開いて立ち尽くした。何が起きているのかまるで理解できない――なぜならば、そこに立っていたのが議事堂内にいるはずのシュヴァイガート中将だったからである。


「……中将、なぜ――」


 愕然とした表情で立ち尽くすアイリスを見て、シュヴァイガート中将はにやりと笑って顎髭を撫でた。


「政治的な所用があった、とだけ言っておこうか」

「しかし、朝は……」

「軍曹、政治とは二つ体が必要になることがあるのだよ。まあ、そういうことだ……身内をかつぐような真似は好きではないが、二箇所に同時に顔を出さなければならないこともある。君たちは朝、私と言葉を交わしていたかね?」


 シュヴァイガート中将の問いかけを前に、アイリスとエリカは下を向いて口ごもった。眼前の事実を総合して判断するに、自分たちが護衛していたのは影武者――中将本人ではなかったということになる。


「それは……」


 朝に一度顔を見たばかりで、それっきり言葉を交わしていない。ならば――どこかのタイミングで入れ替わっていたとしても不思議ではない。そして、アイリスは影武者が必要になる理由を明確に理解していた。


(まさか――陸軍法務局の監察から逃れるために?)


 あり得ない話ではない。監察にあたるのは王都防衛の任を負った部隊であり、それぞれが警察権の執行を許可されるとともに、一般的な歩兵と同程度の武装を許可されている。その気になれば抵抗を排除して政治犯を捕縛することも可能であり、そうした例は政治史においても少なからず見受けられる。


「客人は来られたかな?」


 シュヴァイガート中将の口調は穏やかであった。だが、底知れぬ迫力が身にまとう雰囲気から滲み出ている。アイリスは槍の柄を強く握りしめて手の震えを抑え、強靭な精神力で持って自分の感情を制御して口を開いた。


「……いえ。事務関係者のみです」

「そうか……残念だな。面白い客人が来ていれば、何かしら土産話も聞けたはずだが。通してくれるかね」

「イエッサー」


 しゃんと背筋を伸ばして敬礼し、二人は裏口を抜けていく中将を見送った。マントを羽織った背中が遠ざかっていく――が、不意に中将が立ち止まり、薄笑いを浮かべて彼女たちに呼びかけた。


「今日は早く帰りたまえ。ここのところ、夜中は物騒だと聞く――遊びたい年頃だろうが、戻って休んでいるほうがいいだろう。ゲストハウスの料理人には少し上等な夕食を出すように伝えておいたから、そちらで楽しんでくれ……ではな」


 その言葉の意味をアイリスとエリカが理解しかねているうちに、シュヴァイガート中将は議事堂の中へと姿を消していった。


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