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水面の月  作者: 霞シンイ
第二部
39/41

誰が待つやの居待月 2

 田松村はいかにも山村といった静かで小さな村だった。それは一行が到着したのが、日が完全に沈んだ後だからなのかもしれないが、明日祭りがあるというのにあまりにも村は日常過ぎる。一行と共に過ごすようになってから何度も興行に参加した伊月は、前日はもちろん、祭りが近づくと街中がふわふわと浮き足立つような、そんな空気を感じていた。しかし、この村ではそれが感じられない。伊月が今まで足を運んだのは人や物の多く集まる街や大きめの村であったから、このような小規模な村を訪れるのは初めてだ。その所為なのかもしれないと思ったが、やはりどこか奇妙さの抜けないまま伊月は男の案内する民家へと入っていった。

「ああー、やっと足が伸ばせるわぁ」

「本番が明日なのに、筋肉痛で踊れませんじゃ大変だもんね」

 民家の持ち主はこれから寝るところだったのか、眠そうな目を瞬かせて伊月たちを迎えた。用意された板葺きの民家の一室を借りて、そこで女が十人ほど。まるで修学旅行のように一夜を過ごす。

「きんにくつう? ああ、体が痛くなるってこと? 大丈夫よ。そうなってもちゃんと踊ってみせるから」

 部屋に着くなり板の間に倒れこんだ薊は、伊月の言葉に再び立ち上がると蝶のようにくるくると軽やかに踊って見せた。先ほどまでのダレた姿は夢幻(ゆめまぼろし)かと疑うほどだ。プロ根性とでもいうのか。きっと薊の創作なのだろう出鱈目な踊りを踊る彼女の表情に、厳しい山越え疲れなど微塵も浮かんでいなかった。

「はいはい。それなら明日ご披露なさいよ。あたいはさっさと寝たいよ。まったく」

 ごろりと横になったトミが隠しもせずに大あくびをする。それを見た伊月もつられて、ふあ、と口を開けた。とたんに瞼が重くなり、開いているのが難しくなる。

「ほら、みんな。もう寝ましょう。薊も早く落ち着きなさい」

 年嵩の女が皆を促しそれを合図に一斉に就寝の準備に入る。伊月も固い床の上に身体を置くと、薄い着物を布団代わりに体に乗せた。春先とはいえ夜は冷える。肌寒さに伊月は猫のように体を丸めた。


 高い位置で結い上げた髪が、さらさらと夜風に流れる。結い上げて腰に届くのだから、解けばその髪の長さは驚くものだろう。瑞香は流れる己の髪を鬱陶しそうに押さえると、松明を持った男に視線を向けた。

「ここが、明日祭りを行う沱俟(だまつ)のお社でございます」

 松明を持ってそう説明するのは、昼間瑞香を呼び止めた桑染の男だった。瑞香は黙って境内へ入っていくと、男が後を追うようにして小走りでついてくる。

 蛇俟の社は村の外れにひっそりと建っていた。瑞香はふうん、と一人頷いて暗いながらも辺りを見回す。明日の下見に来たのだが、これは中々興味深い。

瑞香が面白いと思ったのは、かつてこの社は村のほぼ中心にあったのではないかと推測できるところだ。ここへ来るまでの道や水路。それらがこの辺りに集まっているのだから。

「この村、ここから少しばかり西へ動かしたのかい?」

「はぁ。ええ、そうみたいですよ。ずっと昔のことだそうですが。家に伝わる村の地図を見る限り、昔はこの辺りが一番栄えていたそうで……」

「ほう」

 自然持ち上がる口端。桑染の男はそれを見て、この男とも女ともつかない者に釘付けとなった。ドキリと心の臓が跳ねる。それは、とびきりの傾城を見た時のような、あるいは、恐ろしい鬼あやかしをみた時のような。夜だからなのか。松明に照らされたこの芸能者が人外のものに見える。

 そんな男の心の内なぞ露知らず、瑞香は境内の広さや配置などを見て回った。しばらく笑みを浮かべていた瑞香だったが、拝殿に近づき松明の火が当たったところ見てぴしり、と笑みを凍らせた。面白い神社だとは思ったが、まさか。

 目を背ける様にして社の後ろに回ると、そこには大きな一本松があった。まだ最近掛けられたような真新しい注連縄が、少し変わったこの太い松の幹に結ばれている。おそらくこの一本松がここの御神木なのだろう。

「明日の祭はここの神に奉げる。それでよいのだね」

「ええ、よろしくどうぞお願いします」

 瑞香がうむと頷くと、桑染めの男はいとおしそうに注連縄をつるりと撫でた。まるで、自分の孫に「良かったね」と頭を撫でているよにうな。そんな仕種を見て瑞香は、新しい注連縄はこの男が結び直したのだと気がついた。

「この沱俟神社の神主があなた」

 確認するようにそう言えば、男はいいえと首を横に振った。

「この神社に神主はおりません。確かに、血を辿れば私の先祖はここで御使いしていたようですが、いつの頃からさっぱりと。今ではただの村人でございますよ」

 ははは、と男は力なく笑った。

「可笑しな話でありますよ。ここで神職に就いていたというのに、一体なんの神に御使いしていたのかてんで分からないなんて。いつの間にやら忘れられて、今ではお参りに来るのはくたびれた老人一人ですからね」

「可笑しな話ではあるが、よく聞く話でもあるね」

 え、と聞き返す男には答えず、瑞香は一本松に背を向けて再び拝殿の前まで歩いていった。暗いのではっきりとは見えないが、おそらく檜皮葺だろう屋根を見上げた。もう随分と葺き替えをしていないのが夜目にも見て取れた。ほったらかしだったのは屋根だけでなく、当然社全体の老朽化も激しい。いまだ嘗てこんなおんぼろの神社で舞ったことがあっただろうかと瑞香は己の過去を振り返ってみたが、ここまで酷いのは無かったろうと今にも落ちそうな庇を見て思った。田松村の人々はほとほとこの神社には関心がないらしい。しかし、先ほど見て回った時に見つけたのだが、壁や社を囲う玉垣など、手の届くところは不器用ながらも修理が施されていた。おそらく、注連縄同様この男が直したのだろう。

 こんな神社で祭をしても、果たして村人はくるのだろうかと疑問に思ったが、瑞香は考えるのを止めた。引き受けた以上責任は果たすつもりであるし、なにより村人の為に舞うのではないと思えば気にはならなかった。「まつり」とは本来神の為のものである。

 礼をしてこの沱俟神社の神様にご挨拶をする。神礼儀を欠かしてはいけない。例え社がどんなにぼろくとも、である。明日ここで舞わせて頂くのに何も申し上げない訳にはいかないのだ。小さく呟くように明日の祭で舞を奉納する旨を唱えていると、後ろで男が何か言いたげな視線を寄越してきた。しかし、瑞香はそれを綺麗に無視すると、そのまま境内を出て借りた民家へ向かった。この後も遅くまで沙羅と明日の打ち合わせをしなければならないのだ。男の話は長くなりそうだったし、ここらでばっさりと切らせてもらおう。体力も精神力も無尽蔵ではない。早く帰って休みたいのだ。

 困惑する男を神社に置き去りにして、瑞香は誰もいない夜道を一人歩いていった。まさか、あんな廃れた神社で舞うことになろうとは。話を承諾した時にはちっとも思わなかった。明日、神社を見た踊り子たちが卒倒しないと良いが、と瑞香は苦笑する。いや、卒倒ならまだ良い。ただ、へそを曲げられるのは困る。年頃の娘たちはなかなかに難しく、気位の高い子も少なくは無い。素人を抜けた辺りの中堅層は特に。大勢の町人や大名、役人の前で舞う度胸はあっても、観客の居ない舞台で謹厳実直に舞う心はあるだろうか。沙羅になんと説明しよう、と瑞香は頭を悩ませた。


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