隠れにし望月 3
昨日伊月が満尋に貰った紅い椿は、そっと棚の上に飾られている。朝からずっとそれを見ては笑顔になる伊月に、お美代はあら、と目を丸くした。
「綺麗じゃない。どうしたのよ」
そう尋ねられて、とっさに「朝拾ったんです」と言ってしまった。ふうん、とお美代は意味ありげに伊月を見ると、「よかったわね」と朝餉の片付けを始めた。この辺りに椿の木が生えていないことなど、彼女にはお見通しなのだろう。
今宵は満月。皆外には出ず、家の中で一日を過ごす日だ。山本家も今日は食事をしたら、仕事もなく皆思い思いの時間を過ごしていた。
そんな中、伊月は家の中で貝殻と睨めっこをしていた。その向かいでは吾郎太がにやにやと手に持った貝を弄んでいる。むむむ、と唸ると伊月は貝を裏返して置いて、その間に挟まれた表の貝殻を三つ引っくり返した。二人は今オセロをしているのだ。
「伊月の知っている面白い遊びはないか」と吾郎太に聞かれて、伊月がオセロはどうかと言ってみたのだ。家の中ででき、道具を簡単に用意できるものはこれぐらいしか思いつかなかったのだが、吾郎太はお気に召したようだ。丁度良い大きさの板に網目を描いて、汁物に使ったアサリの貝殻を石代わりにすればいい。ルールも簡単なので、吾郎太はすぐに興味を示した。初めは伊月が連勝していたのだが、次第に吾郎太もこつを掴んだようで、伊月は苦戦を強いられている。吾郎太に四隅を取られたのはかなり痛い。現在、五勝五敗。教えた側として、ここで逆転されるのは悔しい。
「よーし! 俺ここなー」
吾郎太が嬉々として貝殻を置くと、そのまま裏面になっていた貝殻を次々と引っくり返していった。「え? そんなに!?」と仰天する伊月に「縦横ナナメだろー?」と容赦ない。見る間に真っ黒になっていった盤を見て、伊月はがくりと項垂れた。完敗だ。
そこへ神妙な顔つきで話していた大吾とお美代が二人を手招きする。二人は盤と貝殻を片付けて隅へ寄せると、囲炉裏を囲んで座り、大吾とお美代を見た。
「望月が明けたら、しばらく扇子売りの仕事は無くなる。お前達もそのつもりでいろ」
大吾は渋い顔で吾郎太や伊月の顔を見た。「え?」と驚く二人にお美代は寂しそうな顔をした。扇子売りの仕事が無くなるとは一体どういうことだろうか。
「なんでだよ? 店たたむってことか? 冗談じゃねぇ!!」
「吾郎太、落ち着いて」
「でも、母ちゃん……!」
立ち上がり、泣きそうな顔の吾郎太をそっと静めて座らせる。しかし、吾郎太の気持ちもよく分かる。どうして、急にそんな話になったのだろう。吾郎太が話を聞く態勢になったのを見て、大吾が再び口を開いた。
「何もずっと仕舞いにするわけでは無い。一時的なものだ。……品が入ってくるまでの」
大吾は優しく吾郎太の頭を撫でる。それでも吾郎太はまだ不服のようだ。
「品が入るまでって、今は入らない状況なんですか?」
「そうなの。扇骨を作っている職人さんがこの間いらしてね。竹が手に入らなくなったから、しばらく骨が作れないって」
困るわよね、とお美代が頬に手を当てて溜息つく。なんで、どうしてと尋ねる吾郎太を見ながら、これも戦の影響だろうかと伊月は考えていた。蔵助が言ったようにどこかで買占められているのかもしれない。しかし、炭も無い。竹もない。今後米も無くなるとなれば、これから先どうしていけばいいのだろう。
「俺は知り合いの伝で酒蔵の手伝いに行くことになった。母さんもしばらく他所で働く」
「まだ、どこかは決まっていないけどね。だからね、伊月。悪いけどそういう訳だから、あんたも他所で仕事見つけてほしいのよ」
せっかく仕事を覚えたところなので残念だが、仕事が無いのでは仕方が無い。「分かりました」と頷くと、お美代も大吾もほっとしたようだった。それから、暗い雰囲気を吹き飛ばすように、
「よし! じゃあ、あたしもその盤上遊戯を教えてもらうかねぇ。勝つわよー」
と、お美代が腕を捲くった。「はい!」と伊月が笑顔で返事をすると、吾郎太が片付けた板と貝殻を出してきて床に並べた。大吾は三人の様子を見ながら白湯を啜っている。分かりにくいが、たぶん微笑んでいるのだろう。こうして始まった山本家大オセロ大会は、日が暮れるまでずっと続いた。
皆が寝静まったのを見て、伊月はそっと山本家を抜け出す。とにかく着込んでぶくぶくとしているが、寒いよりは断然良い。首にも藍色の襟巻きを巻いて、伊月は池へ向かった。せっかくの満月だというのに、空には昼間からずっと重たい雲がかかっていた。月の光はその分厚い雲に覆い隠されてどこにあるのかも分からない。ただ、牡丹雪がばさばさと降るのみである。
もうすぐ池に着こうかという所で、町の東側がなにやら明るい。伊月は立ち止まってそちらを見遣るが、家に隠れて何が起きているのか分からなかった。次第にわぁわぁと人々の喧騒が近づいてくる。一体何があったのか。日が沈んでから、このように人々が騒ぎ出すのは珍しい。伊月はじっと町の東側を見ていると、カンカンと人々を叩き起こすような激しい警鐘が鳴り響いた。
その次の瞬間、わっと火柱が上がった。
真っ暗な夜の中に突如として現れた炎は、あっという間に他の家々を飲み込んでいく。しかし、騒ぎはそれだけではない。空から火の雨が降り注いでいるのである。伊月はただ立ち尽くし、その様子を見ているしかなかった。そうしている間にも、大量の火矢が町に向かって次々と飛び込んでくる。木で作られた簡素な家は、瞬く間に燃え上がった。
逃げ惑う人々が伊月にどんっとぶつかった事で、放心していた伊月もまた我に返った。こんな所でぼうっとしている場合ではない。早く山本家に戻らなくては。人の流れを逆流するように、元来た道を戻っていく。東であがった火の手は、西側に位置するこの辺りにも押し寄せていた。冬だというのに伊月の額には汗が滲んでいる。伊月は一枚一枚着込んだ衣を脱ぎ捨てながら走った。
「お美代さん!! 大吾さん、吾郎太くん!!」
裏口を勢い良く開け放し家の中へ入るが、中はしんとして誰も居ない。囲炉裏に残った僅かな火が、ちろちろと光っているのみである。しかし、それも一瞬だった。どこからか、パチパチと火の爆ぜる音が聞こえたと思うと、隣の家から燃え移ったのか、山本家にも炎が襲う。まずは板を重ねた屋根が燃えた。それから、ぼたぼたと炎が天井から落ちて、下に置かれた家財道具へ燃え移る。どうすることも出来ずに、伊月は燃え行く家の中を見回した。お美代が毎日つけていた帳簿が燃え、商品の扇子が灰となっていく。大吾がいつも座っていた板間の床は火の海だった。吾郎太と遊んだばかりの手作りオセロはその海の中だ。そして、紅い椿は赤い炎に呑まれて溶けた。
伊月はそれを息の詰まる思いで見ていると、ミシミシと家が大きく軋んだ音をたてた。本能的にここは危険だと体が動いて、振り切るように正面の戸口から表へ出ると、山本屋の前には人だかりができていた。
「ついに尻尾を出しやがったな、この化けもんめ!!」
「あんたが来なけりゃ、こんなことになんなかったんだよ!!」
出会い頭、人々は口々に伊月を責め立てた。人々の伊月を見る目は、どこかで見たことがある。どこだっただろうか。伊月は町人の鬼のような様相に怯み、何も言い返せない。その人だかりの後ろで、見知った近所の人たちが心配そうな顔つきでこちらを見ていた。
「そんなこと言っちゃあ駄目だよう。あたしゃ、この子のことはよぅく知ってんだ。こんなことをする子じゃないよ」
そう言って熱り立つ男を諌めたのは、向かいに住む老婆であった。隣の長屋の小母さんたちも、そうだそうだと頷いている。
「うるせい!! そんなの猫被ってたに決まってんだろうが! ちゃあんと見たって奴もいるんだよ」
男はそう言って周りの者を黙らせると、人だかりの中から出てきて容赦ない力で伊月の腕を掴んだ。そして、そのまま燃える山本家の中へ投げ込もうとする。
「ち、ちがいます!! 止めて!」
きゃあ、とあがる悲鳴と、やっちまえと叫ぶ声が入り混じる。いよいよ背中に熱が迫ってきて、伊月は青くなった。髪の毛の燃える臭いがする。ばたばたと必死に抵抗すると、目の前の男が「ぎゃあ」と声をあげて腕を放した。熱い柱に腕が当たったらしかった。その隙に、伊月は男を人ごみに押しやると一目散に駆け出した。後ろから汚い罵倒が浴びせられているのが聞こえる。
伊月にはなぜ急にこんなことが起きたのか分からない。人々が前々から『月下辺』の化け物の噂を信じていた所為か。それとも、戦の気配が近づき人々の不安が高まっていた所為か。あるいは、この突然の大火に心までも煽られたのか。
伊月は燃える町を背中に、どこまでもどこまでも走り続けた。




