十三夜月の宴 3
『――Good morning!! Wake up!! Wake up!! Good mor――』
探り当てた目覚まし時計に伸ばした手を打ち付けると、喧しい騒音がピタリ止んだ。期末テストも終わったのだから、ゆっくり寝かして欲しいものだと、まだ眠たい目を擦りながら布団を剥ぐ。伊月はぼんやりとした頭のまま、制服のシャツに袖を通しスカートを履くと鞄を持って部屋を出た。ダイニングでは父親が新聞を捲り、母親が朝食の準備をしている。顔を洗ってから「おはよう」と両親に挨拶をして、冷蔵庫から牛乳を取り出しコップに注いで席に着いた。リビングでチカチカと光るテレビを見て、母親が「まあ」と一驚する。
「通学路で通り魔事件ですって。嫌な世の中ね。あなたも気をつけなさいよ」
「大丈夫でしょ。別の県だし。この辺じゃ起きないって」
チン、と音がして食パンがいい色になる。ジャムをたっぷり塗って口に頬張ると、母親が呆れた顔をした。
「子どもが二度と家に帰ってこないなんて、親御さんも可哀想に。ねぇ、お父さん」
父親は経済面から顔を上げないまま、
「人通りの多い道を選んで帰りなさい」
と言った。
「止めてよ、これから学校行くのにそういう話。……あ、もう時間だ」
ニュースの左上に表示された時刻を見て、一気に牛乳をあおる。口元に白髭が出来ていないこと確認して、玄関へ向かった。
「行ってきまーす」
「はい、行ってらっしゃい」
玄関から一歩踏み出すと、白い光の洪水に飲み込まれた。慌てて振り向いても、もうそこには何も無く、虚無の世界が広がっていた。
はっと目が覚めると、伊月は鮮やかな錦の絨毯に体を預けていた。ふかふかに積もった落ち葉を払い、起き上がる。ここは雷土山だ。少し薄暗いのは、木々が邪魔して光が入ってこないせいか。
(え、っと確か、宗兵衛くんが居なくなって……私)
気を失う前の記憶を思い出して、ぱっと崖の方を見た。斜面には伊月の滑り落ちた後が生々しく残っている。結構な高さを滑り落ちたようだ。崖の下半分はゴツゴツとした大きな岩が積まれていて、とても一人では登れそうにない。
「……これ、帰れるのかな」
宗兵衛を戻ってきた吾郎太たちが見つけてくれれば良いが、もし、自分と同じように崖から落ちていたとしたら。一応名目上は子どもたちのお守りで付いてきたというのに、なんとも情けない。遭難したときはどうすれば良いのだっけと、昔キャンプをしたときのことを思い出す。しかし、打ちつけた体の痛みと心細さで何も思い出せなかった。
「ごーろうーたくーん!! さーすーけくーん!! だーれーかー!!」
手始めに大声を上げてみたが、返ってくるのは鳥の鳴き声くらいだ。何度か呼びかけては見たが、結局喉を痛めただけで、誰かが助けに来てくれる気配は無かった。
助けを呼ぶのは諦め改めて辺りを見渡してみると、後ろの方で寂々と佇む木造の建物があった。伊月は少し様子を見てみようと一歩足を踏み出したが、右足首を激しい痛みに襲われ、蹌踉めいた。落ちた時に捻ったようだ。しかし、崖から落ちて片足を捻っただけなのは不幸中の幸いだろう。伊月は手頃な棒を見つけると、それを支えにひょこひょこと足を引きずりながら移動した。
建物の正面に回ると、その建物が寂れた神社であることが分かった。前方にだけ庇が伸びた平入りの本殿は、外陣の扉が朽ちて倒れ、内陣、祭壇まで丸見えになっている。放置されて随分経つのだろう。庇を支えている4本の柱のうち、左側の一本が腐り落ちていた。神社の扉など滅多に開かれることはないから、興味が勝って本殿に近づく。右足を庇いながらぎしぎしと鳴る階を上り、仄暗い社の中に足を踏み入れた。
歩くたびに軋んだ音を立てる板敷きの床は、時々たわんで注意しないと踏み抜きそうになる。二間ほどの距離だというのに、祭壇までは随分と時間がかかったように思えた。
「これ……朴の花?」
祭壇の正面には、瑞香が持っていた太刀と同じ花が彫られていた。八枚の大きな花弁の特徴的な花は間違いなく朴の木の花である。そして、その花の後ろには鳴門のように渦を巻いた稲妻紋が走っていた。これがこの神社の神紋なのだろうか。一体どんな神様を祀っていたのだろう。神という存在がいるかどうかは分からない。現代では新年の初詣や夏祭りに行くぐらいのものだった。しかし、この世界では本気で神仏の存在を信じている人がたくさん居る。そんな人たちが、どうしてここに祀られている神様を忘れてしまったのだろうか。それが伊月には不思議でならなかった。
いかに神様とて誰も参りに来ないのは寂しいだろう。伊月は懐から拾った紅葉の一枚を取り出すと、壊れた祭壇の前にそっと置いた。
そろそろ社から出ようと踵を返すと、爪先に何かが当たり床の上を転がっていった。目で追うと、外から入る光を反射して鈍く光っている。手にとって見ると、それは何かの破片であった。厚さが1センチメートルも無い金属の欠片は、平らな面と、細かな模様があしらわれた面の二面があり、全体は扇形で縁が弧を描いている。
「……なんだろう?」
他に割れたような破片は見つからないし、本当に欠片はこれだけのようだ。祭壇関係の物ではないと勝手に決めて、伊月はそれを懐に仕舞い込んだ。よく分からないが持っていた方がいい気がする。入ったときと同じように足元に気をつけて社を出ると、とりあえず真っ直ぐ進んでみることにした。すると一陣の風が吹き、地面に散った落ち葉がふわり舞い上がる。
風のために瞑っていた目を開けると、目の前の景色は僅かながらに変化があった。舞い上がった落ち葉の下から石畳が現れたのである。
(神社があるなら、参道もある!)
伊月が棒で落ち葉を避けると、下から石の敷かれた道が顔を出した。これを辿っていけば、どこかの道に繋がるはずである。伊月は嬉々としてその道を歩いていった。これで、帰ることができる。時々棒で突付きながら、自分が参道を通っていることを確認し進んで行く。人が通らなくなってから長いこと経っている所為で、所々木々が邪魔をしたり、土に埋もれたりしていたが、それでもなんとか見失わずに歩き続けることができた。すると、伊月の目の前に灰色の人工物が現れた。大きな鳥居だ。神社同様朽ち果てているのに、丸い二本の柱は毅然と立ち続けている。まるで、どんなに人々に忘れ去られようとも、ここからはいつ何時も神の領域であるぞ、と言っているようである。見上げると、額束には『鳴守神社』と書かれているのが辛うじて読めた。
ここで参道は終わりだ。伊月は姿勢を正して神社の方に一礼すると、鳥居を潜ってその向こう側へと出た。
鬱蒼と茂る藪を掻き分けて飛び出した先は、来るときに吾郎太たちと通った山道だった。見覚えのある場所に出てほっとしていると、遠くで小さく呼んでいる声が聞こえてくる。
「ここだよー!!」
こちらも大きな声を出して手を振ると、程なくして小さな影が一つ二つと現れた。どうやら逸れたのは伊月だけのようだ。皆、顔をぐしゃぐしゃにして「心配したぞ」と怒って、泣いている。宗兵衛がわんわんと泣き出すと、伊月も釣られてほろりと涙を零した。足を捻っているので、吾郎太や佐助に支えられながら山を降りる。藪に隠れてしまったのか、もう一度あの鳥居の姿を見ることは出来なかった。




