合わない半月 2
吾郎太と戦の話になって思い出したのは、この間の『影映り』で満尋と話したことだった。
前々回、途中で寝てしまうという大失態を犯してしまった伊月だったが、結局あの日は満尋の方も上手くいかなかったらしい。いつも『影映り』が起きる、予兆のようなものが無かったというからそうなのだろう。これで分かったことは、決まった場所でないと『影映り』ができないということ。お互いにあの場所で向かい合わないと話すことはできないようだ。
それにしても、『影映り』で見た満尋は顔色が悪かった。暗くても判ったくらいだから相当だろう。口数も少なくて、結局また伊月ばかりが喋ってしまった。本人が言ったわけではないが、何でもいいから話してくれ、と言われている気がしてどうでもいいような日常のことまで話していた。時には現代のことも交えて。満尋のいる鵟衆は傭兵集団だというから、きっと危ないこともするのだろう。仕事の話を詳しく聞いたりはしないが、きっと現代では経験しないような辛い事があったのかもしれない。それでも最後は笑ってくれたから、ちょっとは力になれたのだと思う。
さすがに毎日は会えないのだが、今日は『影映り』の約束をしているので、その時は元気な顔をしていると嬉しい。
「伊月? もうすぐ回ってくるぞ」
吾郎太の言葉にはっとして前をみると、前に並んでいるのは一人だけ。どうやら昼餉には間に合いそうである。意外と早く回ってきたなと思ったら、お弟子さんも加わっていたらしい。小柄な体系はまだ子どものようだ。緩く波打った髷はどこか見覚えがある。
「あっ」
思わず大きな声をあげてしまい慌てて口を押さえたが、出たものは戻せない。研師の男とその弟子がゆっくり顔を上げた。
「――っあなた」
顔を上げたのは『検め衆』で一緒だった戌親だ。そういえば、研師に弟子入りしていると言っていたが、ここで会うとは思わなかった。
「何? 伊月の知り合いか?」
意外そうな吾郎太に、この間の『検め衆』で一緒だったことを話す。へぇ、と吾郎太は納得すると、「仲良くなれなかったのか?」と聞いてきた。恐るべし十歳の観察眼。確かにこの間の一件で少々、いや、かなり気まずいのだ。
戌親は一瞬だけ眉を顰めたがすぐにその表情を引っ込め、「何を研ぐのです?」と問うてきた。さすが商売人。公私混同はしない。伊月はお美代から預かった包丁を渡すと、戌親はゆっくりそれを眺めて砥石で研ぎ始めた。
「久しぶりだね。元気だった?」
知り合いなのだから挨拶くらいはしようと話しかけた。戌親は顔を上げぬまま「ええ」と答えた。素っ気無いが一応返事はしてくれる。戌親には化け物と言われたが、誤解だと分かってくれれば仲良くしてくれるだろうか。
「今日もいい天気だね。……手馴れてるけど、いつからお師匠さんについたの?」
「……八つの時です」
「そっか」
誰かコミュニケーション能力を分けてくれないだろうか。もともと自分は話し上手ではないのだ。中途半端な会話にさらに気まずい思いをしていると、隣から吾郎太が口を挟んできた。
「おい、集中してるにしても、もうちっと愛想良くしろよ。伊月はお前と話そうとしてんだろ。気付いてんなら何でそれに返さねぇんだよ」
その言葉にぐっと戌親の肩に力が入った。事情を知らない吾郎太は必死に伊月を助けようとしているのだろう。一方的に戌親を責め立てる。伊月は慌てて止めにかかったが吾郎太は止まらなかった。何も知らないものが聞けば吾郎太の言っていることは正論なのだが、伊月は何故戌親がそのような態度をとるのか知っているので、とにかく居た堪れなかった。
すると隣で作業をしていた研師の男が、戌親の手元を見てぎょっとした。
「おい、戌っこ! へこんでんじゃねぇか、馬鹿たれ!! すまんねぇ、お嬢ちゃん。手前が直しやすんで、ちょっと待っていてくんねぇか。戌親、お前はもういいからお嬢ちゃんとケリつけてこい」
研師の男は唾を撒き散らしながら戌親を怒鳴りつけると、伊月と吾郎太にはぺこぺこと烏帽子を被った頭を下げる。そして、戌親からお美代の包丁をひったくると「まったくなんてことしやがんだ」と殊更真剣に研ぎ始めた。
研師の男に叱られ追い遣られた戌親は、「すみませんでした」と師匠と伊月に謝りその場を離れた。
悔しそうに去っていくその背中を慌てて追いかけると、少し離れた所の軒先で戌親が待っていた。伊月は彼の目の前に立つと、思い切り頭を下げた。
「ごめんなさい。私が話しかけたりしたから怒られちゃったんだよね。本当にごめん!!」
後から吾郎太がやってきて、伊月の隣に並ぶと「おれも悪かった!」と一緒に頭を下げた。例えまだ一人前でなくとも、人一人の仕事を奪ってしまった責任は大きい。通行人が何事かと三人を見やるが、伊月は戌親が何かを言うまで頭を上げるつもりは無かった。すると、頭上で戌親がふぅーと息を吐き出す。
「二人とも頭を上げてください。お客さんと話をするのも仕事のうち。それができなかったのは私の落ち度です。あなた方に非は無い」
その言葉に二人は頭を上げて戌親を見ると、今度は彼が頭を下げた。
「大事な預かり物を駄目にしてしまうところでした。師の腕前は確かです。どうか、それだけは信じてくれませんか」
弟子の評価はそれを教えている師匠の評価でもある。伊月は端から研師の腕も、戌親の腕も疑ってはいないが、「分かりました」と言って戌親の頭を上げさせた。
「よし! お互い謝ったんだからもうこれでお相子だな。で、なんでお前は伊月を邪険にしてたんだ? 理由があるのか?」
すっきりしたとばかりに吾郎太が破顔する。遠慮なく質問できるのは子どもの特権だろう。そう言われた戌親は少し悩んで伊月の方を見た。
正直伊月自身話しにくいことではある。山本家の人間は、伊月がこの世界に来た直後のことを知らない。何もない場所から突然現れたなんて聞いたら、どんな反応をするだろう。
戌親が遠慮がちにぽつぽつと話す内容は、以前伊月に向かって言った内容とほぼ同じだった。化け物と言ったことで吾郎太はとても頭にきたようだが、それ以外は冷静に話を聞いていた。戌親があらかた話を終えると、吾郎太はぶるぶると肩を震わせた。伊月は何を言われてもいい覚悟で吾郎太に向き合うと、彼はそれはそれは盛大に笑い出した。
「はははっ……伊月が……化けもんとか、悪さって……くくっ。何それ、おっかし……ふふふ」
腹を抱えてそのまま転がりそうな勢いの吾郎太を、伊月と戌親は唖然とした表情で見ていた。今の話で爆笑の壷など無かったはずだが。はー、はーと苦しそうに呼吸をすると、ともすればまた火が点きそうになるのを堪えて、吾郎太は戌親に向かって言った。
「――っく、くく。ふぅ。あー、笑った。それは無いって。突然現れたのが本当だとしても、伊月が化け物とか町に危害を加えるだとかありえないよ」
「何故そう言い切れるのですか」
自信満々の吾郎太に戌親は納得できない様子だ。それは伊月自身是非とも聞きたいところである。なぜ、自分を信じてくれるのだろう。
「だって、こいつすっごいおっちょこちょいだぜ? 初めて家に来たときなんて、小袖の裾を何度も踏んで転がってたし、水の入った桶も重くて持てないもんだから自分で頭から被ってたよな? あれは母ちゃんと不思議だ不思議だって言ってたんだ」
その後も出てくる出てくる失敗の数々。よくもまぁ、覚えていたものだ。伊月は真っ赤になって「もうそれくらいでいいよ!」と叫んだが吾郎太の口は回り続ける。
「後は……あ、扇子の地吹きの時に息吐きすぎて気を失いかけただろ? かまどに火を点けられなくて、その日の夕餉が抜きになったのが山本家最大の危機だったかもな」
穴があったら入りたいとはこの事である。もういっそ自分で掘ってしまおうか。「今はちゃんとできるよぅ」と蚊の鳴く声で呟いたのを誰か拾ってくれ。蹲って顔を隠す伊月の頭を吾郎太はぽんぽんと叩いて、「まだあるぞ。聞くか?」と戌親に聞いた。戌親は大層哀れみのこもった目で伊月を見つめると「いえ、充分です」と言った。
今日の仕事はもう仕舞いだと、夕日で紅く染まった研ぎ道具を片付ける師匠を戌親はそっと見つめた。自分が不揃いにしてしまった包丁は、この熟練の研師が綺麗に直し持ち主へと返した。あれから師匠とは口を聞いてもらっていない。何せ師の客を少し預かるようになってから始めての大失態である。無言で片付ける師を見ながら、悪ければ破門されるかもしれないと緊張していると、道具を背負った師匠が「ケリはついたか」と尋ねた。すぐに伊月という女性のことだと思いついて、「一応は」と答えた。自分の疑問が消えたわけでは無いし、母の言葉を疑うつもりはないが、あの一緒に居た少年の所為でなんだか真剣にあの女を警戒していた自分が馬鹿みたいに思えた。
「珍しいじゃねぇか。客の前であんな無愛想になるなんてよ。……あの娘っこが『月下辺』からの化け物かい?」
「……!!」
何故それを知っているのか。自分は師匠にその話をしたことは無いはずだ。
「客と話をするのも仕事のうちっつっただろうが。まぁ、見る限り噂なんて当てになんねぇもんだな。……戌っこ、自分の心で感じたことは大事にしろよ」
師匠はそう言って歩き出した。自分の心で感じたこと。そんなこと言われてもよく分からない。あの少年はそれを大事にしたから、あんなにはっきりと言い切れたのだろうか。思い出すのは、顔を羞恥で真っ赤に染めて、自分よりも年下の少年に子供扱いされる年上の女性。やっぱり馬鹿馬鹿しい。道の途中で立ち止まった戌親を「おい、早く来ないか」と遠く離れた師匠が呼んでいる。「すぐ行きます」と答えて戌親は走り出した。




