「同じことを考えます」
-5-
明良の左隣の席だけは、いつも空席になっている。
明良の通う「私立神戸学館高校」では毎朝ショートホームルームがあって、そこで担任が出席確認の点呼を取る。
本来なら一人一人名前を呼んで行うものなんだろうけど、うちの担任はどうやらそれが面倒くさいようで
教室の扉の前で「全員いるなー?」と一纏めにしてそれを終わらせてしまうのだ。
そのあとで一番前に座っている明良は担任が「~(おそらく明良の隣の席の生徒)は今日も休みだな……」
と小声で呟いているのがいつも聞こえるから、その生徒がいないことには気付いているようだった。
だが名前のところだけは聞き取れず、そのせいで未だに隣の席の生徒の姿どころか名前すら分からなかった。
けれども学校に来てない、ということはおそらく不登校か引きこもりかどちらかだろう。
どうして学校に来ないのかまでは想像したくなかった。もしいじめなどが理由だったら、明良はこのクラスに
そういう人を傷つける行為をするやつがいると思わなくてはならないからだ。
要するに、綺麗な現実の裏側の汚いものに蓋をしているのだ。
だけどそうじゃなかったら。いじめが原因ではなかったら、おそらく学校へ行くことを無意味と感じているとしたら。
いつかは明良も隣の席の生徒のように学校へ来ることがなくなるかもしれない。
いや、今と同じように何もしないままなら。学校へ来ても授業中は寝ているだけ。放課後はさっさと帰宅して
好きな本を読んである程度勉強したらとっとと睡眠。
そんな生活をしていれば、そのうち必ず学校へ通う意味を見出せなくなる。
明良はそんなこととっくに気付いていた。"こんな自分は早く変えなければいけない"ことに。
本当はそんなことには感づいていて、自分が何をしたいかもとっくに分かっている。
だけど、一度の失敗が外れることのない楔となって明良の心に突き刺さっているせいで何をしようにも
一歩を踏み出せないでいる。一歩踏み出そうとすれば、刺さった楔が食い込んで痛みを与えてくる。
その痛みを味わいたくないから、明良は動くことをしなくなった。動けば痛いことを知っているからだ。
しかしこの前の体育館での彩弥香との会話で一つ気付かされたことがある。
それは、「楔が食い込むなら自分で引き抜くしかない」ということ。
楔のせいで動けないのなら、楔を引きちぎり、動いても痛みを伴わないようにするしかない。
だがその楔は、明良一人で引き抜くには力が足りないほど深くまで食い込んでしまっていた。
そういうわけで明良は今、抜けない楔を一人で必死で引き抜こうと苦戦している最中だった。
あの体育館での一件から数日が経っていたが、彩弥香が返事を催促してくることはなかった。
まるであの日などなかったように、今まで通り時々休み時間に明良の所へやってきて他愛ない話をしていくだけ。
明良はそれをありがたく思った。自分自身と戦っている明良を気遣うことはせず、少し離れてそっと見守ってくれている感じだった。
この楔だけは明良が自分で引き抜かなければ意味がないからだ。
それでも未だに楔を引き抜けないのは、まだ失敗を引きずっているからなのかもしれない。
あの失敗がフィードバックし、明良の勇気を容易く打ち砕く。
いつまで経っても不安に苛まれ、縮こまっている自分を女々しいと思わずにはいられなかった。
-6-
その日の放課後、明良はある場所へ行こうと思った。
一旦家に帰ったあと、自転車で十五分ほどかかるその場所へと向かった。
「……っ、バスケ辞めてからやっぱり体力落ちたな……っ、はぁ…はぁ…」
息を切らせながら、少し急な坂道をペダルをこぐ足に懸命に力を入れてこぎ続ける。
太股の筋肉が悲鳴を上げている。だんだん乳酸が溜まってきて足が動かなくなってきていたが
明良は元運動部であるという小さなプライドから、自転車を降りて押そうとは思わなかった。
五分ほど険しい坂道を登り、ようやく目的地に到着した。
それと同時にプライドから開放された明良は自転車から降りると、自転車にもたれ掛りながら呼吸が整うのを待った。
足の筋肉はとっくに硬くなっていて、膝も笑っている。
「はぁ……こんぐらいでホント…はぁ…情けねーや」
大分呼吸も整ったところで明良は道の端の、邪魔にならないところに自転車を止めてしっかり鍵をかけた。
明良が向かっているのは"神戸の森"。
もともとは森林だった場所を切り拓いて道を整備し、散歩コースなどが作られている。
明良は入り口に設置されている"神戸の森"の全体地図を見た。
ここへ来るのはずいぶん久しぶりだが、どうやら以前と変わったところは特にないようだ。
それだけ確認するとどんどん奥へと進んでいく。
すると突然明良は整えられた道を外れ、森の中へと入っていく。
うっそうと生い茂る木々の間を縫うようにして進む。枝で覆われた空からは光はほとんど入らず、じめじめと
湿っぽい中を草の根を掻き分けて歩く。
そうやって獣道を進み続けると、突如全く木が植えられていない拓けた場所へと躍り出た。
さっきまで枝で覆われていた空が顔を出し、急に眩しくなったせいで一瞬目が眩んだ。
森の中に隠れるようにしてあるその場所は神秘的な雰囲気で包まれていた。
小鳥のさえずりが聞こえ、都会の喧騒や人の声なんかも全くしない。
この場所だけが世界から置き去りにされていて、まるで別世界にいるような感覚に陥る。
「……変わらないな」
明良は感慨にふけながらそう言った。
ここは明良が小学生の頃、この神戸の森を探検していた時に偶然見つけた場所だった。
以来自分のお気に入りの場所となり、気分転換したいときや、試合に負けたあとなんかは必ずここへとやってきて
心を落ち着け、リフレッシュするのに使っていた。
最後に来たのはあの試合に負けたときだから、かれこれもう一年半も来ていない。
あの試合から明良を取り巻く環境は劇的に変わってしまったのに、ここは全く変わってなかった。
田舎のおばあちゃんちのように、ここはどこか安心感と落ち着きを与えてくれるな……と
そうやって感傷に浸っていたせいで、明良は先客がいるのに気が付かなかった。
「何がですか?」
誰にでもなく呟いたさっきの言葉に返事があった。
びくっと肩を跳ねさせて声をした方へとゆっくり振り向くとそこには―― 一人の女性が空を見上げながら佇んでいた。
明良は自分がはっと息を呑むのが分かった。もしかしてこの森の妖精なんじゃないだろうか……と
そんな馬鹿げた妄想を抱くぐらい、その女性は圧倒的に美しかった。
自分の声に返事があったことへの驚きはとっくに忘れて、明良はその女性をただ呆然と眺めていた。
女性は空を見上げるのをやめると明良の方へと向き直った。
「こんにちは」
そう言って彼女は首を傾けて微笑を漏らした。その仕草はどこか彩弥香に似ている気がしたけれど
彩弥香とは比べ物にならない破壊力を誇っていた。この笑顔は高校生の男子には強力すぎる。
首を傾けた際に揺れる彼女の黒く、腰まで届くほどの長い髪からは気品が溢れている。
漆黒と呼ぶにふさわしい髪の色が、彼女の透き通るように白い肌をさらに際立たせ、触れると壊れてしまいそうな印象を与えられる。
白いワンピースに麦わら帽子といった子供っぽい格好は、まるで絵本から飛び出してきたお姫様のようだった。
息をするのも忘れそうなくらい彼女のことを見ていると、途端に彼女の顔が不安の色に染まる。
「あの……大丈夫ですか?」
「あっ……すいません……」
ここでようやく明良は我に返る。
「ここへはよく来るんですか?」
一瞬なんのことか分からなかったが、おそらくさっきの明良の独り言の「変わらないな」を受けての発言なんだと分かった。
「時々……です。と言っても最近来たのは一年半前ですけどね」
そう言って明良は乾いた笑みを漏らす。
これだけの美女を前にしているのだが、不思議と明良は緊張することなくいつも通りに会話が出来た。
いつも話をしているやつは興奮するとすぐ顔が近づいてくるので、ある意味で緊張しながら会話していたおかげかもしれない。
加えて彼女の口調は穏やかで柔らかく、どう見ても年下の明良に対してでも敬語を使って話してくれているおかげで
違和感はあるものの自然と話しやすい感じだった。
「よく来るんですか?」
今度は明良が尋ねた。
彼女は再び空を見上げ、目を瞑りながら答える。
「ええ。好きなんです、この場所。目を瞑ると普段は聞こえない鳥のさえずりが聞こえるし
風が私の髪を巻き上げると、木々のざわめきが聞こえます」
彼女がそう言うと、それに呼応するように風が吹いて木々が擦れ合う音が聞こえる。
「ここに来ると世界と私が切り離されているような感じがするんです。
今この場所にいるのは私だけ。そう思うと、人間という何十億もの集合の中に紛れることなく
確かに"私"という存在があるんだということが確認できます」
彼女の言いたいことはいまいちよく分からなかったが、一番最初の言葉だけは納得できた。
「あっ、すみません。気にしないでください。私の個人的な感情です」
たぶん明良は怪訝そうな顔をしていたのだろう。彼女は慌ててそう付け加えた。
「いえ、俺も同じことをここで考えます。
俺も一人になりたいときはここへ来るんです。ここへ来ると誰にも邪魔されずに自分の傷を癒せますから」
「……すみません、お邪魔でしたか?」
突然謝られて、いったいなんのことか分からなかったがおそらく明良の『誰にも邪魔されず』という言葉のことだろうと理解した。
「いや、こちらこそすいません。少し言い方が悪かったですね。
先にここにいたのは貴方のほうだったのに……。
……それに今日ここで貴方と出会って、自分と同じことを考えている人がいるってことが分かっただけでも
ここへ来た甲斐がありました。自分の他にも"その他大勢の一人"になることを恐れてる人がいるって分かって
改めてそれが普通なんだって分かりましたから」
そう言って明良は自分の後ろ髪をくしゃっと掴んだ。
初対面なのに、自分の心境を曝け出してしまったことに今更ながら恥ずかしさを感じたのだ。
けれども彼女と話をしていると、自然と本心を話してしまう。そんな感覚だった。
「ならもう少しお話していきませんか?」
「えっ?」
突然の申し出に明良は自分の心が躍っていることに気付いた。
「何かに悩んでいらっしゃるんでしょう? 一人になりたい時というのはだいたい悩みがあるものです。
ここで出会ったのも何かの縁……どうせならその悩み、私に話してみませんか?
悩みというのは人に話をすることで気持ちの整理がつくし、何より気持ちが楽になります。
赤の他人である私になら、話しにくいことでも遠慮なく話せると思いますよ?」