「分かんないなら泣くなよ」
-2-
新学期が始まってから一週間が経った。
生徒たちは次第に新しいクラスにも慣れ始めて、新学期初日のようなどこか落ち着かない雰囲気は次第になくなっていった。
休み明けこそ一日六時間の授業に集中力がついていかず、授業中に睡眠を取っている生徒が多く見られたけれど
さすがに一週間も経てば休みボケした感覚が元に戻り始めていたように思われる。
だが俺はというと、いつまで経っても休みボケが抜ける気がしない。
今日も一時間目の現代文の時間から見事に爆睡し、目が覚めたときにはもう授業は終わっていた。
そして二時間目の日本史。
ところどころで目を覚ましてノートは取っているものの、授業の内容はほとんど頭に入っていない。
そんな風に夢と現実の狭間でふらふらしているうちに授業は終わった。
休み時間になると同時に机に突っ伏し、そのまま意識を手放せばいつでも眠れるような気がしてきた。
「春眠暁を覚えず」という言葉があるように、春はやっぱりこういう風にまどろみの中にいるときが
眠っているその瞬間よりも気持ちいいかもしれない。
休み時間になり騒がしくなるクラス内の声が遠くに聞こえていた中、にわかに耳元に誰かの声が突き刺さった。
「ちょっと!いつまで寝るの?」
意識がはっきりしないまま声のした方を向くと、初めはぼんやりとしていたが意識が覚醒していくに連れて
顔と顔がくっつくような距離に整った容貌をした少女の顔があることに気づいた。
「うおっ!」
途端に体中に血が駆け巡り、意識が鮮明になる。
驚いた反動でそのまま突っ伏していた体を起こしていた。
「あっ、やっと起きたね」
そう言って満足そうに明良に笑いかけたのは、新学期初日に知り合った少女、真宮 彩弥香だった。
あの日以来、彼女は休み時間になると頻繁に明良の元へとやってきては小説の話をしに来たり
部活はしてるのか、とか、好きな食べ物はなんだ、とか他愛もない話をしに来るようになった。
話をするといっても一方的に彩弥香が話し続けて明良はほとんど「そうか」と相槌を打っているだけだが。
しかしどうやら彼女には興奮すると間近に顔を近づけて話をする癖があるようで、時折明良が相槌以外に
彩弥香の意見に同意する旨を話したりすると、その整った顔が間近にやってくる。
どうにもその端整な顔が一気に視界に収まるというのは心臓に悪く、彩弥香が今みたく顔を近づけて来る度に明良は
情けない悲鳴を上げて飛び退くのだった。
加えて彼女はそんな自分の癖を自覚しておらず、明良がどうして飛び退いているのかも気づいていないのだから
なおさら性質が悪かった。
けれども明良が困っているのは彩弥香の"癖"であって、彼女と普通に話をすること自体は不快であるどころか
むしろ楽しいとさえ思っている。
意外と彩弥香とは趣味が合って、好きな作家や食べ物なんかも同じであることが多かったからだ。
あとは明良が昔バスケをやってたことや、彩弥香は文芸部に入ってることなんかも話した。
見た目からして運動をしてそうだったので、文芸部だと聞いたときはどうしても彼女が小説を書いている姿が想像出来ずに
爆笑したら本気で殴られた。
「……で、今日はなんの用だ真宮」
「最近、本、読んでないね」
「休み時間にお前が話しにくるからな……」
明良がそう言うと彩弥香は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
明良としては「本読むよりも、彩弥香と話しているほうが楽しい」という意味合いで言ったのだが
寝起きのせいでどこか不機嫌な口調になり、どうやら語弊が生まれてしまったようだった。
「もしかして迷惑……かな」
「あ、いや、そういう意味じゃなかったんだ。その、すまん。今のはちょっと語弊があった」
明良は慌てて彩弥香の言葉を否定した。
「ほんとに?嘘吐いてない?」
泣きそうな目で明良を見つめてきた。そんな彩弥香を見ると、なんだかとてつもなく自分が悪いことをしたような
気分になってしまうから、正直やめてほしい。そのせいで少し語気が荒くなってしまう。
「ほんと!ほんとだから!だからそんな目で見るな!」
「うぅ……やっぱり怒ってる……」
「だから怒ってないって」
全く……どうして彩弥香と話しているとこんなにも疲れるのだろうか。
明良は嘆息するしかなかった。
「……それにさっきのは本読むよりも真宮と話してる方が楽しい、って意味だし」
「う……うぇ?」
「しまった」と思ったときにはもう遅かった。心の中で思ってたことが、つい独り言で漏れてしまっていた。
さっきまで泣きそうだった彩弥香だったが、今度は一転して頬を朱に染めている。
相変わらず喜怒哀楽が激しいやつだ。
彩弥香は恥ずかしそうに下を向いて、自分の前髪を指で弄っていた。
そんな女の子らしい態度の彩弥香を可愛いと思ってしまう自分を殺してしまいたくなる。
「あ、いや、その……ふ……深い意味はないからな!!」
「う……うん……」
わかってる、と言いながら彩弥香は口をもごもごと動かしていた。
そうしてその休み時間中、彩弥香はずっと明良の前でもじもじと照れているだけで終わってしまった。
本当は何をしに来たのかは、分からず仕舞いだった。
-3-
明良は彩弥香が二時間目の休み時間、何を言いたかったのかを授業中ずっと考えていたが結局分からずに
ついには食事の最中にも考える始末だった。
今明良は一人で食堂に来ている。
いつもは母親が弁当を作ってくれるのだが、今日は早朝出勤やらなんやらで明良が朝起きたときには
両親はもう家にはいなかった。
リビングの机の上にはお弁当を作る時間がなかったという旨と昼食は食堂で済ませろと書かれた置き書きと
昼食代千円が一緒に残されていた。
いつもは友達と教室で弁当を食べているのだが、今日は明良一人が食堂利用のために一人で食堂に来ている。
昼休みは四十分ほどあるのだけれども、一人で昼食を食べるのにさほど時間はかからず
昼食を食べ終えて時間を確認すると、まだ二十五分近く昼休みは残されていた。
とりあえず教室に帰って本でも読もうと思い、食堂から教室へと帰る途中、体育館を横切った。
そこで無意識に足を止めて、気がつくと教室ではなく体育館を目指していた。
体育館の入り口は開け放たれていた。利用するのは初めてだったが、神戸学館の体育館は昼休みに開放されていて
生徒は自由に体育館を使うことができるのだ。
これまでにも食堂を利用した帰りに何度か体育館を覗いて見ると、3on3をしている生徒がいたことがあった。
だが今日はいつもよりもまだ昼休みが残っているせいか、体育館には誰もいなかった。
明良は上履きのまま体育館へと上がった。そこで辺りを見渡すと、おそらく体育の授業の後出しぱなしになっているのだろう。
バスケットのゴール下付近に転がっているボールが目に付く。
明良は何となく、よく分からなかったが無意識にというのがふさわしく、それを拾い上げていた。
「…………」
両手で持ったボールを数秒、じっと見つめてから目を瞑り、深呼吸。神経を研ぎ澄ます。
そのままトリプルスレットの体勢に入り、ドリブルを始める。
ダムダムと誰もいない体育館ではボールをつく音がよく響いた。
しばらく一定のリズムでその場でドリブル。目はまだ閉じたままだ。
そして明良は瞼の裏に仮想の敵を描き出すと同時に勢いよく目を開く。そこから一気にフルドライブ。
チェンジ・オブ・ペースだ。そのまま右へと切り込む。だが仮想の敵――実際には存在しないが明良の作り出したディフェンダーは
それに素早く反応する。右は塞がれた。だが、明良は最初から右へ抜くことは考えてはいない。
フルスピードから急停止し、その際に上履きと床が擦れ、キュッと甲高いスキール音が鳴る。
クロスオーバーでボールを右手から左手に持ち替えてターン。今度は敵も反応できない。
そのままマークを外した明良はジャンプシュートを放つ……が、ボールはゴールネットをくぐることはなく
リングに当たり、ガンッという嫌な音を立てて跳ね返った。
「……っ」
舌打ちしながらも明良は跳ね返って、宙に浮くボールに向かって跳躍。
そして片手でボールを掴んでそのままゴールへと叩きつける。アリウープだ。
今度こそゴールをくぐったボールの位置を横目で確認すると、入り口の方へと転がっていき、外に出そうになる。
まずいと思ったがボールは外へと出ることはなく、突如現れた人影によって拾い上げられた。
その人影はボールを床にそっと置くと、パチパチと大きな拍手をした。そこにいたのは、明良もよく知る人物。
「真宮……」
明良は掴んだままだったリングから手を離して着地する。
彩弥香は拍手を止めて再びボールを拾い上げると、明良の方へと近づいてくる。
「すごいね日向君! あれ、アリウープって言うんでしょ!? 私実物でやってるの初めて見た! 日向君すごいんだね!!」
「分かった! 分かったからもうちょっと離れろ! 近いっての!!」
いつもの彩弥香の癖で興奮しているのが分かった。どうやらお世辞ではなく、本当にすごいと思ってくれてるらしい。
さすがに美少女に何回も「すごい」を連呼されると、明良も照れくささを隠せなかった。
明良はバツが悪そうに後ろ髪をくしゃっと掴んだ後、照れ隠しで彩弥香が拾ってくれたボールを奪うようにして彩弥香から取った。
明良は踵を返すと、ボールをゴールに向かって放る。
綺麗に回転がかかったボールはリングに触れることなくネットをくぐり、明良の手元まで返ってきた。
「……いつから見てた?」
明良は位置をずらして再びシュートを打ちながら彩弥香に尋ねた。
「最初から。私、職員室に用事があったんだけど、その帰りに体育館から音がしたから覗いてみたの」
「なるほどね。そしたら俺がいたってわけ……ねっ」
さっきよりも距離が長くなった分、タメを作ってシュートを放ったせいで話す時に少し力が入った。
今度はリングに当たったものの、どうにかネットをくぐってゴール。
だがボールはゴール下で跳ねたまま、明良の手元には返ってこなかったため、仕方なく明良はボールを取りに行き
ドリブルをしながら3ポイントラインの手前まで下がる。
そこから少し離れたところで彩弥香は明良を見ていた。珍しく彩弥香が静かなことに違和感を覚えながらも
明良はドリブルを続けた。相変わらずダムダムとボールが床をつく音だけが響く。
「ねぇ」
「ん?」
明良はゴールを向いたまま、3ポイントラインの手前でシュートモーションに入った。
しかしそこで、いきなり彩弥香がこんな質問を口にした。
「"どうしてバスケ辞めたの?"」
彩弥香がそう言ったのと同時に明良はシュートを撃ったが、今度はリングにも当たらず、ボードにぶつかった。
バンっ、ターン…タンタンタンタンタン…………短い間隔でボールが転がる音がした。
「そんなに上手なのに、どうして?」
そう聞いてくる彩弥香は今まで、と言っても出会ってたったの一週間だけど
その一週間で見たどんな彼女の表情よりも、真剣な眼差しで明良を貫いていた。
何故だろうか。彩弥香が泣く必要なんてないのに。彼女が悲しむ要素なんてどこにもないのに。
何故か彼女の声が震えているような気がした。明良は、自分の代わりに泣いてくれている……初めはそう思った。
けど、ならどうして彼女が泣く必要があるのか分からなかった。明良はそんなお人良しを見て、苦笑いするしかなかった。
「なんで真宮が泣いてるんだよ」
「……分かんない」
「分かんないなら泣くなよ」
「何か理由があるんでしょ? 最近毎日、日向君の話を聞いてたら、君は本当にバスケが好きなんだなって思った。
でも分からなかった。そんなにバスケが好きなのに、どうしてバスケをしてないんだろうって。
考えて、考えて、そしたらやっと辿り着いたの。自分の気持ちに嘘吐いてまで、辞めちゃった訳があるんだろうなって……」
「なるほど……さっきなんか言おうとしてたのはそれか」
そう言って明良は、明後日の方向へ転がったボールを拾いに行くのに彩弥香の隣を通り抜けた。
そのとき、彩弥香の顔は見ないようにしてたけれど、どうやら本当に彼女は泣きかけのようだった。
その証拠にすれ違った際、彼女が鼻を啜る音が聞こえた。
明良はボールを両手で拾い上げるとボールをじっと見ていた。
「そうだな……理由があるとしたら、それは才能だけじゃ……好きなだけじゃバスケは出来ないってことかな」
「日向君の気持ち、分かんないよ……それ以外に必要なものなんてあるの!?」
彩弥香の悲痛な叫び声が響いた。しばらくの沈黙の後、明良はこう答えた。
「『信頼』だよ」
「…………」
彩弥香は何も言わなかった。
そして明良はバスケを辞めた理由を、初めて誰かに話した。
中学最後の試合のこと。自分のせいで負けたこと。それを誰も責めなかったこと。一人でバスケしてたことに気づいたこと。
バスケ以外に打ち込めるものを探したけど見つからなかったこと。
それから……心の奥底では本当はこんなつまらない毎日を変えたいと思ってることも、全て。
彩弥香はただ、黙って相槌を打っているだけだった。