ウラルは赤にシベリアは白に染まり北極は蒼く輝く
大正二年 英国
英国ヴィッカース社の造船所
ここで二隻の日本海軍籍の船が竣工した。
一隻は高速機動を活かした、砲撃特化高速大型重巡洋艦甲一型またの名を金剛型砲撃重巡洋艦一番艦金剛。
もう一隻は、初めてm法表記の砲を搭載した戦艦。扶桑級超弩級戦艦一番艦扶桑であった。
共に35kt/hを超える快足を持ち、扶桑に至っては世界初となる41cm連装砲をわざわざ日本から輸送して据え付け、当時としては破格の32000トンを軽く超えていた。
また、史実の扶桑型とは異なり、非常に洗練され、完成された戦艦との評価も高かった。
大正5年 神戸
「この艦を伊勢と命名します!」
こう宣言したものの顔は満面の笑みだった。
翌年就役した伊勢は扶桑級四番艦河内から連合艦隊旗艦の任を移譲された。がすぐにこれを返上して、特別符番艦と呼ばれた。
史実の伊勢型と今伊勢級の違いは、なんと言ってもその主砲門の配置と大きさだろう。伊勢型が35.6cm連装砲6基12門で竣工したのに対し、伊勢級は41cm3連装砲4基12門であった。
さらに、衛星とのデータリンクや、レーダーなど、はっきり言って史実ならばあり得ない技術てんこ盛りだった。同時期に就役した英国リヴェンジ級も似たような状態だ。
まあ、こうなった理由は進水式の際に命名を行った人物が1から伊勢の設計、開発建造に関わっていたからだった。伊勢は就役25年後に除籍の上で彼女に下賜されることが決定していた。たとえ、戦役などがあろうと下賜は行われると発表された。伊勢は就役直後ロシア、サンクトペテルブルグに派遣され、皇帝ニコライ2世の救出に一役買った。
家族は既にバイカル湖半にて、日本軍の手厚い保護の元安全が確保されているため安心して逃亡に入った。
途中ポルシェヴィキの追っ手に見つかり危うくという場面もあったが、モンゴロイドの顔つきをした白人で軍服とおぼしき装束に身を包んだ一団が現れた。
新たな敵かと警戒していると、リーダーとおぼしき女性が、警護の騎士になにやら手紙を手渡し後ずさる。
何故か追っ手は迫ってこない。手紙は、日本の嘉仁帝からの親書であり、彼女らは日本に協力してくれている、遥夢の国の将兵であり、皇帝がサンクトペテルブルグで待つ伊勢に乗り落ち着くまでの警備、護衛を助ける旨が書いてあった。
また、イルクーツクの家族の元にもアカが迫ったが彼女らの別働隊によりウラジオストクに身柄は移され、安全は確保されているとも描かれていた。
ニコライ帝が、手紙を読んで仇成した自分に、虎の子の戦艦を出してまで救出してくれるだけでなく、家族の安全にまで気を配ってくれた日本の思いに涙している間も追っ手を蹴散らすものや、皇帝の乗る馬車を担いですたこら伊勢の待つ方向へ走るものなどに助けられ、
モスクワが近郊が赤に染まってからわずか三日で皇帝一家は、ウラジオストクで再会を果たした。それから遅れて、三日、各重臣も到着した。
ウラジオストクにおいてニコライ帝は、
「余はかつて、自らの闇を重ねかの国を討たんとした。
そんな余を、自らの国土を削りかねない行為を行ってまで許してくれたばかりか、今こうして出来上がったばかりの新造艦を使ってまで助けてくれた。
かの国には頭を下げるほか感謝の意を表す方法を余は思いつかない。
我が国土は今二つに分かたれた。これをまた一つのロシアにするには余の短い命と性から来る考え方では難しいと考える。
未来は若人に委ね老いるのみの分国の為政者は去ろうと思う。
余は新たなる帝国を率いるもの最後の公務とする。余は新たな皇帝としてオリガを指名し、今このときよりに彼女が、新たな皇帝となると宣言する。」
そう宣言すると、長女の前にひざまずき臣下の礼を取った。
日本や、英国は即座にこれに反応し日英同盟に誘いオリガ新皇帝はこれを受けるよう臣下に勅旨を出し、英露日の3大国家からなる同盟が組まれた。
翌年、これにイタリア王国とフランス共和国が加盟し5ヶ国永世同盟が締結される。