第十九話 西都ペズンの陥落
西都ペズン。
アーランド王国最西端の城塞都市は、いままさに陥落しようとしていた。
原因は魔王そのものではない。魔王に付き従う、豪雨と暴風である。
「大公! ペズン大公殿! 堤防がもう持ちません!」執務室に伝令が駆け込む。
「住民は高台に避難させたのか」大公は落ち着き払っていた。
「全体の六割ほどが避難しました。残りは……病人や老人たちは、まだ避難が終わっていません」伝令が答える。
「大公殿も避難を。いまも水かさは増しております。堤が切れればここもまた危険です」部下が訴える。
「雨は強いかもしれませんが、城の上のほうの階におれば、おそらく安全でしょう」古参兵が言った。
「いや、魔王がいる」大公は言った。
「嵐の真ん中にはいつも決まって魔王がいる。暴風の王が。城の上に、魔王が降り立つのは時間の問題だ」
「魔王が……」「暴風の王が……」周囲は騒然となった。
窓がぴかっと光り、直後に、雷が壮絶な、響きおさまらぬ轟音を立てた。
「雷光が近い。魔王はもうすぐそこまで来ている」大公は言った。
「私は兵士たちを連れて屋上へと昇り、魔王を迎え撃つ。兵を組織せよ」大公は指示した。
「魔王と戦って……討ち死になさるおつもりですか」古参兵が言った。
「何としても、何としても時間を稼ぐのだ。そうすれば勇者コータが来る。伝説の英雄が来る。それまで、西都ペズンを守り切るのだ。それが大公たる者の唯一の務めだ」
我も我もと武装した古強者が集まり、がちゃがちゃと音を立てて、城の上へと行軍を始めた。雨は強く、視界を奪った。何も見えない。立っているのもやっとである。
「堤防が切れたぞー!」「水が溢れるぞー!」眼下に広がる大農場が、城下街が、怒涛の如く押し寄せる水によってなぎ倒されていく。事実上のペズンの陥落である。
「アーランド王国は滅ぶ」雷の響きと聴き間違えるような低い低い大音声が響いた。
「我に敵対した者は全て滅ぶ」それは巨竜だった。暴風の王の声だった。
空を舞っていた竜の爪が、城の頂にかじりついた。巨竜の恐るべき身体を、首を、顔を、こちらを射抜くように見つめる竜の瞳を目の前にして、大公は言った。
「雄鶏が鳴き、夜が明ける。夜明けは早められ、悪しきものは滅ぼされる。者ども掛かれ! いまこそ使命を果たせ! これより神代の伝説が繰り返されるのだ!」
兵士たちにより無数の矢が射られたが、そのどれもが巨竜に当たる前に逸れた。なんらかの魔法の力が働き、ただでさえ固い竜の鱗をさらに強く護っていた。
果敢にも剣を突き立てようと近付く者たちがいた。だが太い雷撃が落ち、彼らを消し炭に変えた。
「この大陸に神などいない」低い低い声で魔王は言った。
「あの『白の魔王』も、この俺に恐れをなして逃げ回っている」
「その『白の魔王』から一つ伝言を預かっている」
「なんだと?」
「『すごく強い奴もいつかおっ死ぬ。ひとえに風の前の塵に同じ』だそうだ」
「この期に及んでこの我を塵芥呼ばわりするのか! 白の魔王よ! 人間どもよ!」
豪雨は増し、暴風は荒れ狂った。兵士が風に飛ばされた。虐殺が始まった。竜の顎が、爪が、尻尾が、強かに兵士を打った。屋上からぽろぽろと兵が落ちた。だが、黒の魔王はただ落ちるだけでは済ませなかった。無数の雷撃が降り、落ちた兵士たちを捕らえた。
「我が魔王だ。この神無き大陸アールでは、力こそが全てだ。巨竜に変じ、我はいくらでも災厄を振り撒こう。従わぬ者は皆死ねばいい。皆死んで真っ平らになって、この俺だけが生き残ればいい」
「つまらん夢だ」ペズン大公が言った。
「黙れ!」竜の顎が、素早くペズン大公を食いちぎった。だが途端に竜は苦しげな表情を浮かべた。ペズン大公は懐に毒を忍ばせていたのである。
「毒か……そんなものは無意味だ」竜は胃の中のものを全部吐き戻した。
「我に毒は効かん。だがこの俺をペテンにかけようとした罪、万死に値する。ペズンの民のことごとく、ペズンの草木のことごとく、全てを滅ぼし尽くしてやる」
暗雲は渦を巻き、豪雨と暴風はいや増した。高台に避難していた者たちもまた、増える水かさによってさらに高所へと追いやられた。
大公無き後のペズンは、頭を失った蛇のようであった。混乱、悲鳴、死があった。雨はしばらく止むことは無く、水が引くにはまだまだ時間がかかった。
雲は晴れ、青空が広がっていた。魔王は去った。
しかし勇者コータはペズンの瓦礫と泥にまみれた惨状を見て言った。
「全部捨て置いて逃げりゃよかったんだ。土地を護って死ぬなんて、命よりも大事なものがあるなんて、そんなのおかしい。おかしいよ」
コータは泣いていた。フラーウムも、ヴォルフガングも、アーサーもエフトもノルドールも、誰もコータに声をかけなかった。かけられなかった。
何が勇者だ。何が英雄だ。大公様をはじめとして、家臣一同、彼らは自分のために死んだ。自分の到着を信じて死んだのだ。魔王が来ると知りながら、圧倒的な脅威が来ると知りながら、それでも身を挺して、僅かな時間稼ぎになろうと決めたのだ。
「お前がコータか?」
勇者を迎えに来たぼろぼろの人々の中から、泥だらけの五六歳の少女が現れて訊ねた。高台に逃げて生き延びた少女だった。
「大公様は魔王と誉れ高く戦って死んだ。だから泣くなコータ。ただ敵を討て。魔王を倒せ」
少女の言葉は非礼な、ぶっきらぼうなものだった。だがその口を塞ぐはずの少女の親はいなかった。先の大水に飲まれて死んでいたのだ。だからその言葉は、生き延びた者たちの総意だった。
「ああ、分かってる。魔王を倒すさ。倒す。倒すとも」
勇者コータは少女に約束した。アーサーを通じて魔術院「オールエー」に製作を頼んでいた例のアレと、女商人ドプレクス秘蔵の千本のマグタイト・バーが届いたのは、そんな時だった。
送られてきたマグタイト・バーだけでは足りないというので、馬車という馬車のマグタイト・バーが外され、その奇妙な装置に取り付けられた。一つのマグタイト駆動にマグタイト・バー、一千二百本を使うというのは、西方討伐に参加した者の中でも、誰も聞いたことがなかった。まさしく、前代未聞だった。