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水面の月  作者: 霞シンイ
第一部
17/41

夢の中に月は出ぬ 2

 憑く、という言葉はたいてい神や霊的なものが人間に降りることを指す。そして憑かれた者は、気を狂わせたり、人智を超えた行いをはじめたりするものだ。だから、何かに憑かれた者はどうあっても人から敬遠される運命にある。

「影憑きか。影ってことは『影映り』に関係してるんだよね」

 影に憑かれる。影というのが『月下辺(かすかべ)』の住人のことだとすると、向こうの人達はこちらの人間に憑いたりする、ということだろうか。今のところ、『月下辺』にいる満尋に取り憑かれるようなことはないが。

「伊月、なんか悩み事か?」

 店仕舞いのため暖簾を下ろして戸締りをしていると、中で片づけをしていた吾郎太が傍に寄ってきた。吾郎太はこの間お美代が仕立てた藍色の小袖を着ている。ここでは常識のようだし、影憑きのこと、吾郎太に聞いてみようか。

「今日ね、市に行ったでしょ。そこで知り合った子の家族が影憑きって言われてて……」

あんまりな酷い言い様に頭きちゃった、とあの気持ちの悪い男たちを思い出して言うと、吾郎太は眉間に皴をぎゅっと寄せた。十歳の子どもがする表情とは思えないほど、深く刻まれたそれにぎょっとする。

「影憑きぃ? 伊月、そいつとあんまり関わんない方がいいって。前に言っただろ? あんまり『影映り』の声とか聞いちゃ駄目だって」

 伊月の持っていた暖簾を受け取ると、くるくると畳んで端に寄せた。軽い言い方だが吾郎太も、あの男たちと同じように影憑きを良く思っていないようだ。吾郎太は両手を腰に当てて、子どもを叱るような口調で言った。

「伊月、俺あの時なんて言ったか覚えてるか?」

 何故だろう。だんだん吾郎太が兄のように見えてくるのは。最初からずっとこうだったから、自分の方が感化されてしまったのだろうか。

「え、あの時って……?」

「なんで、聞いちゃ駄目かってこと!」

 あの時とは、初めて聞いた『影映り』の声に、耳を傾けてはいけないと注意された時だ。四、五日前の記憶を思い出しながら、吾郎太の言葉を辿っていく。

「えーと、なんだっけ? 連れてかれちゃう、から?」

 確かそんな話だったはずだ。吾郎太は伊月の答えを聞いて満足気に「そう!」と力強く答えると、仁王立ちのまま腕を組みなおして話を続ける。

「影憑きっていうのは、言いつけを破って向こうに連れてかれた人達のことなんだ。おれは伊月にそうなって欲しくないから、口をすっぱくして言ってるんだ。分かるか?」

 これは正座でもして聞いたほうがいいのだろうか。「はい、分かります」と自然と敬語で返すと、うんうんと吾郎太は大仰に頷いた。それにしても、連れて行かれたのなら、その人はもうこちらにはいないはずではないだろうか。吾郎太も本当かどうか分からないと言っていた気がする。言い伝えや伝承には子どもに言い聞かせるために、わざと大げさに話を膨らませたものがあるが、これもそのような話かもしれない。おキヨの話でも、お姉さんはまだ一緒にいるような感じだ。

「でも『月下辺』の人達も、こっちと仲良くしたいのかも――」

「駄目ったら、駄目!!」

 しれないよ、と続く言葉は吾郎太の叫びにかき消された。この話はもうおしまい! と、吾郎太は伊月を引っ張って、板間のほうへずんずんと向かう。夕餉の支度をしていたお美代と大吾が、不思議そうに二人を見てきたが曖昧な笑顔で誤魔化した。お美代にまで叱られたくはないし、大吾にいたっては言葉が少ないだけになおさら怖い。小さなお兄ちゃんに叱られている方がまだマシなのだ。


 虫の声が響き渡る夜五つ、伊月は前日同様こっそりと山本家を抜け出した。夕方吾郎太に言われた手前心苦しいが、同じ現代人である満尋に会いたい気持ちは変わらない。実際満尋と会って話をして、憑かれるというようなことは何も起きなかったのだ。満尋も伊月をどこかに攫おうとは考えていないようだし、問題ないだろう。今日は昨日のように喋りすぎないよう自制を誓って、明かりセットを片手に池へ向かった。

 今日は満尋が違う場所から試してみると言っていた。とりあえず、用意していた油が切れるまではここで待っていようと決めて火を灯す。むわっと魚の生臭い臭いが辺りに漂う。皿の七分目まで入れた油なら、だいたい2時間ぐらいは持つだろう。

 池の縁に腰掛けて、魚油の臭いに耐えながら『影映り』が始まるのを待つ。そもそもどういった原理で起きるのかさっぱり分からないのだが、変化を見逃さないようにじっと水面を見つめる。時折飛び込んでくる虫を適当に払いながら待ち続けるも、水面は風に揺らされることもなく静かなままだった。それでも伊月はじっと待ち続けた。


 冷たい湿った土の感触に、伊月はふと目を覚ました。ぼーん、と控えめな鐘の音が聞こえてくる。

「もしかして、私寝ちゃってた?」

 寝ぼけ眼で周りを見渡すと皿の明かりはすっかり消え、空に浮かぶ月はほぼ中天に昇っている。髪の毛や着物に付いた土を手探りで落としながら、ほとんど反射のように数えていた鐘の音は八回。現代の時間で計算すると。

「嘘! 夜中の2時?」

 一気に目が覚めて慌てて池の中を覗き込んだ。

 池の中は魚も眠っているのか、何の気配もないただの黒い穴である。僅かに月の光を反射しているがたいしたものではなく、光は闇に吸い込まれている。

 「もしもし? もしもーし?」と伊月は小声で池に呼びかけてみるが返事は無い。どうしよう、という思いが伊月の頭の中をぐるぐる回る。上手くいかは分からない、と満尋は言った。でも、もし満尋の呼びかけがあったのに気付いていなかったら。メールですぐに謝れるわけではないのだ。向こうが怒って『影映り』を止めてしまえば、どんなにこちらが望んだとしても、話をすることも、会うことも二度とできなくなる。

 明後日はお互い同じ場所で、と決めた。もう今日の話だが。お願いだから今夜は会えますように、と神でも仏でもない誰かに強く祈った。


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