第九話 デーモン襲来
ヴォルフガングはベッドで、俺は床に毛布を敷いて寝ていた。そんな真夜中に、ふと、目が覚めた。目の前、俺の腹の上あたりに、黒い球体が浮いていた。俺はばくばくする心臓を押さえ、剣を取った。そして、剣の先っちょでその球体をつついた。
ぶくっ。全身に寒気が走るような現象が起きた。その黒い球体が泡立ち、背に棘が生え、胴体と手脚が生えた。口は耳まで裂け、目は猫のように前についていた。耳と、ねじれた角が生えた。それは黒かった。夜の闇にも増して黒かった。
俺はそこで、気付いた。これは夢だ。そもそもランプも無しに、真夜中に部屋の中が見渡せるわけがない。こいつは悪夢だ。悪魔の見せる悪夢だ。
「おい悪魔。人の夢の中にまで出て来て、何の用だ」
「私の名を知っているのか?」
「悪魔だろ? そのくらいは本で読んで知ってる」
「こいつは驚いた。この勇者はだいぶ博識らしい……」
黒い悪夢はうぞうぞと形を変えた。ムカデのような足が見えた。犬のような尾っぽが見えた。ありえぬところに目がついていた。悪魔はなんとかして人の形を取ろうと努力しているようだったが、むしろそれは全く別の、おぞましく奇怪な何かに見えた。
「私はデーモン。願いの対価に、魂を刈り取る者。さあ、『願い』を言え」
「『願い』なんて無いよ」俺は言った。
「そりゃあ故郷には帰りたいけど、それは俺の個人的な問題だから、助けはいらない」
デーモンは目をくるくるさせた。
「お前はあの『白い魔法使い』のようなことを言う。全く何の願いも無い、からっぽの伽藍堂。にも関わらず悪を討ち、正義を成そうとしている」
「それが武士ってもんだ。じーちゃんが言ってた」
一体何の話をしているのかよく分からなくなってきた。俺は話を整理した。
「いいか。お前はデーモンで、俺の魂を刈り取りたい。けれども俺は願い無しだから、刈り取れない。そういうことでいいのか?」
「そう。お前は意気地なしだ。恐るべき力を持ちながら、何も成そうとしない。あの『白い魔法使い』と同じ種類の人間だ」
「『白い魔法使い』ってのは誰だ?」
「『白い魔法使い』は、別の言い方をすれば『白の魔王』だ。我らが『黒の魔王』を抑えようと奮闘する、哀れでか弱い意気地なしの男だ。いや、それでもまるきり意気地なしというわけではないかもしれない。白い白い、死に装束の彼も、かつて何かを成したことがあるのかもしれない。だが――お前は正真正銘の意気地なしだ」
「叶えるべき願い事が無いからって、そこまで言うことはないと思うけどな」俺はふてくされた。
「人間というのは、普通は願い事を持つものだ。それを対価に私は生き延びてるというのに、全く願いが無いだなんて。愚痴の一つも言いたくもなる」
俺は悪魔を哀れんだ。それが悪魔にも伝わったようで、悪魔は怒りでぶるぶると震えた。
「話を聞くに、『白の魔王』はいい奴で、『黒の魔王』とやらがラスボスなのか?」
「ラスボス?」
「物語の一番最後に死ぬ奴だよ」俺は言ってやった。
「ははははははははははははははは」デーモンは笑った。口が裂けて、顔が地面にぼとりと落ちるほど、デーモンは腹を抱えて思い切り笑った。
「なんだ。何がおかしい」
「最後に死ぬのはお前だ。勇者コータ。お前が殺されて、物語はめでたしめでたしで終わる」
「勝手に話を終わらせるな。あんまり変なこと言うようならお前もぶった切ってやる」
「できるものか! 私はデーモン。人の願いを叶えて回る心優しい悪魔だ。その悪魔を殺すなど、神代の時代にしか成し得ぬ……」
そこでデーモンは何かに気付いたようだった。俺は手に持った剣を構えた。デーモンはその剣を見て後ずさった。
「いいから消えろ。さもないとぶった斬る」
「分かった。分かったから斬るな」デーモンは懇願した。
そこで俺は、ふとヴォルフガングが、フラーウムが、宿屋の連中のことが気に掛かった。
「まさか宿屋中に現れて、人々の願いを聞いて、魂を刈り取ってるんじゃないだろうな」
「そのまさかだ」デーモンは答えた。
「中止しろ」俺は命じた。
「夜明けは早まった。お前は明日の真夜中に、またやってくることができる。だから今日のところは引き下がれ」
「無理だ」悪魔はせせら笑った。
「もはや願いは叶えられた。ヴォルフガングはドワーフの血を失い、真の人間になって恋人と結ばれた。フラーウムは疑問の余地のない、れっきとした有力貴族の娘と相成った。他の者も願いを叶えた。魂を失わずに済んだのはお前だけだ。お前だけが現実に取り残されたのだ」
「なんだと……」俺は愕然とした。
「お前の言うとおり、俺は再び明日の真夜中にやってこよう。そうしてそこでもう一度、お前の願いを聞くことにしよう」
そう言って悪魔は霧散した。
朝が来て、俺は目覚めた。だがヴォルフガングは寝たままだった。揺すっても叩いても起きなかった。隣の部屋のフラーウムも同じだった。誰も彼もが寝たままだった。宿屋じゅうが眠りに支配されていた。
俺は呆然として、剣を片手に、一階の酒場に下りていった。
そこには青髪オールバックの、純白のローブを纏った、まさしく「白い魔法使い」がいた。不自然に大きな手を除けば、その姿は、まるで子供のようだった。