第一部
狂っているのは世界なのか。
それとも、僕なのか。
普段通りの日常を生きているのが僕のはずだった。
特に今日なんて、世界のどこを探したってこれほど健全で、普通な日常はないだろうと、そう確信できるような、そんな平凡でありふれた一日だった。
......いや、違うか。
一日だったはずだった......そう言わなければならない。
現実から目を逸らしてはいけない。
そう、僕が信じていた普通は......この日。
僕の目の前で、ガラガラと音を立てて......崩れ去ってしまったのだから。
代わりに暗幕が上がった。
新しい、バケモノたちの夜の時間が......
◇ ◇ ◇
「......ただいまー!」
当たり前だけど、自分の家に帰れば、自分の家の戸を開けることになる。
僕もそんな、極普通な当たり前に生きる人間の一人だ。
どこかの本では、『当たり前を作ることは何よりも難しく、それが崩れてしまうのはいとも容易いことなのだ......』なんてことを書いてあったような気がするのだけど、いまいち実感が湧かない。
だって僕は、当たり前がそこにあることさえ、当たり前だと思っているのだから。
アフリカでは今も飢えと戦っている子供がいるからって、自分がそうなるのはとても想像できない。
それが普通なのだとも思う。
「おかえり陸太。ちゃんと手を洗いなさいよ。インフルエンザ、流行ってるらしいんだから」
「はーい」
そして家に帰るとお母さんがいるのも、当たり前だ。
僕は靴を乱暴に脱ぎ捨て、洗面所へと向かう。
鏡に写るのは、紛れもない僕、六津陸太の顔。
運動しやすいように髪を短く揃えた、健全な中学一年生そのものの顔だ。
別に片目が義眼だとか、頬に十字の傷が入っているだとか、そんな普通じゃないことはどこにもない、普通な顔。
それを特に何の気概も覚えることなく一瞥し、僕は水だけでぱっぱっと適当に手を洗って、次は二階へと走った。
「陸太ー、ちゃんと石鹸で手は洗ったのー?」
「当たり前だろ、母さん!」
母から逃げるように自室に飛び入り、ガチャ、と鍵を閉める。
「ふぅ......変なとこで鋭いんだよなぁ......」
そう呟いて、勉強道具やら宿題やらが詰まった通学用バッグを粗雑に放り捨て、着替えもせずに僕は携帯用ゲーム機を手に取り、ベッドに転がった。
最近流行りのゴッドヒーターを友達と通信プレイする約束をしていたのである。
今日は部活も早く終わったし、たっぷり遊べる時間はある......のだが。
「......あれー? 五時にオンラインになるって言ってたのに、二十分経っても全然じゃないか、あいつ......」
うーん、一人で素材を集めに行ってもいいんだけど......
やっぱやーめた。
先に僕の日課を始めるとしよう。
一応電源は入れたままにしておくけど、僕が遅れても、約束を破った友達の方が悪いんだもんね。
日課......読書を始めるために、僕は一冊の薄い本を手に取る。
まぁ読書が日課、なんて言っても、とても人に自慢できるようなことではない。
だって、僕が読むのはこの一冊ただこれだけなんだから。
『へいわなにちじょう』
そう平仮名で大きく題された絵本。
いつからだったかは忘れてしまったけれど、僕は毎日、この本を読むのが日課になっている。
どうして読んでいるのかは分からない。
どうして読み始めたのかも分からない。
ただいつの間にか、この本を読むことは僕の日常の一部になっていた。
僕という人間の他にない特徴を挙げるとしたら、ここ以外にはないだろう。
ベッドに寝転がった姿勢のまま、僕はページをめくる。
『きょうもまた、へいわなにちじょうだった』
今の僕と同じように、ベッドに寝転がる一人の少年の絵を背景に、最初のページにはそれだけが書いてある。
『たいようはきょうも、おはようとあいさつをしにきた』
『ぼくも「おはよう」とあいさつをした』
次のページには、可愛くデフォルメされた太陽と、その太陽に笑顔を向ける少年の姿が。
『「いただきます」といって、ごはんをたべた。ごちそうさまでした』
『きょうはきらいなにんじんも、のこさなかったよ』
その次のページでは、空の食器が並べられた机の周りに座った、さっきの少年とそのお母さん、そしてお父さんが両手を合わせている。
『がっこうでべんきょうをした。むずかしいところはともだちにおしえてもらった』
『ふとそとをみると、あめがふっていたので、きょうはかさをもってきてないなぁと、ゆううつなきもちになった』
またまた次のページでは......学校で授業を受けている子供たちと......しとしとと雨が降る外を眺める、少年の......姿、が......
◇ ◇ ◇
「――陸太ー、ご飯できたわよー」
「はっ!?」
......どうやら僕としたことが、本を読む途中で眠ってしまっていたみたいだった。
外を見ると、もう太陽はすっかり沈んでいる。
さすがは冬だ。
こんなに日が落ちるのが早いなんて。
っと、感心している場合じゃない。
付けっぱなしだった携帯用ゲーム機の電源を落とし、読みかけの本を持って、僕は急ぎ足で部屋を出た。
「......ん?」
途端、動きを止める。
変な匂いがする。
というか、純粋に臭い。
鼻につんとくる臭い......刺激臭というやつか。
思い当たることと言えば......
「母さん、料理失敗でもしたのー?」
「えー! してないわよ、そんなの」
「じゃあこの段々強くなる刺激臭は何なんだよ!」
ダイニングまであと数歩、といったところで、強すぎる刺激臭に、僕は思わず怒鳴った。
もう鼻をつまんでいなければ、とても動くことだってできないほどに、臭いが強い。
「刺激臭って何よー」
まったく。僕の母さんはいつから鼻がおかしくなったんだ?
こんな肉が腐ったような臭いを、どうとも思わないなんて。
「だから! この腐ったみたいな臭いは何なんだって......」
僕はいよいよ頭に来て、ダイニングの扉を勢いよく開け、瞬間溢れ出た今までとは桁違いの刺激臭に顔をしかめ、そして......見た。
見てしまった。
「――腐ったって......それはいつものことじゃないの」
それは、確かに僕の母だった。
DNAで調べれば、間違いなく僕の母だと断定される。
見間違えようもない、母だ。
しかし、それは母ではあったが......同時に、僕の知らない母だった。
黄土色の皮膚。
ただれた肉。
一歩を歩くことすら難しいと思われるほどに、欠けてバランスの悪い足。
眼球も片方は機能していないと思われるほどに白目を剥いていて......
まぁありていに言えば......ゾンビ、という奴だった。
母がゾンビ、である。
「は......あ......ああ、ああああああああ!!」
「どうしたの、陸太!」
逃げなければ。
真っ先にそう思い付いた。
――でも、どこに?
外に決まってる。
――母さんはどうするんだ?
そんなのは知らない。
あれは母さんじゃない。
あんなバケモノ、僕は知らない。
「ああああああっ!! うわああああああああ!!」
気が付けば、僕は駆け出していた。
脇目もふらず、真っ先にドアへ。
外へ。
「陸太!」
グシャ。
ただれた肉塊が地面に落ちた音がした。
「ああああああああああっ!! あああああああ!! あああああああ!!」
意味を為さない悲鳴を上げながら、何度も何度もドアノブを回す。
開かない。開かない。開かない。開かない。
あかないあかないあかないあかない。
アカナイアカナイアカナイアカナイ。
「落ち着いて、陸太!」
「ああああああああああああくぁああああああけえええええええええ!!!!」
開け、と叫んだつもりだったけど、実際なんと言ったのかは分からない。
とにかく必死にガチャガチャとノブを回し続け、ようやく鍵が掛かっていることに気付いたのが、ちょうどそのころだったと思う。
「あいたあああああああああああ!!」
文字通り逃げ出すように、僕は地獄から飛び出した。
ガンッ、と扉が壊れるのではないかと思うような強さでドアを閉める。
あのバケモノが出てこないことを祈って。
「はあ、はあ、はあ、はあ......」
とにかく、今はあの家から少しでも離れたかった。
もう息を切らしているというのに、僕は駆け足で、どこに行くとも決めず走り始める。
しばらく走ってみると、暗くてよく分からないけれど、路上に集まる十数人の人を見つけた。
今日は祭りでもあるのだろうか。冬だというのに?
いや、それはどうでもいい。
それよりも、誰かに助けを求めないと。
人だかりに近付いて、僕は叫んだ。
「誰かぁ!! 誰でもいいんです!! 助けてください!! 僕のっ、僕の母が、ゾンビになっちゃったんです!!」
一斉に、人だかりが僕の方を見る。
そこには角が生えた者がいた。
八重歯が異常に鋭い者がいた。
オオカミの顔をした者がいた。
口が頬まで割けている者も。
頭に大きな釘が刺さっている者も。
上半身と下半身で分かれている者も。
みんながみんな、バケモノだった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」




