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水面の月  作者: 霞シンイ
第一部
24/41

朏の音 1

 もうすっかり秋も深まり、山々は赤と黄の美しい衣を身に着けている。農家は稲刈りに忙しくなり、嬉しい悲鳴をあげていた。どうやら今年は、豊作のようだ。山本家の食卓にも、取れたばかりの新米が並び、吾郎太の拾ってきた山栗と炊き込めば、まさに秋の味覚づくしである。

 美味しい食事を楽しんだ後は、行李を背負って行商に出る。初めて行商をした一昨日、思わぬ収入に気を良くしたお美代が、これからも行商を伊月に任せる、と言ったのだ。もちろん、伊月は快諾した。最近は扇子作りもほとんど職人に任せているので、家事が済んだら手が空くのだ。居候が働かないわけにはいかない。途中、富爺や塗師の兵四郎など懐かしい面々と言葉を交わしながら、からん、からん、と木札の音を響かせていた。

 もう一巡りしただろうか、というところで伊月は池の辺で休んでいた。いつも『影映り』をしているあの池である。行李を下ろして、ぼう、と池を眺めていると、目の前を赤蜻蛉が過ぎ去った。いつの間にか町で見かけるようになった赤い蜻蛉は、そのまま伊月のすぐ隣にやって来て草の先に止まる。

(満尋、大丈夫かな)

 『影映り』はまだ起きない。空に浮かぶ白い月は猫の目のように細かった。『影映り』ができなくなって、もう一週間。最後があまり良い雰囲気ではなかったために、心配だ。

(満尋―って返事はこないか……)

 小声でひっそりと呼びかけてみるものの、当然ながら返事は無い。はぁ、と溜息をつくと、驚いたように蜻蛉が飛んでいった。

 まだ数えるほどしか会っていないのに、まるで昔からの友人のような気安さで彼とは接してきた。海外へ出かけたときに、偶然同じ日本人に会うと嬉しくなるというが、そのような感じだろうか。ここの人たちは皆優しくしてくれるし、伊月も山本家の人たちや巴たちは好きだ。けれどもやはり、どこか価値観の違いともいうべき隔たりがあるような気がしてしまうのだ。それは、ふとした何でもないような所で出てくる。現代では当たり前のように共感できたし、してもらえた部分が、ここでは誰の賛成も得られなかったりするのだ。単純にカタカナ表記の外来語が通じないとか、文明利器を知らないとかの話ではない。その人を形成している根本が違うのだと認めざるをえないのだ。

 だから、満尋との会話はとにかく安心感が先に立つのだ。

 歳も性別も異なる二人だが、それでも彼と伊月に根付いた常識や倫理、価値観は同じだ。個人としての考えは違えど、そこは変わらない。この右も左も分からない世界で、それがどれほど嬉しいことか。たとえ、満尋がこの世界では幻に等しく、現世の者でなかったとしても、伊月にとっては大切で、けして切ることのできない存在に成りつつあった。

「……みーつひろー、返事しろー」

 届かないと分かりつつも、池に向かって小声で呼びかけてみる。すると、後ろでじゃり、と草鞋が土を踏む音がした。

「おやおや。お前さん、つかれたのかい?」

「はわっ!?」

 しゃがれた声の誰かが話しかけてきた。あまりに突然だったので、思わず肩が跳ねる。振り向くと伊月の真後ろには、墨染めの着物に白い頭巾、尼僧姿の老婆が立っていた。尼はゆっくりこちらに近づくと、たじろぐ伊月を他所に、

「お前さん、つかれているね」

と、伊月を見下ろした。

「はぁ、確かに歩き回ったので疲れてはいますけど……」

 やにわに何を言い出すのかと、伊月は不審な目で尼を見た。頭巾の下で皺に埋もれた小さな目が、伊月を興味深げにじっと見据える。

「そうじゃないよ。お前さん、影に憑かれておいでだ」

 尼は掠れた声でそう言うと、「おお、可哀想に……」と数珠を持った手で合掌した。いきなりなんだと腹が立って立ち上がると、尼は数歩後ろへ下がって尚も続ける。

「可哀想に、ここにも哀れな魂がまた一つ生まれもうした」

 その声はとても慈悲深いものであったが、可哀想、哀れだ、と初対面の人間に言われるのは不愉快だった。この尼僧に、一体自分の何が分かるというのか。

「さっきから、なんなんですか! いきなり訳の分からないことを言って!」

 つい、口調が荒くなる。確かに、気が付けば異世界、だなんてこれ以上ない不運ではあるし、なんで自分がと思ったこともある。でも、優しい人達のお陰で、ちゃんと地に足付けて立つことができるようになったのだ。しかも、尼僧が言う、影に憑かれているだとか、身に覚えの無いことだ。ふと、おキヨの姉が影憑きと蔑まれていた事を思い出す。こういう人間がいるから、おキヨやそのお姉さんが謂れ無いことで苦しんでいるのだ。眦を決して尼を睨み付けると、尼は心底残念そうに目を閉じた。

「離れるなら早いほうがいい。お前さんはまだ若い。良い夫はお前の隣に常に居て、お前を母としてくれるのだ」

 眉をひそめる伊月に尼は一礼して、静かにその場を後にした。残された伊月は、言われた言葉を頭の中で反芻する。影憑きと呼ばれた。可哀想だとも。それから。

「夫は常に隣にいて、私を――っ!」

 勢い良くしゃがみ込むと、膝を抱えて火照った頬を押し当てた。忘れていた。ここでは自分くらいの年の子は、とっくに結婚していてもおかしくはないのだ。

「だから、私はまだ十五で、高校生なんだってばっ」

 お美代にしろ、あの尼にしろ、皆気が早すぎる。影憑きのことも分からないし、一体なんだったのだ。尼の言葉に耳を貸さずに、早く立ち去ればよかったと後悔していると、「何しているの?」とまた別の声が掛かった。


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