「ついてねーなぁ」
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今年もまた桜の季節がやってきた。
春。それは一年の始まりの季節。人々はこの季節を、様々な思いを抱えて迎える。
今年こそ彼女を作るという野望、友達を増やすという前向きな願望、あるいは新たな出会いを求めた希望。
おそらく真っ当に生きてる世の中の人間の大多数は、この季節に色んな思いを馳せるんだと思う。
だけど中には目標や希望を持たず、無気力に生きている人間だって存在する。
新学期になり学校へ向かう中、様々な思惑を抱える人間達を横目に見ながら歩く少年、日向 明良もそんな
無気力に生きている人間のうちの一人である。
「ったく……新学期の何がそんなに楽しいってんだ。どいつもこいつも目ぇ輝かせて……。
目標なんて結局はただのつまんねー毎日の暇つぶしじゃねーか……」
明良は新学期で気分が浮かれている生徒達を退屈そうに眺めながら、右手で自分の後ろ髪をくしゃっと掴んだ。
寝癖のついた髪を撫でながら重い瞼を懸命に開き、眠そうに欠伸を漏らす。
だらしなく鞄を背負って歩きながら呟いた皮肉は、誰にも届くことなく虚空へと吸い込まれた。
ふいに立ち止まって辺りを見渡す。道行く生徒達の大半が神戸学館の生徒で溢れ返っており、その殆どが笑顔を浮かべている。
少なくとも今視界に入った中に、明良と同じ顔をしている生徒は一人も見受けられなかった。
今更ながら明良は寝坊したことを後悔する。
もう少し早く家を出て登校時間をずらしていれば、こんな雰囲気の中、学校へ行かずとも済んだのに。
だが明良が何より不愉快だったのは、バスケを辞めて失ってしまった"何かに打ち込む気持ち"を
希望に満ちた生徒達を見て思い出したことだった。
バスケをやってた頃の自分も、あんな風に笑ってたんだろうかとふと疑問に思った。
とっくに蓋をした気持ち。バスケの代わりになるものを探そうとしたが結局見つからなかったあの頃。
「いつかきっと代わりが見つかるはずだ」という淡い希望を、未だに僅かだが自分が抱いていることを自覚して
本当に自分は中途半端な人間だな、と自己嫌悪に陥った。
「春。始まりの季節……か……」
明良は道に植えられた桜の木を見上げた。満開に咲いた桜の花が、散り行く今を惜しみながら懸命に花を咲かせている。
己がもっとも輝く季節を知ってるように、桜は毎年この時期に一番美しい姿を見せる。
桜というのは"春"の象徴でありながら、まるで自分達のようだと明良は思った。
「ははっ、何柄にもないこと考えてんだろーなー……俺は」
そう言ってまた大きな欠伸を漏らしながら、明良は校門をくぐった。
人がごった返す昇降口に貼り出されていたクラス替えの表で新しいクラスと出席番号を確認したところ
明良は二年一組二七番だということが分かり、それだけ確認して手早く自分の教室に向かった。
その道すがら何人か去年のクラスメイト達とすれ違い、一言二言だけだが言葉を交わした。
「今年は離れたな」とか「今年もよろしく」とか内容は様々であったがそのどれもに適当に相槌を打って自分の教室を目指した。
明良は無気力なだけであって、別に他人に興味がないとか友達付き合いが苦手とかいったことはない。
自分から話かけることが極度に少ないだけで、話掛けられればちゃんと返事もするし話も聞く。
ただ最近自分から「近寄りがたい雰囲気」とでもいうのか、そういう「人とは関わりあいになりません」オーラが出ているらしく
初見の人が話しかけてくることが極端に減った気がする。特に自分ではそんなつもりがないことのほうが問題なのかもしれない。
そんなことを考えているとあっという間に教室に辿り着いた。
開け放たれている教室の扉をくぐると、教卓のあたりに人が集まっていた。どうやら黒板に自分の席が書かれているようで
先ほどクラスと一緒に確認した出席番号で席が割り当てられているようだった。
教卓のあたりに集まった生徒のなかには前の人で黒板が見えず、懸命に飛び跳ねたり、「~番あるー!?~番!」と叫んでいる者もいる。
幸か不幸か人よりもちょっぴり背が高い明良は、特に苦労することなく自分の席を確認することが出来た。
教室の扉側から二列目の一番前。
「まじかよ……新学期早々ついてねーなぁ……」
明良は真っ直ぐ自分の席まで向かい、鞄から文庫本を取り出して席に座った。
挟んでいた栞を机の上に置き、小説を広げた。
本はバスケをやっていたときから好きだった。
試合前の集中したい時や、試合会場まで移動するバスの中でよく読んでいた。ゲームやテレビを特に面白いと感じた事はなく、
すぐに飽きることが多かったけれど本だけは飽きなかった。
ゲームやテレビというのは映像でこのキャラはこんな姿、この場面はこういう景色、というのがきっちり決まっているが
例えば小説なら、ひとえに「雪景色」と言ってもいくつもの「雪景色」が想像される。
そんな風に自分で世界の景色を思い描くことが出来るのが小説だ。
小説には"読み手の数だけ世界が出来る"という無限の可能性が秘められていると明良は思っているし
自分のイメージで世界を作っていくような感覚が好きなのだ。
お陰で読書だけは今でも趣味の一つになってるし、こうやって休み時間や通学時間など、空いた時間に読んでることが多い。
明良は本に視線を落とし、活字を追い始める。
初めは周囲のざわめきがノイズとなって耳から外界の情報を伝えられていたが、次第にそれもシャットアウトされ
どんどん自分の世界へ入り込んで行く。
バスケの試合中もこんな感じで、一旦集中すると周りの歓声が全く聞こえなくなり敵と味方の声以外は全てカットされる。
そうしてどんどん小説を読み進めていく。
だがしばらくして不意に自分の首元に、誰かが後ろから手元の小説を覗きこむ気配がした。
「ねぇ、何読んでるの?」
「ん?」
そういって声がした方を向くと、すぐそこに端整な顔立ちをした少女の顔があった。
少女のゆっくりとした呼吸で吐きだされる息が明良の顔を撫で、突然の出来事に体が硬直して動かない。
すんとした柑橘系の香りが鼻腔をくすぐり、頬に少女の髪の毛が当たっている。
「のっぉおおおおっ!?」
ようやく意識が戻ると同時に、明良は情けない叫び声を上げて椅子から跳び退いた。
クラスにいた生徒の視線が突如奇声を上げた明良に集まるが、やがて何事もなかったようにそれぞれ友達との会話に戻ったり
携帯を動かす手元に視線を戻していった。
けれども目の前の少女だけは首を傾げて不思議そうにしていた。
「どうしたの?」
「いや、どーしたのじゃないだろ……」
どうやら彼女はどうして明良が驚いたのか心当たりがないらしい。
今もまだ彼女の香水の香りが残っていて、頬をくすぐった髪の感触も残っていた。
妙な緊張と興奮が心臓の鼓動を早め、張り裂けそうなほど脈打っている。
とりあえず一旦自分を落ち着かせようと、明良は改めて少女を見た。
少女は一目に美少女と言える顔立ちをしていた。細身で明良よりも目線はかなり下だが
高身長の明良との身長差を考えればだいたい160センチぐらいはあるんじゃないだろうか。
膝まで詰めたスカートから伸びるスラッとした健康そうな脚が目に毒で
髪は少し肩にかかる程度のセミロングで黒く、それが妙な艶かしさを漂わせている。
手首には白いシュシュをつけていた。
少し落ち着いたことで心にゆとりが出来てきた明良は文句の一つでも言ってやりたい気分だったが
さすがに「あなたの不意な行動でドキドキしたんだけどどうしてくれるんだ」と言う訳にもいかず
喉まで出かけていた言葉を必死に飲み込み、代わりの言葉を吐きだした。
「とっ、ところで何か用か?」
「え、うん。だから何読んでるの?……って」
「何って……本だけど……?」
「それ、ボケてるの? そんなの見たら分かるよ。私が聞いてるのは、何の本かってことだったんだけど……」
「あ……」
完全に墓穴を掘っていた。落ち着いたつもりだったが全然動揺しっぱなしだった。
もう恥ずかしくって墓穴でもなんでもいいから、穴があるのなら入ってしまいたかった。
しかし彼女は天然発言をした明良をバカにすることはせず、おかしそうにくすくすと笑いだした。
「えーっと……ひょっとしなくても、『コイツ、バカだろ』とか思ってらっしゃる?」
そう言うと彼女は途端に笑うのを止めて、顔の前で手を振った。
「いやいや、そんなことないよ。ただ、おもしろい人だなーって思って」
「や、それ完全にバカにしてるよね」
「してないってばぁ」
そう言って彼女は拗ねたように頬を膨らませて、そしてまたにっこりと笑った。
喜怒哀楽の激しい人、というのが第一印象になった。
今の会話の間に落ち着きを取り戻した明良は、とりあえず飛び退いたままの状態から元の椅子に座った状態へと戻った。
「で、本の話だったっけ?」
「うん!誰の本?」
「これは、涼ヶ谷 美雪すずがや みゆき先生の『φの心』ってやつ。知ってるか?」
「うんっ!知ってる!!だって私も大好きだから!!」
そう言って彼女はまた身を乗り出してくるものだから、明良は再び飛び退くことになった。
「うおっ!だからちけーよっ!!」
全く、朝から心臓に悪い。こいつ、もしかして自分が可愛いって自覚ないんじゃないのかと思わずにはいられなかった。
涼ヶ谷 美雪。彼女は若干一七歳――つまり明良と同じ年の頃に衝撃小説大賞を受賞してデビューしたライトノベル作家だ。
ライトノベルには珍しい、淡々としたシリアスなストーリーを多く書いている。
明良も中学時代、バスケで県の優秀選手に選ばれたり、全国大会に出場したりと同じ年の子供が経験できないようなことを
数多く経験することができたが、それはあくまで"学生"という枠組みからは出ないものであった。
しかし涼ヶ谷 美雪は一七歳にして大人から学生まで応募する衝撃小説大賞という、明良の経験した
全国大会出場の何倍もの倍率を誇る狭き門をくぐり抜けている。
そんな彼女を当時小学五年生だった明良は素直にすごいと思った。
以来彼女は、明良の尊敬する人物の一人となっている。
「そっかそっか。君も涼ヶ谷先生が好きなんだね。えーっと……?」
「日向だ」
「日向君も涼ヶ谷先生好きなんだね!」
なぜか自分のことのように彼女は喜んでいた。傍から見ても、彼女はかなり上機嫌のようだった。
しかし一方で明良はあまりいい気分ではなかった。なんとなくだけど、明良は彼女のようなタイプは苦手なのだ。
共通の趣味がある相手と友達になるのは話し相手ができるからいいのだけれど、何故かこいつに関わると
ろくでもないことが起こりそうな予感がした。
そして明良はここで妙な違和感があることに気づいた。
……そうだ、自分は名乗ったのにそういえばまだ彼女の名前を聞いていない。
「ところで、そっちの名前は?」
「私は、真宮 彩弥香まみや あやか!彩りの彩に、弥生時代の弥、香水の香で彩弥香だよ」
彼女は後ろで手を組みながら首を傾げた。彼女の整った顔と相まって、それは愛嬌のある仕草となった。
もうちょっとテンションが低ければなぁ……タイプなのに……と勝手なことを思いながらも
内心では美人と親しくなれて嬉しく思う自分がいることに、明良は気づいてはいなかった。