合わない半月 1
「あら、やだ。ほんとう、切りにくいわねぇ」
とんとんとん、という規則正しいお美代の包丁の音が途絶えた。隣を見ると、まな板で葱を切っていたお美代が包丁を睨み付けている。
「研いでみたらどうですか?」
伊月はよく母親が切れにくくなった包丁を自分で研いでいたのを思い出した。この世界の包丁はとても重いので、切れにくくなると料理の余計な手間だろう。伊月の提案にう~ん、とお美代は唸る。
「そうねぇ、やっぱり本職の人に頼もうかしら」
お美代が切った葱を持ち上げると、七夕の紙飾りの様に繋がっていた。
繋がった葱入りの朝餉を食べた後、伊月は吾郎太と共に女ばかりの行列に並んでいた。手にはお美代から預かった包丁がある。
「自分で研げばいいのになぁ」
頭の後ろに両手を当てて吾郎太が言った。面倒そうに言ってはいるが、今回は吾郎太が伊月に付いて行きたいとお願いしたのだ。
「やっぱり玄人の人にお願いしたいんだって。吾郎太くんだってそれが目当てなんでしょ?」
吾郎太はばれてた? とぺロリと舌を出しておちゃらける。刃物を扱うプロの研師は、この年頃の男の子にはちょっとした憧れらしい。刀を含め、刃物には昔から人を魅了する力があるという。それを「研ぐ」という職人にはきっと特別な精神力が必要に違いない。吾郎太が間近で見たがるのも分かる気がする。
さて、研師には二種類あり刀を専門に研ぐ刀研師と、それ以外の包丁や鋏、鎌などを研ぐものがいる。伊月たちが用のあるのは後者なのだが、彼らは店を構えているわけではなく、日中は道中を歩き回って商売をしているので、丁度近くに来たときに研ぎをお願いするのだ。この辺りの地区を廻りに来たのは久しぶりのようなので、伊月たちが行った時には随分と長い列が出来上がっていた。
「これ、昼飯に間に合うかな?」
丁寧な職人なのか中々列が短くならない。吾郎太も退屈してきたのか落ち着かない様子だ。あまり遅くなるようならまた今度お願いしようかと話していると、視界の隅でボロ布が道に落ちてあるのが見えた。ゴミは滅多に落ちていないのにおかしいと思っていると、それがもそりと立ち上がった。
それは人だった。
モップのような髪の毛に、元の色が分からなくなった着物は着ているというより引っ掛けているが正しいだろう。骨と皮だけの体からは筆舌し難い悪臭を放ち、陽炎のように立っている。
周りはその人を無いものとして処理していた。時々その悪臭に顔をしかめる人はいるが、通りすがる人も、ここに並んでいる人も誰もその人を「見て」いない。吾郎太は伊月の視線に気付いたようで、ぱっと手を握った。
「あいつきっと茶河から流れてきたんだ。目、合わすなよ」
小声でそっと囁くと、伊月の手を放した。「茶河って?」と伊月も小声で聞き返すと、隣の国だと吾郎太は言った。
「今、茶河はその隣の丹万と戦してるんだ。だから村を焼かれたりした奴が、あちこちに逃げて来てんだ。身一つで逃げてきても、その後の生活なんてたかが知れてるのにな」
吾郎太の考えはシビアだった。ここで助けないのか、などは問わない。この世界の人間は徹底して現実主義者なのだ。というのも、自分たちの最大の敵はいつも現実にあることを知っているのだろう。いつ壊れるかも分からない日常を慎ましやかに生き、それに満足し、時に諦めているのだ。だから、村を焼かれたのは自分達ではどうしようもないこと。しかし、その後を生きていくのは自分達でどうにかしていくこと、としっかり線引きしている。だから、あのボロ布を纏った人物に情けをかけるようなことはしない。自分たちが生きるので精一杯だし、きりがないからだ。冷たいようだが、精々頑張って生きてくれと祈るぐらいだろう。と、伊月はここまで考えて疑問が出てきた。
「たかが知れてるなら、どうしてお美代さんや大吾さんは私を助けてくれたの?」
身一つだったのは自分も同じである。ましてここでは変わった服を着て常識知らずなのだから、普通は見捨てるなり売りに出すなりするのではないだろうか。
「ん~、たぶん綺麗だったから、じゃないか?」
少し考えた後、吾郎太は言った。綺麗というが、自分は特別美人ではないし極めて平凡だと思うが、美醜の基準が違うのだろうか。
「顔が、じゃなくて手とか足とか。今はそうでもなくなっちゃったけど、初めて会ったときはお姫様みたいな手だったよ」
伊月は水仕事やらでかさかさになった自分の手を見た。掌の皮も少し厚くなり硬くなった部分もある。
「あんな白くて綺麗な手をしてたら庶民とは思わないよ。きっとやんごとない身分の人で、きちんとお預かりしなきゃって思ったんじゃない? まぁ、結局は身分も何も無い普通の女の人だったわけだけど……」
にやり、と意地悪く笑って吾郎太は伊月を見た。分かってはいるしその通りなのだが、はっきり普通と言われると腹が立つ。ちょっと大人びているならお世辞くらい言ったらどうなのだ。
「長いことこの国は戦をしてないって父ちゃんが言ってたけど……」
表情を一転させ、吾郎太は不安そうな顔をした。「みんなで世界平和」を唱える世界ではないのだから、いつこの国にも戦の火種が舞い込んでくるかは分からない。可能性としてはありえない話ではないのだ。伊月には戦争といってもいまいち現実味のない話だが、それは遠い海の向こうの話ではなく、今確かに忍び寄っているものなのかもしれない。




