第十一話 ヴォルフガングの夢
彼は森の中の道を歩いていた。誰にも非難されることなく、誰にも邪魔されることなく。それがヴォルフガングの夢だった。それだけがヴォルフガングの夢だった。
「やはり来たか、コータ」ヴォルフガングは最初から観念していた。
「ここは、夢だ。それは分かっている。だが、一度だけ歩いてみたかった。森の中の道を」
「それにしては静かな森だな」コータは疑問を口にした。
「やはりそう思うか、コータ」ヴォルフガングは悲しい目をして言った。
「この森には生き物たちがいない。それは、よく分かっとる」
「俺はドワーフの血を引いている。祖父がドワーフだった。穢れた血だ。呪われた血だ。だから俺は、決して森には入れん。エルフの奴らが矢を射て追い返す」
「だから、一度だけ歩いてみたかった。リスが暮らし、小鳥が歌う森を。だが叶わなかった。この森には生き物たちがいない。笑わんでくれ。俺の頭に描く森は、こんなに見事に貧相な場所なんだ」
ヴォルフガングを引き留めようと、一人の女性が現れた。かつて自分が恋した女性だった。自らがドワーフの血を引いていることを明かせずに、ついに永久に失ってしまった女性だった。
彼は、ヴォルフガングは目を閉じた。そして言った。
「ここでも、『願い』は叶わなかった」
森が、女性が、ガラスのように砕けて崩れ落ちた。それらは奈落の底まで落ちていった。漆黒の背景の中で、ヴォルフガングはコータを見た。
「俺が森のエルフを説得する」コータは言った。
「必ず説得してみせる。武士の名誉に誓って、ヴォルフガングに森の道を歩かせて、そこがどんなに豊かで美しいか、見せてやる」
ヴォルフガングは子供のようにぼろぼろと泣いた。そして、夢が終わった。
「手間を掛けたな、コータ」ヴォルフガングは涙を拭って言った。
「なに、仲間なら当然のことをしたまでだ」
コータは背を向けて立っていた。いつか必ず約束を果たすと決めた男がそうするように、コータは何も言わずに戸口から出ていった。
再び真夜中が来た。悪魔が来た。俺は白い魔法使いから秘策を授かっていた。チャンスは一度、ただ一度きり。
「願い事は用意できたか、勇者コータ」
もはや人間の姿を取ることすら諦めた、黒いぐちゃぐちゃの怪物が、その口を開いて俺に問いを発した。
俺は言った。
「願いを言う前に『確認したいこと』がある」
その言葉を、悪魔は全く予想していなかったようだった。
「お前は『本当に願いを叶えた』のか?」
それは悪魔の本質を抉る台詞だった。あまりにも鋭利な質問だった。悪魔はたじろいだ。
「叶えたさ! 叶えたとも! 皆幸福になった! 皆俺にお礼を言うに違いない!」
「ならば、全ての夢を検める。その夢叶って幸福か、いまここで、皆々の夢を検分させてもらう」
かくして三千世界への夢の扉が開かれた。
ある者は金持ちになった。だが友人に裏切られた。
ある者は王様になった。だが謀られて殺された。
ある者は子供になった。だが遣り直せずに自殺した。
ある者は教祖になった。だが神に会えずに果てた。
ある者は死んだ。ある者は失った。ある者は苦しんだ。ある者は泣いた。
ある者はある者はある者はある者はある者は。
「誰も願いを叶えてもらってなんかいない。お前はただ夢を見せただけだ。全てがペテンだ。お前は公正な取引をするつもりで、皆を騙した。騙してきた!」
「俺の願いはこうだ!」
「全ての悪魔を滅ぼせ。自ら消え失せて罪を償え!」
デーモンは恐るべき、まこと恐るるべき類いの悲鳴を上げた。重低音から高音へと続く、その声はだんだんと音色を変えて移り変わり、ついにその振動で酒場のグラスが全て音を立てて割れ砕けた。
それでも声無き絶叫は続いていた。そうして夜明けが来て滅ぶまで、デーモンは叫ぶことを止めなかった。
朝が来た。誰もが起き出し、昨日見た変な夢の話をした。どれも決まって、いい夢かと思っていたら、途中から悪夢に変わる話だった。あやうく悪魔に騙されるところだったと、皆が言った。誰も俺の活躍のことなど覚えていなかった。
俺は急いで酒場を探したが、白い魔法使いは何処にも居なかった。俺はまるで、もう用事は済んだから、後は適当に、よろしくやっておいてくれと言われたような気がした。
フラーウムとヴォルフガングが起き出してきた。また一日が始まる。また黒パンを食べ、またくだらない話をするのだ。俺はその日常がただただ嬉しくて、二人のもとへと急いで駆けていった。