十三夜月の宴 2
「どれくらいで着く?」と聞けば、「すぐだよ」と返ってくる。しかし、これは決して「すぐ」ではないと、この世界に来て伊月は学んでいた。
この世界には時計がない。時計がないから、皆それぞれ自分の時間で生きているのだ。約二時間置きに鳴る時鐘は、時間の感覚を合わせる目安の一つではあるが、それでもかなりアバウトなものだ。時間の単位は、次の時鐘が鳴るまでの時間をだいたい一刻と呼び、その半分を半刻、さらに半分の四半刻がある。しかし、ここまでなのだ。30分未満の時間を表す言葉が無いのである。現代のように、あと3分早ければ電車に乗れた、なんてことも無いから実際必要無いのかもしれない。だが、この「すぐ」という言葉に騙されではいけない。5分でも1時間でも「すぐ」なのだ。
町の北門を出て田んぼが続く中を歩いていく。稲刈りをしている農民を横目に見ながら、20分は歩いただろうか。伊月たちは茸狩りの場、雷土山に到着した。山道をある程度登っていくと、吾郎太が「この辺で始めるか」と歩みを止めた。
蛇のようにくねくねと生えた木や、反対に真っ直ぐに高く伸びた木など、様々な植物が生えていた。少し道を外れれば、足元は散り始めた枯れ葉でふかふかしており、気を付けねば足を取られてしまう。
「じゃあ、伊月は宗兵衛と一緒にここにいて。俺たちもっと上の方まで行ってみるから」
吾郎太は佐助と栄吉を連れて更に奥へと入っていった。迷子にならないかと心配したが、彼らは何度もここで遊んでいるというから大丈夫だろう。伊月は茸の種類なんて分からないし、きっと宗兵衛の子守のために呼ばれたのだと思う。まだ小さい彼を連れて、道を外れた所へは行けないだろうから。
「宗兵衛くん、皆が戻ってくるまでお姉ちゃんと一緒に遊んでようか」
ふらふらと歩き回る宗兵衛は見ていてとても危なっかしい。小さな子ども特有の、体に比べて大きい頭は、バランスが取りにくいのか時々がくんと傾くことがある。小さい子どもが身近にいなかった伊月にとって、歩くだけでハラハラさせられる宗兵衛は、まったく未知の生き物であった。きょとん、と首を傾げた宗兵衛は「お姉ちゃん?」と口にすると、辺りをきょろきょろ見渡した。
「お姉ちゃん、いない」
「……伊月お姉ちゃんと遊ぼうね」
引きつる口元をどうにか笑顔の形に持っていって優しい声を出す。そんなに男に見えるだろうか。髪形と服装以外は何もいじっていないのだが、小さな子どもに言われると素直過ぎて胸にぐさりとくる。
「でもはかまは男の人しかはかないよ」
宗兵衛の言葉に、なるほど先入観から男だと思ったのか、と少し安心する。確かに、身近で袴をはく女性はいないだろう。髪も女性は下に垂らすか、布で包んで中に入れてしまうかだから、高い位置で結んでいる伊月は男の髪型をしているのだ。
「そうだね。でも、今日はいっぱい動くから、女の子でも袴をはいてきたんだよ」
そう言うと、「ふーん」と宗兵衛は返事をして落ち葉を拾い始めた。色とりどりの落ち葉は、集めるだけでも楽しいのだろう。伊月も一緒に地面に落ちた中から綺麗な葉を選ぶ。今夜は『影映り』をするから、満尋にもこの紅葉を見せてあげよう。ひと時の間、葉の形や色をあれこれ吟味していると、木々の隙間から賑々しい声が近づいてくる。
「すっげーたくさん採れたぜ、宗兵衛見ろよ」
藪の中から吾郎太たちが現れ、籠いっぱいの茸を差し出した。伊月は拾った紅葉を懐に大切にしまうと、籠を受け取った。宗兵衛は集めた葉を放り投げて、三人が採ってきた茸に夢中になる。
「ねぇ、あのお姉ちゃん、化け物なのに全然怖くないね」
茸を両手に抱えた宗兵衛が、伊月の方を見て笑いかけた。「そうだろう」と、頭を撫でる佐助を、吾郎太が怒気を孕んだ瞳で見つめる。
「佐助! なんだよそれ。お前そんなことこいつに言ったのか!?」
隠しもしない苛立ちのまま指を突き立てられ、宗兵衛は佐助の後ろに引っ込んだ。突然怒鳴られて訳が分からないのだろう。泣き出しそうだ。「は?」と怪訝な顔をした佐助に吾郎太が飛び掛る。胸倉を掴むと勢い余って二人とも地面に転がった。半ば呆然としていた伊月も、荒れ始めた空気にはっとして吾郎太を引き離し、栄吉は佐助の身体を支え起こす。
「い、言ってねぇよ! ただ、山本屋に化け物が住み着いてるって噂があんだよ!!」
それは戌親の母親が見たというあの話だろうか。いつの間にか伊月たちの知らないところで広まっていたらしい。戌親が噂を流したとは思えないが、人の口に戸は立てられないということか。どれだけの人が信じているか知らないが、あまりに酷いと山本家の皆に迷惑がかかってしまう。それを聞いて、吾郎太が悲痛な表情を浮かべた。
「俺だって伊月がそうだとは思ってねぇよ。だから、信じてる宗兵衛連れてきて、噂は出鱈目だって教えてやりたかったんだ……」
乱れた襟を直しながら佐助が言う。佐助の優しい気遣いに「ありがとう」と呟くと、吾郎太が座り込んだ佐助の手を引いて立ち上がらせる。完全に吾郎太の早とちりであったから、誤解が解ければ笑って許しあえたようだ。ぐずり始めた宗兵衛と手を繋ぐと、伊月は噂がどれくらい広まっているのかを聞いてみた。
「町の東側が結構広まってるな。吾郎太が知らないってことは、山本屋さんの近くはみんな伊月と顔見知りだから、相手にしてないんじゃない?」
「あんまり気にしちゃだめだよ」
栄吉が沈痛な面持ちの伊月を慰める。子どもに励まされる高校生って駄目だな、と笑顔を浮かべると、「大丈夫。ありがとうね」と栄吉の頭を撫でた。
一段落したところで、吾郎太は伊月の空の籠と自分の籠を交換して、「今度はあっちの方に行ってみるな」と、さっきとは別の方向へ駆け出していった。残された伊月と宗兵衛はまた留守番である。
それにしても、噂のことは早くなんとかしないといけない。町の人たちに村八分にされたりしないだろうか。授業で習った村八分が何なのかは忘れてしまったが、確か仲間はずれにされることだった気がする。それとも、国の役人がやってきたりするのだろうか。これは、ますます早く山本家を出ないといけないと思案していると、近くで遊んでいた宗兵衛の姿が見当たらない。
「え? ちょっと。宗兵衛くん!?」
さっきまでこの辺りで、茸で遊んでいたはずなのに、一体どこへ行ってしまったのか。籠を残して伊月は辺りを探し始めるが、宗兵衛はどこにもいない。
「そーうべーいくーん!!」
ひらひらと落ち葉が舞い散る中、大声をあげて呼びかけるが返事は無い。辺りを見ることに集中していた所為で、足元が疎かになった。
「きゃ、わああああああ!!」
伊月は濡れた落ち葉に足を取られてバランスを崩すと、そのまま勢い良く山の斜面を滑り落ちていく。
強かに地面に身体を打ちつけると、そのまま意識が遠のいた。




