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水面の月  作者: 霞シンイ
第一部
9/41

繁劇の十六夜 4

 『検め衆』の仕事と言うのは、昨夜の『影映り』で何か町に異変が無いかを確かめることである。伊月たちもベテラン検め衆富爺のもと、何か変わったことが無いかあちこちに眼を向けながら歩いていた。皆、あれは昨日までなかっただとか、あそこの木が無くなっているだとかを言い合い、それを光之助が帳面につらつらと書いていく。伊月はその帳面を少し見せてもらった。和紙を綴った記帳にはミミズがのたくったような字が書かれている。

「君が書いてみるか?」

と、筆を渡されたがまだ筆で書くのには慣れていないので丁重にお断りした。筆を持つのは小学生のお習字以来だし、くずした草書に至ってはさっぱり分からない。山本家で大吾に少し手習いをしてもらっているが、日中は仕事があるし、夜は明かりがないしであまり進んでいないのだ。

「あれ、これって……」

 伊月はあることに気が付いてその部分を指差した。草書で書かれていても知っている漢字はかろうじて読めるものがある。

「これ、『影映り』のことですよね。『うつり』って水に映るとかの『映る』の字じゃないんですか?」

 そこには、『影移り』と記されていた。大吾から聞かされたときは『映る』の字の方を使っていたと思ったが、違うのだろうか。

「ああ、それは見える方の『影映り』だ。川や池に『月下辺』を見たことはあるか? それが『映る』という字を使うんだ。この『影移り』は文字通り物が移動した時に使う字だ。言葉では分からないけど、記録として残すときは使い分けるんだ」

「へぇ、なるほど。確かに意味としてはこっちがしっくりきますね」

 あの自己紹介の後も光之助は変わらず伊月に接してきた。武士といえば偉ぶった横柄なイメージが伊月にはあったが、本人が元庶民と言ったように彼自身はとても謙虚で対等に接してくれる。ただ、戌親とはまだぎくしゃくとしていた。戌親は光之助とあまり関わらないようにしている。それは伊月と接するときも同じで、会話はしてくれるがどこか刺々しさがあり、目を合わせてくれることは無かった。現に今も富爺と一緒にかなり前の方を離れて歩いている。

 今伊月たちが歩いているのは、町の一番外側の小道である。小道の横には水路が流れており、竹でできた高い垣根が立っている。伊月は知らなかったが、この垣根は町をぐるりと一周していて、野党や獣から町を守っているらしい。今のところ、目立った大きな被害はでていないなと話していると、富爺の声が聞こえてきた。

「おう、お前さんたち。ちょっとこっちへ来なさい」

 少し先で富爺が手招きをしている。ちょうど水路が垣根の下を潜り外へ流れていく辺りで富爺と戌親が待っていた。伊月と光之助は小走りで彼らの元へ向かうと、呼ばれた理由がすぐに分かった。

「これは……」

 光之助が驚きの声をあげ、伊月も目を見張った。

 垣根を押しつぶすようにして巨大な大岩が存在している。三メートルくらいの高さはあるだろうか。こんな物一体どこから運んできたのだろう。

「一昨日まではありませんでしたから、これも『影移り』でしょう」

「だろうな。こんな大きな物は久しぶりだ。」

「え? これも『影移り』の仕業ですか?!」

 戌親と光之助の会話に伊月はさらに驚いた。確かに、毎月こんな事が起きれば困るだろう。町の人たちが満月を厭うのも無理は無い。

「ああ、そうだ。まぁ、民家じゃないだけましだろう。八尺、いや一丈はあるか。すぐに蔵助殿に報告した方がいいだろう」

 言うやいなや、光之助は伊月に帳面と筆を押し付けて、もと来た道を風のように走っていった。

「早い……。もう見えなくなっちゃった。私たちはどうしましょうか」

 振り向いて富爺と戌親を見ると、戌親は履物を脱いで川を渡り岩の方へ行こうとしているところだった、富爺は道の端に座り込んでいる。

「まぁ、ここで待つほかないじゃろう。今日の検めはこれだけになりそうじゃしの」

「そうですか」

「うむ、あれは早くどかして直さんと、野犬の群れが入ってくるかもしれん」

 そうは言っても、ここにはクレーン車もダンプもないのに運び出せるのだろうか。そんなことを考えていると、戌親がざばざばと浅瀬を渡って戻ってきた。

「あ、戌親くん。どうだった?」

「どう、とは? 別に見たままでしたが」

 冷ややかに返されてしまった。彼は伊月を一瞥することなく川から上がり、草鞋を履きなおした。やはり、避けられているようだ。

「だれも下敷きにはなっておらんかったか?」

「富爺、縁起でもないことを言わないでくださいよ。大丈夫でしたよ」

 ふざけた口調の富爺を、大きな猫目で睨み付ける。彼は一番年下で口調も丁寧だが、相手が誰でも言うことはしっかり言うのだろう。戌親の返しにほほ、と老爺が笑う。なるほど、先ほど岩に近づいたのは人が巻き込まれていないかを確認しに行ったのか、と感心していると、波打つポニーテールを揺らして戌親がこちらに近づいてきた。吾郎太より少し大きい戌親は、目の前に立つと丁度伊月の目線の位置に戌親の頭のてっぺんがくる。戌親はそのまま正面に立ち、

「私は母上から聞いたんです」

と言った。まっすぐこちらを見てくる戌親の気迫に一瞬たじろいだが、何のことだか分からない。何も反応を返さない伊月にいらだったのか、戌親はさらに強い口調で言い寄った。

「しらばっくれないでください。ひと月前の望月の日です。北門から五町ほど行った先で、化け物を見たと」

 あなたのことですよね。そう言う戌親の声がどこか遠くで聞こえた。


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