ジンの話
急な坂を転がります
ジンとヒラトは双子であることを前面に押し出したことがない。気づいている人もいればそうでない人もいる。むしろ気づいている人はいない気もするが。
その程度のことで、自分たちのことを双子として見てほしいなんて思ったことは一度もない。
双子としては自分たち自身も関係もどう見られても痛くも痒くもないのだ。
文句を言ってくる人は言ってくるし、睨んでくる人や胡乱げに無遠慮に見てくる人だっている。
ジンはそういうものだって諦めているし、ヒラトはまず気にしていない。
ジンはそれなりに相手を警戒するし、まず踏み込ませないし踏み込むこともしない。だからこそ浅く広く交遊関係を築ける。
対してヒラトと言えば、全くもって手の余ることに自覚なしに人に踏み込んで引っ張り込む。そうして魅了して惹き付けて周りに人が増えていく。
ヒラトはにこりともしない。表情筋が死滅しているんだなんて言う人もいる。そういう人たちはジンが手を下すまでもなくヒラトを気に入っている人たちが処理しているから手を出すことはしない。ジンは一歩引いたところでヒラトが人に囲まれているところを見るのが好きだ。
求められ、たくさん名前を呼ばれている。
それを羨ましいなんて陳腐なことは言わない。そもそも違うのだし。
ジンはただ単純に嬉しいと思う。胸元にぽっかりと浮かぶのは、暖かなもの。ぽかぽかしていて自然と口元が緩んでしまうもの。
ヒラトが必要とされている。
ヒラトはジンの大切な片割れ。たった一つの己が半身。
ヒラトの盾となり養父であるリライトの影となる。それがジンの生きる意味。ジンがジンとして選び取った生きる途。誰にも邪魔はさせないし反対だって何のその。
構わない。誰に認められなくたって、片割れと養父が肯定してくれる。間違っていたのなら道を正してくれる、怒って、叱ってくれる。
ジンは自分の正しさを曖昧なものとして認識している。筋がなく、芯がない。ジンにとって正しきものとは家族だ。家族がそう言うのであればそうだし、違うと言うのならば違う。
死にたがりではないけれど、ジンは片割れと養父のためならば簡単に死を選ぶ。例え彼らを何よりも悲しませてしまうとしても。彼らを生かし、彼らの行く途を活かすためならば。
ジンは、己の命を差し出すことが何より簡単な選択だと思っている。
投げやりでも自棄っぱちでもない。
単純明快に、ジンが今生きているのは二人が居るからであって、二人が居なければ疾うに絶っていた命なのだ。それを何時なんどき刈り取ったところで問題はない。己の命は既に喪ったものだ。それを繋いだのは二人であって、ジンの意思ではない。
だから、そう遠くない未来。
片割れにも養父にも己が必要なしと判断した暁には、この命を棄てるつもりである。
そんな自分を、ジンは嫌いじゃない。
己が命を自分ではない相手に依存して左右する。生死を己で決めることはしない。
愚かだろうか。
そうなのかもしれない。
それでもジンの生きている理由は片割れと養父に在るのだから仕方がない。もうジン自身さえどうすることもできない。どうするつもりもないけれど。
朝が終わる。時間はおおよそ十時。
朝と昼の境目は微妙で、挨拶だって迷ってしまう。それは昼と夕、夜もだけど。
結局のところそれぞれの判断で言葉は変わるものである。
ジンがぼんやりと教本を眺めているといつのまにか授業は終わっていた。隣席の学友に呼ばれ、今気づいたと驚いていれば呆れたように笑われる。
「しっかりしろよ」
「んー。……あー、すっげえぼーっとしてたわ」
「センセーも心配そうに見てたぜ」
「え、気づかれてた?」
「どこからどう見ても上の空でしたヨ」
「……オウ……」
顔を覆い、ジンは項垂れた。それなら注意してほしかった。
「評価下がってないといいなあ……」
振り返って、項垂れたままのジンの旋毛を見た前の席に座っている生徒はジンの隣席と自身の隣席に座るクラスメイトに胡乱げな目を向け、コイツ何言ってんの? と眉を寄せた。
顔を見合わせた彼らの隣席の生徒たちは互いの顔を見、さあ? と肩をすくめる。
ジンの隣席の生徒は自身の机に頬杖をつき、何でもないような顔を取り繕う。
「大丈夫じゃねーの。逆に心配されてたっぽいし」
「いやねーよ」
「えー? あれで心配してなかったら逆に驚きだっつーの」
前の席の生徒に旋毛を押され、慌てて旋毛を守るジンに学友たちはケラケラと笑う。
ジンは、あまり内面を曝さない。それは貴族だったら当たり前なのかもしれない、腹の底で何を考えているのかよく分からないのが貴族だと総じて平民たちは思っているから。貴族同士が会話をしていると何の話をしているのか全く分からない。そのくらい難解で、まるで幾重にも薄っぺらい皮を被せた言葉を返し合っている。
正直彼らは何が楽しくてあのような会話をしているのか。
それは平民には分からないことで、その上まだ教育を受けている段階の平民生まれの平民育ちにはさっぱり分からないことである。そもそも分かろうとも思っていない。
しかし、ジンは違う。違う、はずだ。
ジンやジンの学友たちが所属しているのは二学年Bクラス。商会の子息子女、または平民のなかでも裕福な暮らしをしている上級平民、もしくは平民でありながら特待生として入学した優秀な学徒が集められたクラスである。
まずもって、貴族が所属するクラスではない。
王族貴族たちが所属するのは二学年Aクラス。勿論、ジンたちが入学して二年目ということで二学年が付いているだけであって、先輩に当たる一年早く入学した生徒たちのクラスは三学年と付いて区分されている。
ジンは、平民であるはずだ。もしくは裕福な暮らしをしているだけの、少なくとも貴族ではないはず。
だというのに、学友たちはジンを貴族のように思うことが少々ある。多々、ではない。少々である。ほんの少し、僅かな一瞬。
ジンはまるで貴族のような仕草と表面を作って、学友たちを漏れなく拒絶する。線引きされて距離を置かれる。
それを歯痒く思っている、だなんてきっとジンは欠片たりとも察してはいない。鈍い。凶悪だ。誑し込むだけ誑し込んで鈍感なんて。
ジンは自身への好意にどこか消極的だ、と学友たちは思っている。好かれていると思っていないというか、むしろ悪印象を持たれているとでも思っているというか。
ともかくどこまでも己に対する評価が低い。
「んで? 普段はマジメーなジンさんが上の空でなあに考えてたのさ?」
「あー、いや。大したことじゃなくってさあー」
逸れる。
「あ、そういや課題やってきた~? 俺やろうやろうと思いながら……」
ジンは気づかない。学友たちが一様に寂しそうに眉尻を垂らしたり、悔しそうに拳を握っていたり、切なそうに目を伏せていても。
ジンは、気づかない。
気づけない。──彼にとって自分とはそんなものだから。
「……ジン」
ふ、とジンの雰囲気が変わる。学友たちはまたかと胸中で歯軋りする。嫌な予感だってするのに。
「ヒラト。どうしたの?」
「……こっち」
連れていくな。そう、言えるほど距離が近かったらいいのに。
ジンはその距離に誰も踏み入れさせない。──学友たちにとってもクラスメイトであるヒラト以外には。
「ちょっと席外すわ」
「おー。もうあんま時間ねぇしとっとと切り上げてこいよ」
「え、わ。マジだ、ヒラト早くしよ」
「……」
無愛想なヒラトの背を押して教室を出ていくジンの後ろ姿。それを何も言えずに見送る自分たちはどんな風に映るのだろうか。
きっと、酷く惨めなのだろう。友愛に焦がれて、注ぐことすら拒否されそうなことに怯えて口を噤んでいる。欲しいなんて我が儘は言わない。せめて、勝手に注ぐことだけは許してほしい。返しは要らない。作り物は要らない。対価は要らない。
ただ、ジンが思っていなくてもジンのことを友達だと思うことだけは許してほしい。
そう思いながらもジンへ伝えることはないのだけど。──自分たちはとても自分勝手で、その上すごく臆病だから。拒絶されることも否定されることも怖くて、かと言って注がないなんて選択肢は初めから存在しないのだからややこしい。
まばらに人がいる。注目を集めやすいヒラトと一緒にいると面倒事が山のようにやってくる。
それは、わざわざヒラトに言うことではないから口にしたことはないけど。
「どーしたの? なかなか珍しいよね」
「……じん」
あれっ、て思った。
「……ジン、きいたんだ」
「へ? ええっと、なにを?」
ジン───。
泣いて、いる。
大切な片割れが、こころで、泣いている。
もう片割れの名前を呼びながら。
ジンと名前を呼んで、その瞳に映しながら。
「ジンを、わるく言う、コトバ」
ぱたり。
───黒がかった緑が溶けて、泪が、落ちる。
ジンにとって。
“記憶”は、酷いものだった。醜くて酷い、ものだった。
当時の幼いジンが悪夢を見ていたのは“記憶”のせいだった。
そして、家族にしか執着できなくなったのもまた。
“記憶”があって初めて形成された根元。根本。性格の、はじまりのハジマリ。
“記憶”なんて無ければ良かったのに。自分一人だけが“記憶”を持っていたとき、ジンの寝起きの一言目は大概が「それ」だった。
ジンの“記憶”は死で始まって死で終わっている。それだけが全てで、だからこそジンは自分の生死に興味が持てない。生死を己で決めない。
ジンは。
死んでもいい、ではなく、死にたい、と思っていた。
死のうとしたことは何度もある。生きていたって意味がない。生きている理由なんて有りはしない。生きる意味なんてどうでもいい。生きる理由なんて探したくもない。
安直に言えば、迷子だった。
自分一人だけが知っている世界。自分だけにある、“記憶”。
苦しくて苦しくて。父親が家を空けているのをこれ幸いとその時も死のうとしていたのだったか。一人残されることになるだろう片割れのことが頭を過らなかったわけではない。だけど。
それ以上に知性を持っていることが何よりも辛くて。何よりも、死にたくて。
せめて、“記憶”さえなかったのなら。
そうして死に手を伸ばそうとしたジンを縫い止めたのが片割れの兄弟、ヒラトだった。
ヒラトは泣いていて、しゃっくりをあげながらぐちゃぐちゃな言葉を吐いていた。それは支離滅裂で結局のところ何が言いたいのかも分からなくて。
でも。
「死なないで。置いて、いかないで」
今はまだ何もわからないはずの幼子が呼び止める。必死に服の端を掴んで、力の限りで縫い止めて。
死なないでと喚く子ども。
置いていかないでと懇願する子ども。
「……“記憶”が、あんのか」
ほとんどかすれた声で呟けば、それはひどくしっくりきて。ああ、そうなんだなと納得した。
ヒラトの“記憶”は、ジンほど酷くないようだった。どころか温かく、ヒラトが思い出の欠片を話してくれる度に心がぽかぽかと暖かくなった。
一緒だけど違うんだな。捻くれるでもなく、素直にそう思った。
それから養父が訪れるまでジンはヒラトを守ろうと決意してきた。イザと言うときにはまず自分の命を犠牲にして、出来ればヒラトが逃げられるように。
ヒラトの前は真面目な大人だったらしく、ゲームや漫画に手を出したこともないようだった。そのせいか想像力があまりにも乏しい。魔法やら妖精やら。ヒラトは訳のわからない言語を聞く外国人のような顔をしていた。きっと、英語を聞く自分はこんな顔をしていたんだろうな──ごく自然に“記憶”を思えたことに驚いた。
守らなきゃ。……違う。守りたい。
義務も正義もなかった。ただ守りたかった。
だから男が村を訪れ、養父になったあの日。ジンはもういいだろうかと思ったのだ。
もう、死んでもいいだろうか、と。
喚いて懇願した片割れには新しい家族が出来た。もう一人ではないし、独りにはならない。自分がいなくても大人の“記憶”があるのならば、養父がいるのならば。───もう、大丈夫だろう。
そうして今度こそ死のうとした。
結果的にはまたも失敗。その時はヒラトに加えて養父にまで縫い止められ、抱き締められて逃がさないとばかりに力を籠められた。
びっくりした。
まだ止めてくれるのかと思ったし、なんで止めてくれるのだとも思った。
二人は、ジンの家族は、ひどく怒って。
とてもとても悲しげに憤って。
やめてくれ、と泣きそうに訴えてきた。
「……なんで」
かぞく。その一つの単語は、言葉にしてみれば三文字、漢字にしてみれば二文字のそれは。
「ジンはぼくの兄弟だからだよ!!!」
「お前はもうオレの家族だろうが……!!」
とても、尊いもので。
「いいの……? おれが、かぞく、で……」
ただひたすらに尊いもの、なのに。
当たり前だと返してくれた。怒鳴るような大声で答えてくれたひとたち。
ジンは一度、ならず二度までも自分の命を手離した。ジンの命はもう自身の手元にはない。
手離して宙に浮かんでいる命。それを何時か片割れと養父のために使いたいと、そう思っている。使えたらいいなと少しだけ夢を見ている。
ジンにしてみれば自分を悪く言う言葉なんてどうでも良かった。ちっとも気にならなかった。
だから気づかなかった。
こんな自分を、片割れの兄弟を。
何時また死のうとするかもわからない半身を。
大切に思ってくれている、そんなヒラトが悪意ある言葉をどう感じるのか、なんて。
少し考えれば分かっていたはずなのに。
考えが至らなかったのは自分。
思い至らずに泣かせてしまったのは自分。
させなくてもいい苦しい思い、悲しい思い。そんなものを抱かせてしまったのは他ならぬ自分。
自分を殴りたくなった。
呑気に聞き流していた、能天気な自分を。
「……ごめん、不愉快な思いにさせたろ」
「ちがう。ちがうよ、ジン」
「なにが」
「そうじゃないんだよ、ジン」
「って、わ」
トン、っと肩を押されて壁に押し付けられる。縋るような力で制服を掴んで、肩に乗せられる頭。う、としゃっくりの合間に聞こえる震えた声。
「なんで、なのかな」
「え? っていうかコレ、目立つ……!」
「なんで、僕に優しくしてくれる人がジンを悪く言うの。なんで、僕がジンを悪く言うことに同意すると思っているの。なんで、なんで……っ」
ヤバイ、と思って止めようとしたときにはもう遅くて。廊下だけではなく、教室内からも視線が集まっていることに意識が向いていたから。
そんなものは、言い訳にしかならない。
なんでっ、ジンを悪く言う人たちを殺しちゃ、ダメ、なの……?
ブツンッ───。
ジンにとって大切な片割れは、同等かそれ以上くらいジンのことを大切に思ってくれている。
キレて魔力が漏れ始めている片割れ。その姿を見て、不謹慎ながらも嬉しく思ってしまった。
そんな自分を反省しつつ、ジンは少し考えて。
「殺したら、父さんの手伝いが出来なくなるじゃん」
「…………とー、さん」
「そう、父さん。俺はさあ、別に自分がどう思われてもどう言われても気になんないよ。ヒラトのこと言われてたらそりゃムカつくしぜってぇ何かしらしちゃうだろーけど、でも。──そんなどーでもいい相手より、父さんの方が大切だから。父さんが大切にしてる、師匠の方が大切だから。だから、出来ることがあるのなら手伝いたいじゃん。でもさ、今人殺しちゃったらダメだよ。別に一生人を殺すなとは言わないよ? でもね、ソイツが本当の悪党ならまぁ理由は出来るだろうけど。そうじゃないんならさ、ソイツにだって家族、いるんだよ。ソイツを大切に思ってる家族が、たぶんまだいるからさ」
家族から家族を奪うのは、ダメだろ?
「……まあ納得してくれなくていいけど」
目的は気を逸らすことだしね。
考える素振りをしたヒラトの首裏を叩き、簡単に意識を飛ばして力の抜けた躯を支える。
「っヒラト……!」
「あ、王子!」
ヒラトを、片割れを呼ぶ声がする。
ヒラトを思って、睨んでくる人がいる。
「お、おいジン!」
「あっちなんかすげぇ形相だそ?!」
ジンは心配そうな顔をするクラスメイトにへらりと笑いかける。それはいつもと比べてより「作った」笑みで。それを向けられた学友たちは吐き気がして。
「───あ、王子さま。ヒラトのことよろしくお願いしますね~」
ヒラトを王子とその親友に託しながらジンは考える。へらっとした笑みの下でひどく冷淡な顔をして。
考える。
ヒラトに悪意をこぼした人物を。
ヒラトに苦しみを覚えさせた人物を。
たくさんの顔とデータがセットでジンの脳を駆け巡っていく。ジンの意識はパラパラと止まらない速度で記録したアルバムを捲っていく。
いつかの日、どこかの誰かは冷たい手で顔を覆っていた。ごめんなさいと震える謝罪は一晩だけ続いて、夜が明けると綺麗さっぱり家族以外の親交があった人たちのことを忘れてしまっていた。