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水面の月  作者: 霞シンイ
第一部
32/41

鬼胎む小望月 2

 延々とどこまでも青い空が続く、今日は見事な秋晴れだ。雲一つ無い、気持ちのいい朝である。しかし、伊月はまだ足が完治していないため、こんな日も店の中で一日中過ごす。木箱の上に腰を下ろし、道行く人を恨めしげに伊月は足をぶらぶらと揺らしていた。本当は、この間満尋と約束したムラサキという人物について、すぐにでもいろいろ町を尋ねたいのだが、当分は先になりそうである。

 それにしても、日が経つに連れ伊月の心にはモヤモヤとしたものがまた溜まり始めていた。関係無いと思いつつも、何故自分にはムラサキとの関係を言えないのか、と考えるとどうにも煮え切らないのである。そして、なんとも言えない漠然とした不安感が伊月を襲うのだ。あの時、その場で終わりにしようと自分で決めたはずなのに、何故数日経った後も悩まされているのか。それもこれも、はっきり言わない満尋が悪いと、伊月の心中で彼に苛立ちをぶつける日々が続いている。

 そこに思わぬ人物が山本屋を訪ねてきた。

 おキヨである。狐色の包みを抱えて、気まずげに戸口に立っていた。今日はいつものように髪の毛を布に仕舞っていないので、少しばかり見た目の雰囲気が違う。伊月と同じように髪を緩く下で束ねた姿は、彼女の生来の空気と相俟って一層大人っぽく見えた。

「今お伺いしても?」

 控えめにかけられた言葉に、「どうぞ」と中へ促す。今は馴染みのお客さんが一人来ているだけだ。おキヨの用は分からないが、大丈夫だろう。

 客の相手をしているのはお美代で、話し好きの彼女は世間話も交えつつ商売の話もしているようだ。軽く頭を下げるおキヨの姿を見て、奥へ入れなさいと伊月に目配せした。居間兼仕事場の奥の板間では、大吾が出納簿と睨めっこしながら金の計算をしていた。大吾は出納簿から顔を上げておキヨの姿を見ると手を止めた。

「あの、私は『茶屋 饅饅』のおキヨといいます。先日は姉が大変お世話になりましたそうで。これは、父が作った饅頭です。宜しければ、どうぞ……」

 おキヨは板間の上に包みを置くと、深々と頭を下げた。しかし、大吾にも伊月にもおキヨの姉に会った覚えがない。何のことかと首をひねっていると、おキヨが、「雨の日に……」と口を添えた。

「え!? あの女の人、おキヨちゃんのお姉さんだったの?」

 伊月が驚きの声をあげると、おキヨは「はい」と頷いた。なるほど、言われてみればどことなく似ている気がする。おキヨがあともう少し歳を重ねれば、きっとそっくりな姉妹になるだろう。

 しかし、おキヨの姉といえば、不名誉な噂のある人だ。伊月は何時ぞやの下品で失礼な男たちを思い出し憤慨した。何故あの人が影憑きと蔑まれなければいけないのか。優しい顔で笑う素敵な人だったではないか。

「え? 『茶屋 饅饅』の娘さん……」

 客の相手が終わったのか、お美代が気まずげな顔をしてこちらへやってきた。

「もしかして、影憑きの……」

 お美代がそう言うと、おキヨは顔を赤くして俯いた。ぎゅっと自分の小袖を握り締め、何かを堪えている様だった。大吾が「おい」とお美代を窘めると、はっとして「ごめんなさいね」と謝ったが、おキヨは首を横に振る。

「いえ。姉が、『月下辺』の人間と言葉を交わしているのは、本当のこと、ですから……」

 搾り出すような答えにしん、と空気が静まり返った。伊月はおキヨのことを信じられない思いで見つめた。何故。以前男たちに姉が影憑きと呼ばれた時は、必死になって否定していたではないか。自分に向かって一生懸命信じてくれと懇願したではないか。何故、今ここでもそうしないのだ。

 おキヨは顔を上げると、じっと伊月と目を合わせた。伊月は自分が『影映り』をしていた時のことを思い出して、言葉に詰まる。「あなたも姉さんと同じなの?」と彼女の言葉が頭に蘇り、伊月ははっとした。つまり、『月下辺』の人間と言葉を交わせば、それが影憑きになったということなのだろうか。たったそれだけで、謂れの無い誹謗中傷を受けてしまうのか。ここでは。

「そんな……」

 思わず伊月が声をあげると、おキヨは「では、これで」と、もう一度深く頭を下げて店を出て行ってしまう。伊月は納得のいかないまま、彼女の後について立ち上がった。戸口の所で、おキヨは声を潜めて言う。

「もう、あの夜のようなことはしないで。私、誰にも言わないから」

「……私も影憑きなの?」

 そう呟くとおキヨは悲哀のこもった目で伊月を見た。そう言えば以前尼僧にも、「つかれている」と言われた事がある。あれは、「影に憑かれている」ということだったのか。

「姉さん、まだ嫁に行ってないって聞いた? もう二十歳だというのに、縁談全部断っているのよ」

 どうしようもないわね、と言うようにおキヨは姉の話をした。伊月は突然変えられた話に目を白黒させたが、黙っておキヨの言葉を聞く。人の行き交う通りの前で、彼女の小さな声は気をつけねば風に浚われてしまう。

「『月下辺』に好いた(ひと)がいるんですって」

 充分ありえる話だろう。影映りの相手とは、顔を見て、声を聞いて、会話することができる。男女で影映りを行えば、恋慕の情が芽生えてもおかしくない。

「『月下辺』の男と契りを交わしているんですって。だから、相手を裏切るようなことは、できないって……!」

 どんっと衝撃が来て、伊月の腕の中にはおキヨがいた。肩口に寄せた彼女から、小さな小さな嗚咽が聞こえる。

「あの夜、見つけた姉さんにはっきり言われたの。……莫迦よ! あの人ずっと、一人で生きていくつもりなんだわ」

 ああ、おキヨは姉の不毛な恋に嘆いているのか。「一生会えないのに」と繰り返す彼女を、伊月はそっと抱きしめた。自分はずっと、電話をしているような気持ちで満尋と『影映り』をしていた。そうか。本当の意味で『月下辺』の人間と会うことはできないのか。生身の満尋と、顔を合わせて、手を触れ合わせることはできないのか。

 この世界のどこを探しても、満尋はいないのだ。それを思うと、伊月は身が千切れるような胸の痛みを感じた。

「会えないの?」

 呆然と呟く伊月をおキヨもまた抱きしめた。

「会えないよ」

 水面に映るのはただの影。『月下辺』にいる実体の存在を証明しているに過ぎない。その影ですら、実体のほんの一片を映しているだけなのだ。こちらの人間にとって、水面の前に立つ(かれ)こそが全てで、そこを離れた実体(かれ)のことなど、窺い知る事なぞできないのである。そしてそれを自覚した時、初めてこの思いの苦しさと、切なさと、空しさを感じるのだ。

「もう、止めにしましょう?」

 優しく囁くおキヨの言葉に、音も無く伊月の頬を涙が伝った。


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