消えた三十日月 3
翌日、瑞香に頼まれた扇子を注文通り十本用意して、再び平礼寺へ向かうとなにやら門前が騒がしい。人だかりの向こうから、太鼓や笛の音が風に乗ってやって来る。何事かと近づいてみると、
「いや~、流石、瑞香さまの一座は華があっていいねぇ」
「春にもまた来て頂きたいよ」
と、いった声が聞こえてきた。どうやら、瑞香たちが一座の芸を見せているらしい。そうこうしている内に曲調が変わり、人だかりの隙間から女たちが、すすす、と出てきたのが見えた。萩や桔梗、女郎花など美しい秋の花々を笠に挿して、白と緑の衣装を身に纏った女たちが、ひらり、ひらりと舞っている。
さぁさ 見やれや 稲穂の実る 田の美し
さぁさ 我らの黄金を 御覧じろ
踊れや踊れ 歌えや歌え
笛の音 響け 藤の姫まで
女たちの歌声が秋の青空に響き渡り、華やかな舞が始まった。大人も子どもも皆楽しそうにして、その歌と踊りを見ていた。初めて見る一座の踊りには、秋の実りを喜ぶ素直な気持ちがそこかしこに溢れていた。
「よっ、いいぞ」
と、あちこちで威勢のいい掛け声があがる。歌の邪魔にもならず、タイミングよく掛けられるそれらが、さらに彼女たちの舞に彩を添えていた。
「おーい、伊月」
呼ばれて後ろを振り向くと、吾郎太とシイノが並んで立っていた。シイノは今日も薄紅の小袖を着て、吾郎太の隣でにこにこと満面の笑みを浮かべている。一緒に居るなんて珍しいと二人を見ると、その手がしっかりと繋がれているのに気がついた。微笑ましくてついにやけてしまうと、吾郎太が真っ赤になってばっとその手を離した。
「別に、これは……その、迷子になったらいけないだろ。だからだ、うん」
「じゃぁ、もう少しそうしてた方がいいかもね。まだまだ人が増えてるから」
そっぽを向く吾郎太にそう言ってやると、「うぅ」と呻いて周りを見渡した。歌に釣られて今もたくさんの見物人が集まっている。背の低い吾郎太とシイノはすぐに埋もれてしまうだろう。
「本当、伊月さんの言うとおりだわ。吾郎太! 迷子になるんじゃないわよ」
シイノはそう言って伊月の腕をしっかりと掴んだ。ぴったりとくっついた彼女は、
「お久しぶりですね、伊月さん。もっと近くで見ましょう? 瑞香さまはとても素敵だそうですから、見ないと損です」
と、人ごみを押しのけて前へ前へと移動した。腕を引っ張られたままの伊月は、一緒になって前の方へ流れていく。見えなくなる二人を吾郎太が慌てて追い、無事三人そろって一番前を陣取ることができた。
「まあ、素敵! 藤姫さまだわ」
シイノが感嘆の声をあげた。花笠を被った女たちに囲まれて、一人違う衣装の女性が舞っている。頭には藤の花簪を挿し、薄い紫色の袿から萌黄の単が覗いている。飾り房のついた扇子を広げ、優しげな微笑を浮かべる姿はまさに天女のようであった。シイノが藤姫に夢中になっているのを見遣って、伊月は吾郎太の耳元に口を寄せた。
「吾郎太くん、藤姫さまって?」
「ん? 藤姫様は国産みの神様だよ。佐香田花比売神っていうのが本当の名前なんだけど、みんな藤姫様って呼んでるんだ。歌にも出てきただろ?」
なるほど、ではあの女性は神様役をしているわけか。上品で優美なその姿は、確かに藤の花の比売神であろう。この歌は田畑の実りを藤姫さまに感謝し、捧げている歌なのだ。
さぁさ 見やれや 山の紅 黄羽衣
さぁさ 紅葉の散るらん 御覧じろ
踊れや踊れ 歌えや歌え
鼓よ 轟け 朴の君まで
藤姫の隣に、白い長絹をうちかけた男が現れた。彼は太刀をとって雄雄しく舞い、藤姫が彼に寄り添うように共に舞う。
「お、瑞香さんだ。かっこいいなぁ」
吾郎太がほう、と溜息を吐く。今、太刀を持ち剣舞を舞っているのが瑞香のようだ。彼が現れたとたん、あちこちで女性陣の熱の籠もった吐息がこぼれた。
「ねぇ、瑞香さんは誰を演じてるの? もしかして歌に出てきた朴の君?」
「さぁ? そういえばなんだろうな。朴の君って歌にもあるけど、結局誰のことか皆知らないんだよな。この後会うんだろ? だったら瑞香さんの方が詳しいと思うよ」
「ありがと。聞く、のはどうしよっかな……」
確かに演じている瑞香に聞くのが一番なのだが、彼と会うのは些か緊張する。時間と心に余裕があったら尋ねてみようと、伊月は思った。
「私の演じた役? 私に興味があるのかい? 嬉しいねぇ」
「……いえ、単に気になっただけでして」
舞の演目が全て終わった後、僧房で扇子を渡し、瑞香が演じた役について聞いてみた。案の定、彼は戯れ交じりの受け答えである。
「ふふ、すまない。そう怒らないでくれ。実は私も分からないのだよ」
「え? 分からなくてもできるものなんですか?」
肩をすくめてそう言った彼に、驚きの声を返す。田楽の衣装から楽な小袖に着替えた彼は、昨日のように脇息にもたれ煙管を吸っていたが、しばし逡巡して灰を落とし、それを置いた。そして、おもむろに立ち上がると、綺麗な布で包まれていた太刀を伊月に見せた。舞で瑞香が使っていたものだ。
「これの鞘にあしらわれている物が何か分かるかい?」
ずい、と目の前に差し出された太刀を見ると、確かに白い鞘には精巧で美しい彫刻があしらわれている。
「花……何の花でしょうか」
花弁が八枚。大きく開いた花の中心には、苺のような雄しべと雌しべが付いている。
「朴の木の花だよ。これは、昔からあの役には必ず用いることになっていてね」
「朴の花……」
「鼓よ 轟け 朴の君まで。きっと朴の君なのだろうね、私の役は。でも、それだけさ。伝えられていることが不思議な程に何もない。私に分かるのは、この朴の君は藤姫をとても愛している、ということだけさ。そして、藤姫もまた、ね」
瑞香はそう言って太刀を丁寧に布で包んだ。共に藤姫と舞っていたとき、確かに朴の君は藤姫を慈しむように見ていた。瑞香は、その思いだけを頼りに「朴の君」を演じてきたのだろうか。
「本当は、一座の者意外にこうして見せることはないのだけれど。こんなことを聞いてきたのは、お前くらいだからね。特別だよ?」
す、と自分の口元に長い人差し指を当てて、瑞香は目を細めて笑った。いちいち仕草の一つ一つにドキドキさせられる人だ。伊月は紅く染まった頬を誤魔化すように、ありがとうございました、と深々とお辞儀をすると、そのまま瑞香に別れを告げ帰路に立った。
瑞香の一座は、明日には別の町へ発つというから、もう会うことはないかもしれない。それでも、またどこかで縁がありそうな不思議な予感を感じていた。
一ヶ月も経っているので今更ですが、こちらで報告したことはないので、改めて。
『月下辺』のお話を『水面の月~The Reverse Of The Girl~』で連載中です。こちらは満尋が主人公になっております。男ばかりで華が無いですが、時間と興味がありましたら目次下の「月下辺を覗く」からどうぞ。
片っぽしか読んでいなくても話に支障はありませんので、ご安心くださいね。




