散切り頭をたたいてみれば…頭が空だと音がよく響くなあ
一部の国に対して失礼とも取れる内容ですが、このうち一ヶ国の扱いはこの後もっとひどくなります。ぅうぇっひぇっひぇっひぇ
明治19年 ロンドン
「いか、被告人26名を大量組織殺人の罪において、絞首とする。」
貨物船ノルマントン号沈没事故において乗客である日本人25名を、黄色い猿と蔑み見殺しにした上で自分たちはのうのうと救命ボートで逃げた同船の船長以下、乗組員の裁判(王国最高法院における最終審)が行われていた。同様の裁判は日本でも行われていたが、日本では、英国側の決定を持ってこれに倣うとしていた。
判決が下ると被告人達は騒ぐが、それが元となったかは分からないものの刑が即日執行されることとなった。
明治23年 和歌山
オスマン帝国海軍フリゲートが台風により座礁。乗員600余名のうちわずか1割ほどが生存という大惨事となった。
明治24年 大津
かの有名なお馬鹿な俺かっけーな警官が大国の皇太子に斬りかかったという事件がここでも起きようとしていた。
「チィェエストゥォオーーー!」
ロシア皇太子の乗る人力車の前に立ちはだかった馬鹿警官。するりとサーベルを抜き構えた。そう構えたまではよかった。直後、先の気合いの入った声が聞こえると共に横に吹っ飛んだ。
「なーんばしよっとっとっかいに。馬鹿やっとる暇有るんやったら琵琶湖の南北水泳50往復を1時間以内にしてこんか、こーのあんぽんたんがぁ。それとニコライさんとやら、この国の国力を舐めないことです。それともう一つ、本件はご内密に。あれ?あのすかぽんたんどこ行った?はぁ?あいつが食べたぁ?どんだけ溜まってんだよ。ったく見境ねえったらありゃしねえ。」
現れたのは遥夢の従姉の神子。ものの見事にライダーキックで警官を蹴飛ばしたのだ。
明治27年 大連
旅順軍港は燃えていた。それだけではない。朝鮮半島の至る所もである。
日本が800年を最後に超長期の鎖国に入った上、つい最近まで自分たちも鎖国状態だったので、日本は今も自分たちより劣った国だと思い込んだ清が、朝鮮とともに日本に戦争を仕掛けた。もとい仕掛けるよう仕向けた。日本は、そんなのよりロシアの今後を英国と話し合うので忙しかった。
痺れを切らした清が台湾を、朝鮮が対馬を侵した。そして、住民に対し、虐殺、略奪陵辱の限りを尽くそうとした。のはいい。仕様とした。ができなかった。
日本は怒った。
佐世保に転属していた平安級戦艦4隻を旗艦とする艦隊が清国海軍の最大拠点青島軍港を。陸軍が調子に乗った朝鮮をそれぞれ叩きにたたいた。
属にゆう日清戦争である。
日本は英国が取りなしたという体で馬鹿どもを交渉の場につかせ、朝鮮の独立、満州地域の分離独立。
以上の二点を履行する場合賠償金請求はしないという講和案を提示した。
日本側の横にはかつてアヘン戦争(この世界の英国は何故かものすごく腹が白い。なのでアヘン戦争の原因は英国が清にアヘンを売りつけたからではなく、英国がなかなかアヘンを売ろうとしないことに痺れを切らした清が戦争ふっかけた。)で自分たちをぼっこぼこにした英国がにっこにこして座っていたため、清側は顔を蒼くしながら条件を呑んだ。
朝鮮はわめいたが、そもそも当時清の一部と見なされていた朝鮮が何故この場にいるか3人とも首を傾げていた。
明治37年 ロシア 沿海州
皇太子時代のトラウマである極東の島国での出来事を消し去りたい皇帝は、日本に戦争をふっかけた。だが、日本は応じない。そこで、日本領である樺太にちょっかいかけてみた。すると、ちゃんと言ってくれたらもっと良いところ貸してあげるのにと返された。
おちょくられたと感じたロシアは同国最強の艦隊をわざわざバルト海から、回航した。
その道のりの最後日本海に入った際に、900年ものの骨董戦艦大和を擁する、日本艦隊と戦うことになった。
日本側の旗艦は新鋭艦の三笠で有った。英国と日本の技術のハイブリッド艦である本艦に率いられ、かの有名な東郷ターンが行われた。
6隻もの46cm砲弾が降り注ぎ、ロシアは講和の席に着かざるを得なかった。
講和の席において日本は皇帝以外の家族がイルクーツクに住んだ上で皇室に出入りするとある人物との関係を絶つこと。(きちんと絶ったか、密会は無いかなどの監視あり)、南下政策の撤回などの条件を言いわたされた。
これらを呑んだ場合、不凍港として佐渡の一部租借、賠償不請求太平洋へ出る際の領海航行時認証などのロシア側にとって嬉しいものが提示された。
この後、日本や英国にとっての北からの脅威はひとまず去ることになったのである。