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水面の月  作者: 霞シンイ
第一部
31/41

鬼胎む小望月 1

「あらぁ、伊月さん。その足どうしたの?」

「あ、こんにちは。昨日少し痛めてしまいまして……。大したものではないので。ご心配有り難うございます」

 店の中で帳簿を整理している伊月に、扇子を納めに来た女が声をかけた。お美代よりも少し年上に見える女は、山本屋の発注先である扇子職人の者だ。時々こうして品を届けに来るので、お互い顔見知りである。彼女は伊月の右足に巻かれた白い布を見て、眉を下げた。

「あら、いらっしゃい。そうなのよ、この子ったら崖から落ちたなんていうのよ? とんだお転婆だったら……」

 店内で算盤を弾いていたお美代が、呆れたように女に話しかける。それを聞いて女は「まぁ」と口元を押さえた。

「よく無事で。大事にならなくて良かったですね。跡が残らないと良いけれど……」

「あ、それは大丈夫です。ただの捻挫、挫きですから」

 歩く時は確かに痛むが、大人しくしている分には問題ない。女から品を受け取り笑顔で答えると、「それは良かったわ。お大事に」と女は帰っていった。

 しかし、伊月には足の怪我よりも気にしなければならないことがある。昨夜、おキヨに『影映り』を見られてしまったことだ。唯でさえ、伊月には『月下辺(かすかべ)』からの化け物だという噂が密かに流れている。おキヨが昨日のことを誰彼構わず言い触らすとは思わないが、どうも昨日の様子では安心できないのだ。

 昨日の夜。おキヨに『影映り』を見られて慌てて満尋の影を消した後、おキヨは「あなたも姉さんと同じなの?」と言った。悲痛が込められたその声は、どうして、と詰め寄るおキヨと共に伊月を責め立てる。伊月は何も言えずに、そのまま彼女を軽く突き飛ばして逃げて来てしまったのだ。山本屋に戻ってから、自分が捻挫していたことを思い出し、さらに悪化させてお美代を困らせたのだが、それはひとまず横に置いておく。とにかく、おキヨには夜中に満尋と会っていることがばれてしまったのは間違い無いのだ。

(あれ? でもお姉さんと同じって言ったよね?)

 何かと話しに上るおキヨの姉だが、もしかして彼女も『影映り』で『月下辺』と交流しているのだろうか。もしそうなら、伊月としては個人的に話をしてみたい気もするが、きっとおキヨが許さないだろう。昨日の感じでは、絶対に姉の『影映り』を良く思っていないはずである。それは、ここの人たちも共通して言えることだが、『月下辺』を極端に恐れている嫌いがある。はあ、と一つ溜息をついて、伊月は途中だった帳簿の整理を開始した。


 開け放しの戸口から湿った空気が入ってきて、外の人々が慌しく通りを駆けていく。伊月が外を覗き見ると、昼だというのに暗くなった空からぽつぽつと雨が落ちてくるのが見えた。

「やだわ。お客さん入らないじゃないの」

 慌てて洗濯物を取り込んできたお美代が、不愉快そうに言った。雨音が次第に強くなり、いよいよ本降りになってくる。駆け足で店の前を通り過ぎる人々も、見る間にその数が減らしていった。この世界には雨具が無い。傘はあるにはあるらしいのだが、開きっぱなしで閉じないらしくあまり使われないそうだ。後は笠を被るくらいだが、伊月にしてみれば帽子で雨の中外に出るのと同じであり、濡れるのに大差ない。そのため、雨天時は皆外出を避けるので、人の入りがぱたりと途絶えてしまうのだ。おまけに、外で露天をしている者は商品が濡れてしまうしで、商売をする人間にとって、雨が降るというのは中々痛いハプニングである。

 伊月が中で人々の様子を観察していると、店の暖簾を潜って外に出ていた大吾が帰ってきた。髪も着物もしとどに濡れている。「お帰りなさい」と伊月が手拭いを渡し、お美代は着替えを用意しに行った。

「まったく。どっかで雨宿りしてくれば良かったじゃない」

「……帰ったほうが早い」

 手拭いで髪や顔の水気を拭う大吾に、お美代が新しい着物を差し出した。大吾が奥で着替えに行くと、ますます雨脚が強くなり外が真っ白になる。これは、雨宿りするよりも帰ってきた方が正解だった。バケツを引っくり返したような土砂降りである。板敷きの天井を激しく叩く雨音が、その勢いの凄さを物語っていた。そういえば、吾郎太も外へ遊びに出ていたが、大丈夫であろうか。

「お美代さん。吾郎太くんは……?」

「え? 大丈夫よ。子どもは濡れてなんぼだもの。風邪なんて引きやしないよ」

 お美代はからからと笑うと、白湯を沸かす用意を始める。大吾は濡れた頭をがしがしと拭きながら、伊月に無言で頷いた。放っておいても良いらしい。それならと、伊月は足に負担をかけないように戸口まで向かい、店の暖簾を下ろしにかかった。このままでは、店の中まで濡れてしまう。すると、通りの向こうから水の撥ねる音がこちらに近づいてきて、一人の女性が店の前までやってくる。

「あの、すみませんが軒をお借りしても宜しいですか?」

 くすみのある赤い今様の小袖がぐっしょりと濡れている。女性の長い黒髪も顔に張り付いて、これでは風邪を引いてしまう。

「もちろんです。あの、軒なんて言わずにどうぞ中へ」

 勝手に決めてしまったが、大吾もお美代もきっと中へ入れただろう。半ば無理やりに女性を店の中へ招くと、お美代が「あら大変」と新しい手拭いを用意した。

「有り難うございます。本当に軒先を借りるだけで良かったのですが……」

 手拭いを受け取った女性が、申し訳なさそうに言った。まだ若い、十代後半か二十代前半位に思える。困ったような顔をした女性は、どことなく誰かに似ているような気がした。

「何言ってるの。女が身体を冷やすなんてとんでもない。ほら、こっちで温まりなさい」

 お美代が先に囲炉裏で暖をとっていた大吾を追い出し、女性をその位置へ座らせる。びしょ濡れの女性は、冷たい雨に打たれた所為で細かく震えていた。伊月は自分の湯飲みに白湯を注ぐと、女性に差し出した。微かに触れた手のひらが驚くほど冷たい。伊月は無理やりにでも、中へ招き入れて良かったと眉を開いた。

「突然の雨で難儀でしたね」

 白湯を飲んでほっと一息ついた女性に、お美代が声をかければ、「ええ」と控えめに女性は笑う。楚々とした、感じのいい女性だ。一緒にいるだけで、なんだかほんわりとした優しい空気が伝わってくる。

「ところで、お姉さん。どちらにお向かいなの?」

「丁度『茶屋 饅饅』に向かうところで降られてしまいまして……。助かりました。有り難うございます」

 女性が深々と頭を下げるので、お美代は「大した事はしていないのよ」と、慌てて顔を上げさせた。伊月は聞きなれた単語にぱっと顔を明るくさせる。

「『茶屋 饅饅』! おいしいって私も良く聞きます。よく行かれるんですか?」

「え? ええ、まあ。そうね、店主が頑固に拘っているからかしら。これぞ饅頭ってものを作りたいのですって」

 店主というのは、おキヨの父親だろう。「すごい!」と、伊月が目を輝かせると、女性は花が綻ぶ様に笑う。身体も温まってきたのか、寒さで真っ白だった頬に紅が差して、表情の柔らかさが増した。派手さは無いが、その質朴さが美しい人だ。

 雨の音が次第に小さくなっていく。土砂降りだった雨は、いつの間にか霧雨に変わっていた。シフミと名乗った女性は、「そろそろお暇します。ありがとうございました」と、雨で白く煙る町の中に消えていった。


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