十五夜逢瀬 1
夏も終わり、秋の風が吹き始めた頃。伊月は虫の鳴き声をBGMに、囲炉裏を囲んで皆で夕食を取っていた。今日のメニューは焼いたいわしと、胡瓜の漬物に乾物の入った味噌汁。主食は雑穀を混ぜたご飯だ。今までの食生活と比べるとかなり質素だが、それでも一日三食食べられるのは幸せである。現代のしょっぱいスナック菓子や、甘いスイーツが恋しい頃もあったが、ひと月もたてば薄い味付けに舌も慣れる。むしろ、戻ったときに向こうの濃い味付けに耐えられるかが心配だ。そんなことを考えていると、大吾が味噌汁の椀を静かに下ろした。それだけで、何か話があるのだと察したお美代が姿勢を正したので、伊月や吾郎太も箸を置いてピンと背筋を伸ばした。
「わかっていると思うが、明日は望月だ。誰も外へ出るな。日中もなるべく外出は避けろ」
大吾はゆっくりと念を押すように言った。とたん、お美代と吾郎太がハッとした顔をするが、伊月には何のことだか分からない。いつも和やかな山本家だけに、しんと静まり返った食卓はなんとも不気味だ。なんとか勇気を出して尋ねた。
「あの、望月って満月のことですよね。明日何かあるんですか?」
満月の夜といったら狼男とかのイメージだが、まさか本当に出るわけではあるまい。三人の深刻そうな顔に怯えつつも隣のお美代を伺うと、そうか知らないんだねぇ、と小言で何かぶつぶつ言っていた。
「望月の日はねぇ、『影映り』があるのよ」
「影……映り……ですか?」
初めて聞く単語に、ますますわけが分からなくなってくる。表情から十中八九悪い出来事のようだが、何のことなのか伊月にはまったく想像がつかない。
「『かすかべ』が見える日なんだ」
「かすかべ?」
「月の下の辺りと書いて『月下辺』という。幻のようなものだ」
大吾が吾郎太に着け添える形で話す。
「月が満ちると、川や池にこの『月下辺』が映る。これを俺たちは『影映り』と呼んでいる」
「そうなんですか……。その幻って、何が視えるんですか?」
正面の大吾は、いわしに箸をのばして口へ放り込む。もう食事を再開していいらしい。待ってましたと吾郎太が飯を掻き込んで、もごもごしながら伊月の問いに答えた。
「なんでも映るよ。どっかの家の中とか、建物とか。あと人も映ったりする。あと……」
「ものが無くなったり、出てきたりするのよ」
食いモンを入れたまましゃべるな、と注意された吾郎太に代わってお美代が後をつぐ。
「だから、望月の日はみんな落ち着かないのよ。私たち庶民は大事な商品が無くなったりするし、武士様や貴族様は高価な茶碗や刀が消えちゃったりするからねぇ」
要するに、何か物が突然行方不明になったりするはた迷惑な日、ということだろうか。幻が見えて、物がなくなるだけならたいして危険はなさそうである。
「先月は確か……筆と作りかけの扇子だったよな。あれ、おれが踏んづけて駄目にしたから丁度良かったんだよなぁ」
あはははは、と笑い出す吾郎太にお美代が目を吊り上げた。
「私はそれ初耳だよ。それで嬉しそうに話してたんだねっ」
「あ、やべ」
「だ・い・じ・な・売り物になんてことしてんだい! ちょっとこっち来なさい」
お美代が吾郎太の耳をつかんで自分のほうへ引っ張っていく。この光景もひと月ほどの間に何度となく繰り返されていたので、微苦笑を浮かべて伊月は夕食を再開した。吾郎太が助けを求めて伊月を見るが、見えないふりだ。怒ったお美代は怖い。触らぬ神にたたりなしである。黙々と食べる大吾に倣って伊月も箸を進めた。粟か何かの混ざったご飯は、向こうで流行った健康食を食べている感覚だ。毎日食べているし、もしかしたらダイエットになるかも、と思うのは女子高生だからか。
先ほどの落ち込んだ雰囲気など無かったかのように、この日の夜もにぎやかな夕食が続いた。
次の日、すっかり伊月の仕事となった扇子作りの手伝いをしていると、裏口の方から《すみませーん》と男の声が聞こえた。裏口側は、山本家と長屋に口の字で囲まれた中庭がある。井戸は長屋の人たちと共有なので、朝は洗濯物を干す女性たちのおしゃべりの場となっている。正真正銘の井戸端会議というやつだ。そんなたくさんの人で賑わう中庭も、昼間は仕事で忙しいのか、閑散としている。普段裏口から訪ねてくる人は少ないが、今日は満月の日だ。出かけるなといわれるくらいだから、皆家にいるのかもしれない。家の中をぐるりと見渡せば、お美代は店番をしながら忙しくそろばんを弾いているし、吾郎太も作業に没頭しているのか二人とも来客に気がつかなかったようだ。大吾は人に呼ばれたので朝から不在。作業も切り良く終わった伊月が、裏口へ向かった。
土間から勝手口の方へ行き、立て付けの悪い引き戸を少しだけ開ける。
「どちら様ですか?」
と、声をかけるが返事が無い。もう一度、声をかけてから思い切って引き戸を開け外へ顔を出してみた。
「あれ?」
中庭には誰も居なかった。秋に入ったとはいえ、まだ眩しい残暑の強い光が伊月の目を刺す。ささっと黒猫が一匹井戸の前を横切った。
「どうした?」
吾郎太が、座ったまま首だけ土間の方に向けて呼びかけた。
「あ、ううん。勘違いかな? すいませんって聞こえたんだけど、誰もいなくて」
申し訳なさそうに言う伊月に、吾郎太は道具を放り投げてこちらに走りより、乱暴に戸を閉めた。振り向いた吾郎太は無表情だった。くりっとした大きな目だけが強い光を放っている。その豹変ぶりに伊月はごくりとつばを飲み込んだ。
「あんまり聞くな」
子どもらしからぬ低い声が落ちた。静かでもゆっくりと、重さを持って耳に入るその声は、吾郎太や伊月を叱るときの大吾に似ている。萎縮した伊月の様子に気づいたのか、吾郎太は、
「『影映り』は声も運ぶ。から、あんまり耳を傾けちゃ駄目だ。本当かは分からないけど、あっちに連れてかれちゃうんだってさ! 伊月はちょっと抜けてるから気をつけろよ!」
と、茶化して笑った。
「う、ん。気をつけるよ。ていうか、抜けてなんか無いから」
一種の気味の悪さを感じながらも、それを伊月はぎこちない笑顔で誤魔化した。『影映り』という現象が伊月の思っている以上に怖れられている。確かに、誰もいないところで声が聞こえたり、人影が映るのは怪奇現象のようで不気味かもしれないが、直接人に危害を与えたりするものではないようなので、伊月はあまり危険視していなかった。認識が甘かったのだろうか、あの吾郎太の表情を無くした貌の方がいっそう恐ろしく感じた。




