第五話
「おじゃましまーす。おお、きれいにしてるねぇ」
黒曜はリビングを一通り見渡して言った。整然とした部屋は、母娘が住む設定にしては、いささか殺風景な部屋だ。まるでいつでも引っ越し可能、とでもいうような。
「報告があるなら迅速に話せ。そして用が済んだら、さっさと帰れ」
翠は腕を組み、ソファに座ろうとする黒曜に向けて言った。
「なんだよ、お茶の一杯も出ないの?」
「毒入りでよければ、一杯といわず、二杯でも三杯でも」
「あ、結構です。スミマセン」
無表情で答える翠に、黒曜は礼儀正しくお辞儀をして丁重にお断りをする。
「で? 報告とは? くだらない内容だったら、ただではおかんぞ」
「はいはい。ただいまご報告しますよ」
わざとらしく『こほん』と咳払いをした後、黒曜は報告書でも読むがのごとく語り始めた。
302号室、佐山家。夫婦と男の子一人の三人家族。一か月くらい前にその父親がリストラで現在無職。これまで成績も普通、グレたこともなく受験も自分相応の学校を受け、順調に入学し、卒業と共に中小企業ではあるが就職、結婚、子供の誕生と、平穏に生きてきた父親にとって、このリストラは人生で最大の挫折となった。今まで挫折がなかったが故、この今の状況を打開する術も見つからず、妻には責められ、家にもいられず、大学時代の友人宅を転々としている日々。
「まあ、女の影は一つも無いな。見た感じも、そんな甲斐性なさそうだが」
「で?」
「え?」
「それと、大和と、昼間の報告との関連性は?」
「ああ、関連性、関連性ね……」
翠は立ち上がるとキッチンへ向かい、カップを用意した。
「わはっ、お茶淹れてくれるの?」
「いや、毒入りコーヒーだ」
「ひいいい……」
「飲んだら帰れ」
「毒入りだったら、帰れねーじゃん。つーか、お前、共通するとこ、気が付かないか?」
「共通するところ?」
翠は怪訝そうに黒曜を見上げた。
「子供の心の傷」
「……!」
「先月の幼児行方不明事件。被害者、というか、行方不明の女児の家庭、どんなものだったか、お前も知ってるだろ、俺の報告で。子どもは純粋なだけに、大人よりも精神が深く傷つくことが多い。そこに魔がつけ込んでくる」
翠は両手で持ったカップを見つめた。
「それと翠、琥珀に嘘ついたな」
ぴくりと翠の体が小さく動いた。
「大和は小さな傷を負ったはず。おそらくは指先程度だろうが」
「あれはっ……あれは、琥珀に余計な心配をさせまいと……」
ふうっ、と黒曜はため息をつく。
「なあ、翠、琥珀を大事に育てたいというのは分かるが、それと、全てのマイナス要素から琥珀を遠ざけるのとは、別のことだと俺は思うぜ。……後継ぎとして育てたいんなら尚更な」
翠は下を向いたままだ。
「まあ、子育ては大変だってことだよなー。なんなら、父親役、いつでも俺が引き受け……」
そう言って黒曜は翠の肩に腕を回そうとした。
「ちょっと待て黒曜。なぜお前、私と琥珀の会話を知っている?」
「え?あ、いや……」
肩に回りかかった腕がひっこめられる。
「お前の気配は、あの時、なかったはずだ……」
「えっ、あっ、うっっと、おお、もうこんな時間か! じゃあ、今夜はこの辺で帰るとするか!」
黒曜はカップに残っているコーヒーを一気にあおると、バタバタと帰り支度を始め、リビングからそそくさと出て行った。が、ひょい、と再び顔を出し、
「コーヒー、ごっそさん。戸締り、しっかりな!」
と言い、再び、そそくさと帰って行った。
「やっと帰ったか。騒々しい奴め。さて……」
翠はリビングを出ると、琥珀の部屋に向かい、音をたてぬよう扉を開けた。
「よく寝てる」
琥珀はスースーと小さな寝息を立てている。その脇で今日、琥珀の着ていた服を翠がチェックをすると、スカートのベルトの部分に小さな黒い子ぎつねのストラップが付けられていた。
「これか……。こんなものにも気が付かぬとは、私もまだまだ……」
そう言ってストラップを外し、小さくフッ、と息を吹きかけた。
『ひゃあっ!』
小さな断末魔と共に、ストラップは小さな煙を立て、消えてしまった。
「ふん」
翠が小さく鼻を鳴らしたのとほぼ同時に
「くあ~、ばれちまったか」
黒曜は自分の耳についているピアスを撫でていた。
「でも……いいニオイだったから、いっか。琥珀にはまた作って持たせよう」
黒曜はヘルメットを被ると、バイクに跨り、漆黒の闇へと消えて行った。