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水面の月  作者: 霞シンイ
第一部
33/41

隠れにし望月 1

 ちらちらと天から六花が舞い落ちる。すっかり雪化粧をした山々に秋の気配は見られない。それは、伊月のいる町でも同じである。別暮の国は豪雪地帯では無いが、冬はそれなりに雪が降る。町では皆、屋根に降り積もった雪を下ろすのに忙しなかった。

 伊月がこの世界に来て五ヶ月が経とうとしていた。その間に別暮の国の情勢は、大きく変わろうとしていた。

 丹万(たんま)と交戦中だった茶河(さかわ)が降伏したのだ。これにより、茶河の領土が丹万の領土に取り込まれた。これで、伊月のいる別暮の国が丹万の国と隣り合わせになってしまったのだ。丹万は戦の絶えない国で有名である。領土拡大を狙い、別暮にも宣戦布告をしてきた。伊月のいるこの町は、旧茶河領との国境から程近い。長らく平和な時を過ごしてきた町の人間は、いつ彼らが攻めてくるかと、戦々恐々とした暮れを送ったのである。

 戦の余波は、何気ない日常にも影響を及ぼしていた。

 この世界には当然ヒーターなどが無いから、囲炉裏の火で温まるしかない。伊月は町に出て囲炉裏にくべる炭を買いに来ていた。しかし、炭売りの女が町から居なくなっていた。一体どうしたことか。市の側にある船着場で、荷卸をしていた蔵助に尋ねると、なんでもどこかで炭が大量に買占められているらしい。

「買占め? それで、町まで炭が出回らないんですか?」

「ああ、まぁどこかは大体想像がつくがな」

 どすん、と米俵を舟から下ろすと、蔵助はその俵をぽんぽんと叩いて見せた。伊月にはその意味が分からず首をひねって見せると、蔵助は苦笑した。

「戦だ。隣町では既にこっちの方の買占めも始まっているらしい。その内、俺達の仕事も無くなるかもしれんな」

 戦か、と伊月には馴染みの無い言葉が、この町に迫りつつあった。最近は店にいてもその話題で持ちきりである。絵巻物に語られるような戦がこの世界でも起きるのだろうか。茶河から流れてきた浮浪者の姿を思い出して、伊月はぞっとする。震える声で「ありがとう」と蔵助に礼を言うと、伊月は山本屋へ戻ることにした。

 通りには今までに見なかった、武器を持った者たちが町内をうろつき、それが町民たちの不安を煽っている。武士だろうか。安全の為の見回りに来ているのか、それとも敵情視察で睨みを利かせているのか、さっぱり分からない。

 また町へ出ると、行商で外からやってきた商人に話しかけられることも多くなった。彼らは皆、「慌しいねぇ。何か困っていることは無いかい?」と聞いてくる。普段抜けている、と良く吾郎太に言われる通り、元々伊月に声をかける人間は多かったが、質問の内容が皆一貫して同じなら伊月だって不審に思う。人の良さそうな顔をしているが、何か裏があるような気がして、「私には分かりません」と伊月は答えていた。


 戦以外にも伊月を悩ますものはある。

 最近町を歩いていると、ひっきりなしにいろいろな声が聞こえてくるのだ。男の声、女の声、子どもの声。伊月にはそれが『影映り』で渡ってくる『月下辺(かすかべ)』からの声だと分かっていた。集中しなければ、それは雑音と一緒で何を言っているのかは分からない。伊月はなるべくそれを聞かないように、無視することを心がけていた。明日は満月。その所為か、今日はやたらと声が煩い。不思議なことは、町を通る人々がまったく顔色を変えずに歩いていくことか。まるで、この声は自分にしか聞こえていないみたいだ。いや、実際そうなのかもしれない。『月下辺』からの声を何度も客と間違える伊月と違って、山本家の誰もそんな間違いは犯さない。彼らにどうすれば聞こえなくなるか、と聞いてみても、「何も聞こえないから答えようがない」のだそうだ。伊月は両手で耳を塞ぎたくなる気持ちを抑えて、足早に山本屋へ駆け込んだ。

 おキヨに『影映り』を止めるよう言われてから二ヶ月。伊月は満尋との『影映り』を絶っていた。会えない事実が苦しくて、それならいっそと思ったのだ。しかし、それは会いたいという気持ちを募らせるだけだった。こっそり夜に抜け出して、未だに池まで向かっているのがいい証拠だ。満尋は、二ヶ月経っても伊月を呼び続けている。さっさと諦めてくれれば、こちらも諦めがつくというのに。切なく己の名を呼ぶ声に、伊月は何度応えそうになったことか。それでも、その声がずっと続けばいいと思う自分も大概である、と伊月は一人自嘲するのだ。ずるいことをしている自覚はある。


 夜。冬の寒々とした空気の中を、伊月は一人池に向かっていた。流石に夜着一枚では寒いので、昼間着ていた小袖を上に羽織ってはいるが、日の沈んだ冬の夜は凍てつくような寒さである。明日が満月という割に、明るさが無いなと空を見上げれば、薄っすらと月に雲がかかっていた。これは、今夜も降りそうである。

 池には氷が張っていたが、所々割られて水面が剥き出しになっているところがある。おそらく、昼間に子どもたちが遊びで刳り貫いたりしたのだろう。伊月は池から少し離れたところで、声が聞こえるのをじっと待つ。最近、この時間は毎日呼びかけがある。彼の声を聞いたら、そっと山本家へ戻ろう。伊月はこの時そう思っていた。

 しかし、鐘が鳴り一刻が過ぎても声が聞こえない。伊月は慌てふためいた。掌から伝わる雪の冷たさなど気にしない。伊月は池に身を乗り出してみるも、満尋の姿はどこにも無く、『影映り』の兆候さえ見られなかった。

(ど、どうしよう……! 『影映り』するの止めちゃったんだ!!)

 凍った池には、おろおろと狼狽える自分の姿しか映らない。ついに満尋は伊月に呼びかける事を止めてしまったのだ。

(私が勝手なことしたから……!!)

 いざ、本当に繋がりが無くなって、こんなに不安になるとは思わなかった。おキヨの言葉なぞ聞かずに、今まで通り『影映り』を続けていれば良かった、と後悔してももう遅い。うわーん、と子どもの様に泣きながら、伊月は何度も何度も満尋の名前を呼んだ。もう、何を叫んでいるのかも分からなくなってきた時、「やっぱり居たか」という呟きが、風に乗って伊月の耳に届いた。


「まさか泣かれるとは思わなかったな」

 苦笑交じりの優しいテノールが、池の中から語り掛ける。水面が揺らめいているのは涙の所為か。それとも『影映り』の所為か。

涙でぼやけた視界には、懐かしい眼鏡の少年が映っていた。


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