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水面の月  作者: 霞シンイ
第二部
38/41

誰が待つやの居待月 1

 弥生に入って半ばも過ぎた頃、旅を続ける瑞香一行を呼び止めた者がいた。

 瑞香の一行は佩元(はけもと)の国へ向かう為、北へと進路を取っていた。津雲からも歧呉の国への関所が一つだけあるのでそこから歧呉へ入れるのだが、現在は封鎖されてそこを通ることはできないらしい。道行く行商たちが困ったものだと嘆いているのを聞くと、どうやら封鎖されたのは最近のようだ。伊月がそれを小耳に挟んだのは買出しの最中のことで、思わず苦い顔のまま店の女に金を出してしまった。それを見た女は「びた一文まけないよ」と、伊月の手から金を引っ手繰るようにして受け取った。伊月が「しまった」と思って女を見ても、彼女はもう他の客の相手を始めていた。

 瑞香の元へ戻り関所が封鎖されていることを伝えると、

「それは仕方がない。佩元へ迂回するしかないね」

と、知っていたのか知らなかったのか。瑞香はさして驚いた様子も見せず旅の進路を変えた。

 佩元の南東には歧呉の国。そして北東には美篶(みすず)の国がある。この三国は古くから交流が盛んで、同盟のようなものを結んでいるらしい。瑞香の話ではこの佩元と美篶の二国からなら歧呉に入れるだろうとのことだった。

 こうして佩元へ向かって旅を始め津雲の国の北の山道を進んでいる最中、伊月たちは見知らぬ者に声を掛けられたのである。

「もし……」

 山道の向こうからやって来た初老の男は、大きな荷物を背負いながら車を押す一行を呼び止めると、

「もし。あなた方はもしや、瑞香殿が率いる女田楽の皆々様ではござらんか」

と、伊月たちを見回して言った。瑞香は車を押していた手を止め「いかにも」と答えると、老人の前に立ちなにやら二人で話を始めた。

「ふぅ。なんだかよく分からないけど休憩になってよかったわ。もう足が棒になりそう」

 伊月の隣にやって来た薊が車に寄りかかる。伊月は飲んでいた水筒から口を離し「そうだね」と返した。一行は今朝早くに山へ入ったのだが、暗くなる前になんとか山を抜けたいと、山道に入ってから一度も休みなしの強行軍でここまで来た。車を押す役は交代だったが、それでも歩き続けるということに違いはない。ただ、暗くなれば獣や山賊などに狙われるのは目に見えている為、誰一人文句など言わなかったが。

「あのおじいさん、なんの用なんだろうね?」

「そりゃあ、女田楽を引き止めるんだからあたしたちに舞わせたいんでしょう」

 薊は草鞋の紐を解いて足を楽にすると、道端の丁度良い石垣に座り込んで足をぶらぶらとさせた。伊月の話にはさして興味が無いようだ。

「それはまあ、そうなんだけど。でも、わざわざ山道でその話をしなくても」

「確かに、村で待ってりゃいいもんね」

 そう言って顔を出したのは化粧師(けわいし)のトミだった。その後ろには踊り子の百合が一緒にいる。

「まあ、わたしたちが考えても仕様の無いことさ。瑞香様がどうなさるかよ」

 トミは伊月の肩に腕を回すと、にっと目を細めて猫のように笑った。

 トミは化粧師(けわいし)といって現代でいうメイクアップアーティストのようなことをしている。踊り子たちの化粧はもちろんのこと、重ねの組み合わせなど衣装に関することも彼女は率先してやっている。伊月が初めて瑞香に会った二年前はまだ一座に居らず、丁度町を離れた直ぐ後にこの旅に同行するようになったらしい。たいして歳はかわらないのだが、サバサバとした姉御肌の性格がどことなく山本家のお美代のようで、伊月は時に姉のように彼女を頼りにしていた。

 その後ろで隠れるようにしているのは百合という踊り子だ。今年で十五になるそうだが、人見知りが激しいらしくあまり二人きりで会話をしたことはない。二年前は見習いとして一座に居たそうだが、見習いで表に出なかった所為か、あるいはもともと存在感が薄い所為なのか。伊月の記憶には欠片も残っていなかった。

「ああ、ほら。話がついたみたいだ」

 トミの声に前方へ視線を向ければ、瑞香がこちらに近づいてくるところだった。楽にしていた薊も石垣から降りて耳を傾ける。

「これからこの者の村で明日行われる春の社日祭で舞うことになった。宿は彼が手配してくれるそうだ。皆、気を引き締めておくれ」

 その言葉に一同は「はい」と頷くが、何分突然のことだ。踊り子たちは皆戸惑いを隠せないでいる。

「ちょっと待って。そんなの急すぎるわ!」

 そう声を荒げたのは二年前に藤姫役を演じた沙羅だった。おそらくこの一座で瑞香に意見できるのは彼女くらいだろう。沙羅は女神のように美しい顔を歪めて瑞香に詰め寄った。

「明日だなんて、演目はどうするの? 準備なんて何もできないようなものじゃない」

 彼女の言うことは最もで、伊月も少し不安に思っていたことだった。こんな山奥の村だ。大きな街のように欲しい物が簡単に手に入るような所ではないだろう。そうなると、伊月たち道具班も出来ることは限られる。

「演目は皆が踊り慣れているものでいいだろう。衣装や道具も今あるものだけでなんとかなるだろう? こちらとしても予定外の舞台だ。あまり大きなことは出来ないよ?」

 始めは一座の者に向かって、後半の言葉は話を持ちかけた男に向かって瑞香は言い聞かせるように言った。男はもちろんです、と何度も頭を下げて一座が村へ来ることを感謝した。

 男の先導で一行は二股に分かれた山道を左折して西寄りに進んでいった。主要な道路としてきちんと均してあった山道に比べると、今歩いている道は村人しか利用しない為かひどくでこぼことしていて歩き難い。伊月はひぃひぃと息を荒げながら痛む足を動かし続けた。正直、ただの高校生だった頃ならとっくに根をあげていたに違いないが、後ろで自分よりも幼い子どもたちが何も言わずに付いてきていると思えば自然と力が沸くものだ。鹿のたちが子ども同士手を繋ぎながら付いてくるのを確認して、伊月は前へ前へと足を動かしていった。

 瑞香と話しながら先頭を歩く男は、くたびれた桑染の筒袖を着ていて烏帽子を被っている。くすんだ黄色の着物が男の顔を余計にやつれさせて見せた。一体どんな身分の人なのだろう。村の村長なのか、役人なのか、はたまた只の村人の一人なのか。伊月にはさっぱり想像がつかなかった。伊月が男の背中に大きなあて布がしてあるのを見つけると、「まだ着かないのかしら」と薊がやって来た。

「さぁ、すぐって言っていたような気がするけど……」

 この世界の人間の「すぐ」が当てにならないのは、伊月がここに来て何度も噛み締めたことだった。ただ、今回ばかりは誰もこの距離が「すぐ」には思えなかったらしい。昼餉の休憩もすっとばして、もう日は傾き始めている。誰も彼もが限界だった。そんな中、木々が開けてその向こうにぽつぽつと民家が見え始める。伊月は笑顔を浮かべて隣で俯き歩く薊の肩を叩いた。

 村の入り口と思しき簡素な門には『田松村』と書かれていた。


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