第101話 その誇りゆえに
「陸軍第七騎兵連隊司令、ゲイル・シュミットだ――通せないとは言うまいな?」
突如として眼の前に現れたエリカの父――シュミット大佐は、穏やかな笑みを浮かべたまま困惑する娘をじっと見つめていた。だが、その瞳に慈愛の色は欠片も見られない。訪れた士官たちと執務室に入っていくときの目――それが父ではなく、陸軍大佐の表情であることをエリカは感じていた。
(……違う。今はお父様じゃない。陸軍騎兵連隊のシュミット大佐だ)
意図的に家族であることを否定している――それを敏感に察したエリカの右手に、必要以上の力が入る。ならば――自分もまた、軍人であることを優先すべきであると彼女は判断し、命令に対して忠実に振る舞ってのけた。
「……できません、大佐。自分は――ここより何者も通すなとシュヴァイガート中将より命令を受けています」
「ほう。ならば……貴官は命令のために死ねるのか?」
ただ一言発しただけ――だが、それで十分なほどにエリカの精神は圧迫された。小銃を握る手が震えないようにするのが精一杯といった調子になった彼女を見て、アイリスは瞬時に状況を察した。家族であることと、一人の軍人であることの板挟みとなっている――その苦しみが分からない彼女ではない。
そして、シュミット大佐はそれを見事に利用してのけた。家族と任務の板挟みになるであろうことを理解し、強靭無比なエリカの心を容易く揺さぶる――人非人の振る舞いであったが、有能な士官の中には自らの責務に忠実であるが故に冷酷非情となり、
そこにどのような意図があるのかはまだ分からないが、外務機密を扱う会議の場に突然現れて通せと命じ、なおかつ娘に対して心理的な揺さぶりまで仕掛ける時点で尋常ならざる状況にあることに疑いはない。
(この人は何か、特殊な事情を抱えてる。明かすことのできない秘密……国内でそんなものがあるとすれば……)
いくつかの可能性がアイリスの脳裏をよぎる。その一つにして最有力なのが、シュミット大佐は職務執行を盾に議事堂に押し入り、現状の休戦協定案会議に何らかの異を唱える、あるいは会議を主導する陸軍タカ派に対して打撃となりえる何らかの政治的策謀を展開するというものであった。
陸軍タカ派が持ち出した休戦協定案はあくまで時間稼ぎであり、アルタヴァ共和国政府がそれを遵守することはないと踏んだ上で相手の協定違反に応じた総攻撃を行うための準備段階である。
もちろんながら休戦協定の恒常化を目指す派閥も存在するが、計画初期段階での主導権を掌握するのはタカ派であり、表面上は平和を望みつつもその裏側で剣を研ぐことをよしとしている。
特別議会を通して国内で調整を行うというが、恐らくその中身はタカ派による馴れ合いであり、実質的に国内での抵抗勢力を政治的に排除するためには何が必要かを討議する場となっているとアイリスは踏んでいた。
シュミット大佐がタカ派に与しているとは聞いていないし、もしそうであるならばわざわざこの場に現れる必要もない。ただ高みの見物を決め込み、状況が決するのを待っていればそれで十分である。わざわざ姿を現し、主戦主義者然とした振る舞いを見せつける必要性は極めて薄い。
(ならば――何らかの策がある)
不敵な笑みを浮かべたまま娘を見つめ続けるシュミット大佐を前に、アイリスは一つの確信に至った。大佐は休戦協定の噂を聞きつけると、それがまやかしであることを直ちに看破し、自らの望む戦争終結への道を探そうとしている。
「エリカ、大佐は――」
強張った表情で銃を握りしめるエリカの肩にそっと手を置き、アイリスが努めて穏やかな声で呼びかけた――それと同時、シュミット大佐は一度指を鳴らした。その瞬間、濃紺の制服を纏った屈強な兵士が次々と姿を現す。
「……そういうわけだ、軍曹。こちらにも事情がある」
「っ……!」
大佐は懐にそっと手を伸ばす。拳銃を抜こうとしていると思ったエリカは素早く銃剣を構え、自らの父に刃を向けた。同時に周りの兵士が殺気立ち、腰に提げていた剣を一斉に抜き放つ。
エリカがその気になれば瞬時に彼女の愛馬が駆けて全てを蹂躙するだろう――だが、一人でも残った人間がいれば確実に彼女も殺される。
「滅多な真似はやめたまえ、軍曹。一戦交えるつもりではないよ。貴官が死ぬつもりなら止めないが――」
「……」
エリカは一旦銃を下ろす。だが、意識は常に銃剣あるいはランスレストの騎兵槍に向けられている。警戒を解こうとしないままに馬上から大佐を見下ろし、瞳に冷たい輝きを宿してその場に立ち塞がる。だが、それが精一杯――半ば蛮勇に近い勇気をもって、彼女は自らの責務を果たそうとしていた。
「強情だな。だが……」
大佐は懐から一枚の令状を取り出し、エリカの眼前に突きつけた。そこには陸軍省外局法務班の文字――金粉入りの赤いインクで押された精緻な紋章と法務書記官のサインは、それが本物であることを何よりも雄弁に示していた。
「法務班……教えたはずだな。陸軍省内の監察にあたるのが役目だ。ここに目をつけられたら議員でも逃げられないと。そして――王都守備部隊に対して監察を命じることもできる」
「……!」
「つまりはそういうわけだ。通してもらおうか、軍曹」
令状を再び懐に収め、大佐はエリカに向き直った。だが、エリカはそこを動こうとせず、手にしていた小銃を騎兵槍に持ち替えた。
「……我々はシュヴァイガート中将から命令を受けています。ご用件があれば取り次ぎますが――」
「私は通せと言ったんだ、軍曹。ついでに教えてやるが、法務班の人間が用件を素直に口にすると思うか?」
「それでも、私は――」
全て言い終わる前に、大佐の右手が稲妻のように懐の拳銃を抜き放った。撃鉄は抜き放った時点で起こされ、人差し指はトリガーに掛かっている。
「先程聞いたな? 命令のために死ねるのか、と」
「っ……!」
「私は死ねる。そして――殺せるわけだ。だからこそここにいる。ヴェーザー陸軍大佐として殺してきた。相手が何者であってもな」
そこで一度言葉を切り、大佐は拳銃を突きつけたままエリカに歩み寄った。表情は穏やかなままであったが、全ての言葉から殺意が滲み出している。
(いけない――このままだと、大佐はエリカを殺してしまう)
アイリスは割って入ろうとしたが、背後に控える兵士が彼女の額に無言で銃口を向けた。動けば殺す――ただそれだけが現実であり、トリガーに指を掛けた者には躊躇も慈悲もないことは、他ならぬアイリス自身が誰よりも理解している。
そして――その中には、シュミット大佐も含まれている。娘が命令に従って立ち塞がるのであれば、自らはまた別の命令に従って娘を殺めることに躊躇いを持たない。
人間としては歪を通り越して狂気に落ちつつもあったが、王権の扶翼者としては彼以上の者は存在しない。例え娘を殺したことで自らの心が砕かれるとも、軍人としての責務を誇りのもとに果たすことをよしとする。
(脅しでできることじゃない。けど――大佐がそうなら、エリカもそうだ。自分が殺されても、責務を果たそうとするはずだ)
出来ることはただ一つしかないと判断したアイリスは、小さく息を吐いて手にしていた小銃を地面に落とし、続いて騎兵槍も捨てて武装を解除した。
「アイリス!」
咎めるようなエリカの声――だが、アイリスは迷わなかった。エリカがどこまでも一直線で誇り高い戦友だと知っているから、今は一つの躊躇いも無く動けた。アイリスは手甲の拳を握って固めると、全力でエリカの側頭部を殴りつけて気絶させ、続いてシュミット大佐に向き直った。
「……ここは通します。代わりに、ひとつ約束をしてください」
「何かな」
「目が覚めたら、エリカに謝ってください。将校ではなく、父親として」
「……」
暫しの沈黙――その後、シュミット大佐は深く頷いて答えを返した。
「……ああ、そうしよう。ここから私が生きて出てきたならば、な」