上弦の声 1
あれからさらに十日ばかりが過ぎた。最近は、伊月も家事以外に山本夫妻の仕事を手伝えるようになっていた。
山本夫妻はこの町で扇子屋を営んでいる。店の主人である大吾の両親が早くに亡くなっているため、伊月が来るまでは長いこと家族3人で店をまわしていたらしい。庶民でありながら身寄りもない人間を一人養えたのもこの扇子屋という職業のおかげで、それもラッキーだったと伊月は思っていた。ここがいつの時代なのか伊月には分からなかったが、あまり庶民の暮らしが良くないのには気づいていた。それでも成人に近い人間を迎え入れることができたのは、山村夫妻の人柄と、客層のほとんどが上流階級で生活面に多少の余裕があったこともあるのだろう。
店にはお美代が出ていて、隣の部屋で伊月と大吾、その息子の吾郎太が作業をしていた。
主人の大吾は、かなり寡黙というか、お美代曰く、無口・無表情・無愛想の近所でも有名な三無の男らしい。しかも、小柄な人間が多いこの世界で頭1つ飛び出る大吾は、居るだけかなりの威圧感を放っていた。始めのころは伊月も彼とのコミュニケーションに大分戸惑ったが、話しかければぶっきらぼうでもきちんと返してくれるし、分からないことは嫌味一つ言うこと無く、丁寧に教えてくれる。ちゃんとできたときは、ポンポンと頭を撫でてくれるので、今では『見た目はちょっと怖いけど優しいお兄さん』と認識している。そんな彼の息子、吾郎太は彼の性格をまったく受け継がなかったようで、子どもらしく快活で、表情もくるくると良く変わる。人見知りもしないせいか伊月とはすぐに仲良くなった。世話焼きなところはお美代に似たのか、何も知らない伊月に対して吾郎太は兄のように接してくる。一人っ子の彼には5歳年上でも妹ができた感覚らしい。ちょっと複雑だが、実際10歳とは思えないくらいしっかりしているので、伊月も年上ぶらずに頼りにしている。今も、注文書などの事務処理をしている大吾に代わって、簡単な糊付けの作業を教えてくれていた。
「伊月。今度はこっちの糊使って」
吾郎太が新しい糊を持ってやってきた。ほんのりと良い香りがする。
「これは、香料混ぜてんだ。女とかはこういうの好きだから良く売れんだぜ」
そういって吾郎太はにかっと笑った。今やっているのは扇子の骨に糊を塗る作業だ。その骨を吾郎太が受け取り、紙に差していく。なるほど、扇子からいい匂いがするのはこの糊のおかげなのか。伊月は糊の入った椀を受け取り、新しい刷毛を使って作業を続けた。伊月と吾郎太のしている作業は、ツケと呼ばれる扇子作りの仕上げの工程だ。本来はツケ職人に任せるのだが、安い庶民用の扇子は自分たちでツケの作業をしているのだとか。これは先代が発案した経費削減の一つだそうで、貴族相手のものや、大量に注文があったときは、プロのツケ職人に頼んでそれを入荷する。20以上の工程があり、たくさんの職人の手によって作られる扇子だから、なるべく低予算でやりくりしたいらしい。彼らは本職でないとはいえ、幼いころから店を手伝っている大吾や、小さいながらに一生懸命な吾郎太は手際がよく、伊月の目から見ても売り物としてどれも素晴らしい出来栄えだ。
「吾郎太くん。糊付けの骨はこれで最後だけど、次何すればいい?」
「あ、終わった? じゃ、おれもこれが最後だな。父ちゃん、“こなし”やればいいの?」
吾郎太が最後の中骨を差し込みながら、大吾に尋ねた。大吾はすでに事務処理が終わっていたようで、先ほど吾郎太が骨を差し込んだ扇子を木の棒でとんとんと叩いていた。大吾はぬっと顔をあげ二人を見ると、
「母さんのところへ行け。それは俺がやっておく」
と言ってまた作業に戻った。大吾が無愛想なのはいつものことなので、わかったと返事をすると、二人は使った刷毛や容器を片付けて店番をしているお美代の元へ向かった。
店の方は丁度お昼時ということもあって、客は少なかった。お美代は通りに面した入り口の外で、数人の女性と立ち話をしている。笑い声も聞こえるので、仕事関係の話ではないと分かり、安心して近づいた。
「あら、吾郎坊と伊月さんじゃない。こんにちは」
話し相手の女性の方が先に気がつき、それぞれ笑顔と挨拶をくれる。
ご近所さんに伊月は、ひどい目にあって記憶を失った可哀想な少女として知られていた。これは大吾が言い出したことで、変わった服装で倒れていた伊月のことは、あまり町人たちに知らせない方がいいだろうとのことだった。伊月としても根掘り葉掘り聞かれるのは嫌だし、また奇異の目の見られるのもごめんなので、適当に話を合わせている。何か困ったことがあっても、「覚えていません」で切り抜けられるので、常識に疎い伊月にはぴったりの身の上話だった。
「母ちゃん、父ちゃんがこっちに行けって言ったけど、おれたち何すればいいの?」
吾郎太の質問に「そうそう」とお美代は店の奥に引っ込んだ。すぐに布に包まれた荷物を持ってくると、
「これを橋場屋さんに持っていって頂戴。御代はもう頂いているから、渡すだけでいいわよ。あとこれ」
布を伊月に持たせると、吾郎太に数枚の小銭を持たせた。
「丁度お昼だから、通りで何か食べていらっしゃい」
そしてお美代はまたにぎやかなおしゃべりに混ざっていった。二人は一応「いってきます」と言ってはみたが、お美代にはもう聞こえないらしい。吾郎太がしょうがねぇな、と笑って伊月の袖を引っ張った。
「行こう。ああなると母ちゃん長いんだ。待ってると日が暮れるぜ。っあた!」
ゴツっと鈍い音がして、にやにや笑いの吾郎太にお美代の拳骨が落ちた。そこはしっかり聞かれていたらしい。ぶつぶつ文句を言う吾郎太を宥めて、今度こそいってきますと店を後にした。