上弦の声 2
町の大通りは物売りや、道行く行商人でとても賑わっていた。今までは家の中での手伝いや仕事を覚えるのに精一杯だったので、伊月にとっては初めての外出である。物珍しさにきょろきょろと視線をあちこちに向けていると、すぐ側で視線を感じた。僅かに下の方へ顔を向けるとじっと見つめる吾郎太と目が合う。なんだろうと思っていると、突然吾郎太がプッと吹き出して笑い始めた。
「しょうがないでしょ。初めて見るのばっかりだもん。吾郎太くん、そんな笑わないでよ」
年下に笑われた、と恥ずかしくなって言い訳じみた言い方になってしまった。伊月のそんな物言いが、さらに吾郎太のツボにはまってヒーヒーと目に涙を浮かべて苦しそうにしている。しばらくして落ち着いた吾郎太が、はぁ、とため息を着いて、
「本当にここじゃないとこから来たんだな」
と言った。
伊月は吾郎太たちに、『この世界ではないどこか遠いところで、神隠しにあった』と説明していた。東京や電話などの話をしても、まったく知らない聞いたこともないという彼らにはこれ以外に話しようがなかったのだ。そして、過去に来てしまったかもとも伝えていない。一度試しに、日本史の時代ごとに有名な将軍や英雄の名前を出してみたのだが、それも聞いたことがないと言われたのだ。だから、ここは『昔の日本のような世界』で、自分のいた『日本』とは同じ線上にないのではないかと伊月は考えていた。
土と木でできた平屋の町並みを見ていると、コンクリートやガラスがふんだんに使われた灰色の故郷が恋しくなる。一度向こうのことを意識してしまうと、芋づる式に家族や学校の友達の顔が浮かんできたので思わず俯いた。こんな町中でホームシックなんてみっともないと気を引き締めると、吾郎太がそっと手を握ってきて「きっと帰れるよ」と呟いた。
そのまま吾郎太に手を引かれながら、伊月は覚束ない足取りでお使いを頼まれた橋場屋へ向かっていた。通りには石が敷いてあるとはいえ道はでこぼこしているし、小袖姿に慣れない草履でとにかく歩きにくかった。おまけに通りを行くほとんどの人たちは、大きな荷物を持っているし、中には馬を牽いている人もいるのでぶつからないようにも気を付けなくてはならない。しかし、吾郎太はそんな人波もなんのそので、子どもの身軽さでぐんぐん先へ行ってしまう。だから、手をつないでいるというよりは、引きずられているような感覚だ。一人で満足に街中を歩けない自分にだんだん情けなくなってきたところで、手を引く力が弱まって吾郎太が足を止めた。
「ここが、橋場屋だよ」
橋場屋は町のほぼ中心部に位置していた。ほとんどが平屋の民家と比べると、飛び出た白壁の倉がとても大きく立派に見える。
「橋場屋は土倉なんだ」
「つちくら?」
初めて聞いた単語に頭をひねっていると、「なんて言ったらいいかなぁ」と吾郎太も一緒に首を傾けた。
「えっと……、いろいろものを預かって、換わりに金を貸してる、仕事のこと、かな。よくわかんないけど、すっごい儲かってるし。まぁ、おれたちにはあんまり関係ないよ」
と、ちょっと困った顔をした。吾郎太の言うとおり、土倉には質のいい着物を着た人が出入りしている。対応をしている者も裕福そうだ。そのうちの一人に、
「すんませーん」
と声をかけて、
「山本扇子の吾郎太です。品を届けに参りました」
と、伊月に前に出るよう促した。しっかりした口調と振る舞いに、この世界の子どもは本当に大人びているなと感心していると、使用人らしき風体の男がこちらに近づいてきた。伊月がおそるおそる荷を差し出すと、男は中身を確認して、
「確かに受け取りました。主人にはこちらでお渡ししますので。ご苦労様でした」
と言って、慌しく奥へ引っ込んでいった。
無事お使いが完了したので、二人はお美代に言われたとおり町の蕎麦屋に来ていた。昼飯時も過ぎ、みな仕事に戻った後なのか、店内はほどよく空いていた。蕎麦をずるずると啜りながら、初めての外出の感想を伊月は話していた。吾郎太もおしゃべりなので、会話が途切れることは無い。たまに、店の人間も話しに混ざりながら楽しい昼食の時間を過ごした。
「そういえば、朝お店を出たときも思ったけど、すごく賑わってるんだね。こんなに人通りが多いとは思ってなかったから、ちょっとびっくりしたよ」
蕎麦屋を出た後、目の前を頭に桶を乗せて歩いていく女性や、棒で籠を担いだ男たちを見て伊月は言った。少し離れたところでは、柱と屋根だけのテントのようなものが建ち並んでおり、そこに人が集まっている。
「まあ、ここの町はけっこう大きい方らしいからな。旅の人とかも活気があるってよく言ってるよ。あと、今日は市の立つ日だからそれもあるんじゃないかな」
あのテントのようなところでは市が立っているらしい。フリーマーケットみたいだなと近づいてみると、新鮮な魚介類や、カブやごぼうなどの野菜、他にも茶碗や鍋などの様々な生活用品が売られている。
吾郎太は道の先にある水路を指差した。
「市に合わせて、あそこから舟で米とかが運ばれてくるんだ」
見ると、丁度舟がやってくるところだった。舟といっても丸太をくり抜いたような簡単なものだったが、細い水路ではそちらの方が勝手がいいのだと吾郎太は言った。
しばらくの間、吾郎太からあれこれ教わりながら市を覗いていると、向こうから淡い紅色の小袖を着た女の子が近づいてきた。
「吾郎太でしょ。こんな時間にめずらしいわね」
おそらく吾郎太と同じくらいの年の子は、たたっと小走りでこちらへ来て話しかけた。とたんに吾郎太は面倒くさそうな顔になり、げぇー、と声を漏らす。
「ちょっと聞こえてるわよ、なあにその顔」
「シイノか。なんでいるんだよ」
「市に来たんだから買い物に決まっているでしょう? 本当馬鹿なんだから。それよりもそちらの方は? もしかして、おじさんたちの家にお世話になっているって人?」
手に持った荷物を吾郎太の顔に押し付けた後、シイノと呼ばれた子は好奇心旺盛な黒い目で伊月をじぃと見つめる。吾郎太は頭をかきながら、そうだよとぶっきらぼうに言った。
「伊月っていうんだ。いろいろあって今うちの店で手伝いしてる。人にはじじょーってのがあるんだから、いつもの調子でずけずけ聞くんじゃないぞ」
なげやりな説明にシイノはむっとして吾郎太を睨んだが、すぐに笑顔で伊月にお辞儀をした。
「初めまして、伊月さん。わたしは、東屋のシイノです。家は染物屋をしているので、近くにいらした時はぜひ立ち寄ってくださいな」
にこっと可愛らしい笑顔で丁寧な挨拶をされた。初対面でも明るい性格のいい子なのが分かる。こちらも笑顔でよろしくね、と返した。
「じゃあ、わたしは家に帰らないといけないのでこれで。伊月さん、またゆっくりお話しましょうね。あと、吾郎太! 伊月さんは年上なんだから、あんな言葉遣いじゃ失礼でしょ!」
じゃあね、伊月さんさようなら、と去っていく彼女を吾郎太は見えないようにしっしと手で追いやった。
「シイノちゃん、可愛くていい子なのに。苦手なの?」
「そうじゃないけど……。あいつ、いっこしか違わないのに昔っから年上ぶってさ。口うるせーっていうか……」
だんだん尻すぼみになっていく吾郎太に笑いをこぼすと、ふと何かが耳元で聞こえた。
「ねえ、今何か言った?」
「ん? シイノの愚痴しか言ってないけど」
「そうじゃなくて……」
伊月がきょろきょろと辺りを見回すと吾郎太が、
「隣の人が水撒いてたからなぁ、それじゃないの? まだあっついからさ。早く帰って涼もうぜ」
と、水溜りの水を蹴った。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
作中にも出てきましたが、この「水面の月」は日本史とはまったくの無関係のものです。あくまで、昔の日本を『モチーフにした世界』ということで書いていますので、あまり鵜呑みになさらないようお願いします。
伊月たちはこういう生活をしているのね、くらいの気持ちで楽しんで頂ければと思います。