挿話 ヴォルフガングと生きる石 後
ヴォルフガングはノルドールの案内の元、森の中の小道を歩いていた。
その両の眼はぱっちりと開かれ、あらゆることを見逃すまいとしていた。全ての動物が不思議そうな顔をして、ヴォルフガングを見ていた。こんな変人はこの千年ほど見かけたことが無い、とでもいうように。
ノルドールはヴォルフガングが指さす全てのものの名を紹介した。ハーフエルフであるノルドールにとって、そのくらいは朝飯前であった。巣穴から顔を覗かせたリスが、我が物顔のキツネが、通りすがりの鹿が、ヴォルフガングに挨拶をした。熊は興味が無さそうに立ち去った。
小枝の合間には、真っ青なオオルリが、黄色いキビタキが、小さなシジュウカラと誇り高いキツツキが、ドングリを喉に詰めたカケスがいた。
小川には魚がいた。
一匹のタカが、魚を捕まえようと小川めがけて飛び降り、それを両脚で掴み取った。その一切をヴォルフガングは見ていた。いや、眼に焼き付けていた。
ヴォルフガングは短い――飛ぶように時間は過ぎた――森の探索から帰ると、さっそく鉱山の石置き場から石を選び始めた。墨を引き、ノミを振るい、石を割った。そして狂ったように彫り始めた。コータは食事を持ってきた。三日三晩彫り続けて、倒れそうになった時、ヴォルフガングはようやく食事と水に気づき、それを食べた。そして食べ終えると、また元気を取り戻し、石を彫り始めた。
最初の石はうまくいかなかった。だがヴォルフガングはそれでも、最後までそれを仕上げようとしていた。彫刻には疎いコータだが、何を彫っているのかは遠目にも分かった。
鳥だ。ノルドールに聞いた話によれば、ヴォルフガングはタカが魚を取る瞬間を目撃したらしい。それを彫っているのだ。
拙くも丁寧に、石の中からタカが現れはじめていた。翼と足は欠け、羽毛は輝いてはいなかった。失敗作だというのは誰の目から見ても明らかだったが、ヴォルフガングはそれを延々と彫り、磨き、瞳を光らせた。
次の石はもう少しマシだった。今度は慎重に石が割られ、翼と足は欠けていなかった。タカの姿が確かに岩から出てきていた。だが翼にしなやかさはなく、両の脚に強靭さが足りなかった。ヴォルフガングはそれを知りながらも、二作目を仕上げた。タカの眼光は見るものを射抜いた。「早く、早く……忘れんうちに」そう言って、ヴォルフガングはばたりと倒れ、眠った。鉱夫たちが毛布をかけた。
彼が何の夢を見ていたのかは、あえて問うまい。ヴォルフガングはむくりと起き出すと、自らの頬を叩き、記憶がまだ確かなのを知って安堵したようだった。
そしてまた三体目の石にノミを振るった。かわるがわる、様子を見に来た鉱夫たちが、ついにため息をついた。そこにタカがいたからである。ヴォルフガングが彫り進む前から、それがタカであるということが分かった。ヴォルフガング当人にも、そのイメージが見えているようだった。
タカの翼は大きくしなやかに広がり、胸の羽毛は輝き、両の脚は強く魚を掴んでいた。七日七晩経って、ついに誰もがそこにタカの像を見た。ヴォルフガングが石工の天才であることは、ドワーフの血を引いていることは、まったくもって明白なことであった。
だがヴォルフガングはその立派に仕上がった三体目の彫像にも興味を示さなかった。すぐに四体目と五体目の石が選ばれた。石を選ぶのを助けながらも、鉱夫たちは、ヴォルフガングがこの上、何を求めているのか分からなかった。三体目の彫像だって立派なものだった。王宮の広間に飾ってもいいほどに。しかしそのコータの意見に、ヴォルフガングは首を振った。
「まだだ。まだ石に命は宿っていない。『生きる石』にはほど遠い」
ヴォルフガングの噂は、鉱夫たちを通じて、徐々に街へも広まっていった。彫刻の天才がいる。おめでたい頭で「生きる石」を彫ろうとする者がいる。話を聞いて、多くの彫刻家が、彼の姿を笑おうと鉱山を訪れた。だが三体目、そして四体目のタカを見ると、皆、掛けるべき言葉を失って帰っていった。
一人の古い彫刻家が最後に現れて、ヴォルフガングにアドバイスをした。
「風をも描き出すように石を彫るのだ。鳥の目には風が見えているのだから」
ヴォルフガングはそのアドバイスを聞いて、また何か閃いたようだった。五体目のタカが彫られた。それは少しだけその形を変え、誰もが認める完璧なタカではなくなっていった。だがそれが正解だった。ヴォルフガングにはもはや全てが自明だった。
「ただのタカでは『生きる石』にはほど遠い……俺はタカを通じて、森の全てを表現せねばならん。その身に受ける風は、森の風だ。その瞳に映る風景は、森の樹木だ」
ヴォルフガングは六体目の彫刻に取り掛かった。
それはもはやタカではなかった。翼と脚を持つ、かつてタカだった何かだった。しかし有無を言わさず、それが獰猛な鳥であることが分かった。その石には何かが宿っていた。これまでの像とは違う何かが。神々の領域にある何かが存在していた。
「次でおしまいだ。七体目で彫れなければ、俺は一生これを彫れないだろう」
七体目が彫られた。四体目のタカに比べれば、まるでへたくそな彫刻に見えた。だが、その翼には森の風という風が現され、瞳には無数の樹木が映りこんでいた。魚を掴んだ脚には喜びが溢れていて、胴体の羽毛は凛々しく輝いていた。ヴォルフガングは慎重に瞳のふちを彫った。そして全てが完成したとき、彼は疲労のためにばたりと倒れた。
七体目の彫像だけが、人間たちの手によって、森へと運ばれていた。
美しい四体目や、躍動する五体目は、実験的な六体目は、全て失敗作である。コータは美術という科目が得意ではない。しかしこの七体目こそが完成品であること、それだけはよく分かっていた。ノルドールは以前のようにびくびくはせず、堂々と道案内した。コータは言った。
「エルフよ。俺たちは約束どおり『生きる石』を持ってきた。ヴォルフガングの最高傑作を持ってきた。俺が見たところ――俺には彫像を語る資格などないが――この彫像が何らかの魔法の力で動き出し、天上に飛び去って行ってしまうのは時間の問題だと思われる。その前に、どうかよくよく御覧になっていただきたい」
緑の髪の、迷彩服のエルフたちは、風景から溶け出すように現れた。そして目を凝らし、それでも信じ難いという顔をして、どんどん彫像に近付いていった。彫像の周りはエルフだらけになった。彼らはコータの心を読んでいた。それでコータが嘘偽りを述べている可能性は排除された。
彼らは見た。両の眼をぱっちりと開き、エルフたちはクォータードワーフの仕事ぶりをよく観察した。
「これはタカではない」エルフは言った。
「だがこの像は、我々の呼吸に合わせて呼吸し、我々の鼓動に合わせて心臓を打つ。その目は森の全てを見ており、その翼は気流を捕まえている。我々はこれと同じものをどこかで見た気がする。あるいはそれは千年前だったか、それ以前だったか。あるいは現実であったか、夢の中であったか」
「認めよう。この像は生きている。『生きる石』は存在した。そしてそれを彫った者はドワーフの血を四分の一だけ引いている。しかし我々エルフは疑問に思う。彼はただ一日で森を映し取ったのか? 神々の助力なくして、そんな御業が成し得るというのか?」
「ただ一日じゃない」コータは言った。
「ヴォルフガングはこれまでの人生を、常に森への憧れに捧げてきた。彼が費やした期間を正確に言えば、それは十七年と一日だ。その最後のたった一日が、ヴォルフガングを変えたんだ」
エルフたちは無言だった。それでエルフたちが何か真剣な考え事をしていることが見て取れた。コータはヴォルフガングに良い知らせを持ち帰れるといいな、と思った。
「ヴォルフガング。その十七年と一日を情熱に駆られて過ごした男に、あと百回森に入る権利を与えよう。そして『生きる石』を、この国じゅうに造って置くがいい。たとえあと千年が流れ、森と川が滅んでも、『生きる石』はこの世に残るだろうから」
あとでそれを聞いたヴォルフガングの、その喜びようといったら!




