消えた三十日月 2
田楽の一座は、平礼寺に泊まっているはずだと言っていたので、伊月はそちらへ向かっていた。途中商人達が途切れて静かな通りへ入ったが、寺が近づくとまた物売り達で溢れていた。しかし、今まで売り買いしていた通りでは見られなかった、掛茶屋や豆腐売りなどが目立つ。
一間一戸の四脚門を潜ると、境内は外の騒がしさから切り離したような静寂で満ちていた。町唯一の寺である平礼寺は、小規模な寺ではあるが参拝者は絶えないという。寄棟の本瓦の屋根が乗った本堂の下では、老婆が何事かを熱心にお参りしている。掃除をしていた寺の小僧に、田楽が来ていないかと聞くと、北階の僧房を借りて滞在しているというので案内してもらった。掃除の邪魔にならないかと尋ねれば、田楽の一座が来てから、このように商いをしにくる者が絶えないので構わないらしい。小僧について行くと、奥まったところに建てられた切妻の長い建物が見えてくる。これが僧房らしい。木造のアパートのような僧房に入り、小僧が「瑞香さまは居られますか?」と声をかける。すると、若い女が出てきて奥の大部屋にいるよと言ってまた引っ込んでいった。小僧には掃除があるだろうから、ここまでで良いと戻ってもらって伊月はその大部屋へ向かった。
閉められた板戸の前に立つと、伊月は一度大きく深呼吸した。初めての訪問販売はどうも緊張して、心臓が早鐘のように打っている。
「失礼します。山本扇子の伊月と申します。扇子は御入用では御座いませんか」
「……あぁ、扇子かい? どれ、待っていたよ。お入んなさい」
戸の向こうから入室を許可する声が返ってきた。きっとその声の持ち主が「瑞香さま」なのだろう。それにしても不思議な声だ。低めの女のような気もするし、高めの男と言われても頷ける。すっと戸を開けると、紫煙を纏った美人がそこに居た。
「其処にお座り。白物売りも紅粉解も、帯売りだって来たのに、扇子が来ないからこの町には扇子が無いのかと思ってしまったよ」
ふふ、と笑ってその人物は自分の正面を煙管で指し示す。黄色の小袖の上に、鮮やかな猩々緋の衣をゆるりと着た瑞香は、やはり男とも女ともつかない容姿をしていた。伊月はやや緊張した面持ちで瑞香の正面に座ると、「さっそく見せておくれ」と言うので、行李の中の扇子を並べた。お美代には、芸をする人間には舞扇か能扇を見せるようにと言われていたので、それらを中心に見せてゆく。脇息にもたれかかり、立膝をついて座る瑞香は、それをじっくりと眺め始めた。
その様子を控えめに見ながら、この人物の性別はどちらであろうか、と伊月は考える。女田楽と聞いたから女性しかいないと思っていたが、そうとも限らないかもしれない。現にこの瑞香は男の格好をしているし、仕草も女性というより男性的な気がする。さらり、と音が鳴りそうな黒髪を緩く結った姿は、雅な男性と思ったほうがなんだかしっくりきた。
「お前は亀のように大人しいねぇ」
「か、亀!?」
品の一つを手に取り、広げたり閉じたりしていた瑞香が、唐突にそう言ってきた。亀に例えられるなんて、生まれて始めてである。
「まぁ、煩くあれこれ薦められるよりは良いがね」
ちらり、と伊月に流し目をくれる瑞香は、目元に紅を差しているせいか随分と艶っぽい。伊月はその視線とまともにかち合って、かぁっと顔が紅くなるのを感じた。それを見て瑞香は、くく、と声を押し殺して笑うと「これと、これを」と、畳んでも先が広がる中啓の扇子を差し出した。それから、紅葉が描かれたものを指して、
「これを十ほど用意できるだろうか」
と、問うてきた。
「はい、明日で宜しければご用意できます」
「では、そうしてくれ」
上手くまとめられたようだ。思わずふぅ、と一息ついてしまうと、見られていたのかまた笑われた。よく笑う人だ。
「その初々しさが愛らしいねぇ。明日来てくれるのもお前だろうね? 伊月」
戸の向こう側から一度しか名乗っていないのに、彼はしっかり記憶していたらしい。軽口だと分かってはいるが、どうも正面からそのように言われると恥ずかしい。
「……おそらくは」
「おや、ここは是非とも参上する、と言うものだよ? 客商売で付き合いは大事だ。そうだろう?」
瑞香は口元を三日月に持ち上げた。尋ねる形で聞いてはいるが、これはほぼ断定だ。
「……はい、その通りに御座います」
「では、明日も来てくれるね?」
「是非参上させていただきます」
瑞香はその答えに満足したようだ。「楽しみにしているよ」と笑みを浮かべる。そのまま、彼の視線を痛いほど浴びながら広げた品を片付けて、最後に頭を下げてから部屋を辞した。
嫌いな人間ではないが、どうも自分のまわりにはいたことの無いタイプの人だ。とりあえず、明日も行くことになってしまったから、そのこともお美代たちに伝えねばならない。案内をしてくれた小僧がまだ居たので、帰る旨を一言告げて平礼寺を後にした。




