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水面の月  作者: 霞シンイ
第一部
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十五夜逢瀬 2

 その日の夜、皆が寝静まっても伊月はなかなか寝付くことができなかった。先ほどからじっと居間の天井を見つめるばかりで、ちっとも目をつぶる気にならない。皆で雑魚寝をしているので、時折ごろごろと吾郎太が転がりまわる音がする。

(……寝むれない。ちょっと水でも飲んでこようかな)

 起こさないように静かに起き上がると、できるだけ足音を消して土間へ移動する。電気が無いので、窓から入る僅かな月明かりと勘を頼りに歩く。土間の隅のほうに水瓶が置いてあるので、柄杓を用いて直接飲んだ。ひんやりとした井戸水が丁度良い室温になっている。今夜は雲が無いのか、かまどの上の小さな窓から差し込む仄白い光が伊月を照らす。

(ここの人たちはお月見を楽しんだりはしないんだろうな)

 窓の外を見ながら、ふと思う。この世界に来て一ヶ月、ここの人々が毎日の生活に堅実で、真っ直ぐに生きていることはひしひしと感じていた。それは、ついこの間まで学校で習っていた古典の世界を見ているようだった。現代にはない独特な時間の流れ方に憧憬の思いを込めていたのかもしれない。短歌や昔話にあるように、きっと、月夜も彼らなりの楽しみ方をするのだと勝手に思っていたのだ。だからこそ、昼間の出来事は小骨が喉に刺さったようで、上手く飲み込めずに伊月の心をもやもやさせていた。彼らの反応が理解できない。皆が過剰に警戒する『影映り』の存在は、改めてここが自分の世界とはかけ離れた場所であると認識させた。


「そういえば、池とか川に映るんだっけ。これも見えたりするのかな」

 伊月はほんの好奇心で、水瓶の中を覗き込んだ。『影映り』で声は渡っていないのか、家の中は山本家3人の静かな寝息しか聞こえない。

 実際のところ『影映り』に関して伊月は半信半疑だった。昼間は周りの雰囲気に気圧されて信じ込んでしまったが、よく考えてみれば近所の声がたまたま聞こえただけかもしれない。ここにきて、テレビドラマでよくある迷信や言い伝えのようなものだと思い始めていた。

(ほらね、やっぱり何も見えない)

 水面に映るのは自分の顔だ。暗くてはっきりとは見えないが、ゆるく結んだセミロングの髪を前に垂らした影は確かに自分だ。前髪を2つピンクのヘアピンで留めている。間違いない。

(あ、外さないで寝ようとしてたんだ)

 少し前から伊月は仕事の邪魔にならないよう、家の中にいるときだけ現代で使っていたヘアピンを愛用していた。その時、お美代が少女のような目で見てきたので、別の青い方をあげた。やっぱりいつの時代でも女性はおしゃれに興味があるのだと二人で笑ったのを思い出して、一人笑いを堪えながらヘアピンをはずそうと手を伸ばした。途端、ゆらり、不自然に水面が揺らめいた。

 風に揺らされたわけでもなく、ただ映った影だけがゆらゆらと動いている。その証拠に水面は波立つことも無く静かだ。一瞬で大吾たちの言葉を思い出し2、3歩飛びのいてそのまま後退する。何が起こるか分からない恐怖に、瞬きもできずにその場所をじっと見ていると、突然あることが頭をよぎった。『月下辺(かすかべ)』とはなんだろうか。大吾たちは、幻だと言っていた。町や人が映るのだとも。しかし、具体的にどんな場所だとは聞いていない。もしかしたら。

「もしかしたら、私の世界が映るのかもしれない」

 そう思ったら、恐ろしさは消えてゆっくりと近づいていた。どきどきとうるさい胸を押さえ、祈る気持ちで再び水瓶を覗き込んだ。


 結局、伊月の期待は叶わなかった。

 映っていたのは人影だ。暗くてよく分からないが、体の線が男のような気がする。人影は夜着を一枚纏っているので、結局『月下辺』はこちらと似たようなところなのだろう。後ろに映る景色にも現代との共通点を見つけることができなかった。落胆を隠せないでいると、人影が角度を変えたのか先ほどよりも鮮明に形を捉えることができた。やはり男だった。白い夜着に、(うなじ)あたりで切られた髪。髷がないのは珍しい。長めの前髪を横に流している。まだ若い。自分より少し年上くらいだろうかと見ていると、彼の目元で何かが反射した。

「うそ……」

 おもわず声を出してしまった。反射したのは眼鏡だ。細いフレームで分かりにくかったが、確かに彼は眼鏡をしている。何故。驚きに目を離せないでいると、彼と目が合った。彼も一瞬驚いた顔をしたが、すぐに警戒して睨み付けてきた。もしかしなくとも、こちらも向こうに視えているのだろうか。彼の前髪に隠れた切れ長の目とシャープな顔立ちの所為で、睨まれると迫力がある。こちらも緊張したまましばらく睨み合いが続いていると、向こうの視線が逸らされた。少しほっとして、彼の視線を追うと伊月の額を見ている。何か付いているのだろうかと手を当てると、固いヘアピンに触れた。これを見ていたのかと水面の彼にもう一度意識を向けると、その表情に伊月の全てが奪われてしまった。

 

 彼の泣きそうに歪められた顔が、翌朝になっても伊月の頭から離れない。

あの後、伊月が無意識に手を伸ばして水面に触れたことで、『影映り』は終わってしまった。しばらくその場に留まり、もう一度『影映り』が起きないかと見ていたが何も映らずに夜が明けた。朝、一番早起きのお美代が寝不足の伊月を心配してくれたが、適当に誤魔化し仕度を手伝う。

 彼はなぜあんな顔を見せたのだろう。味噌汁の具材を切りながら伊月の頭は昨夜のことを考えていた。彼のいる『月下辺』は現代なのだろうか。ならば何故あんなにも苦しそうな表情を浮かべたのか。わからないことばかりだ。


 (また、会えないかな)

 彼は今、いったいどこにいるのだろう。


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