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水面の月  作者: 霞シンイ
第一部
16/41

夢の中に月は出ぬ 1

 今日は市が出る日だというので、伊月は買出しを任された。吾郎太も伊月に友達が出来たことを知ってか、あまり過度な心配はしなくなった。

 市場は相変わらずたくさんの人で賑わっており、豆売り、魚売りと順にまわって買っていく。売りに来ているのはほとんど女で、皆世間話も交えつつ買い物を楽しんでいるようだ。最後に野菜売りのところで野菜を買う。現代で見たことあるものから、初めて目にする山菜まで様々なものが置いてある。それらをいくつか買って籠に入れてもらうと、すぐ向かいの豆売りのところに見たことのある顔があった。

「おキヨさん?」

 振り向いたのは「茶屋 饅饅」のおキヨだった。おキヨは豆の入った袋を受け取ってこちらへやって来た。

「一昨日、巴と一緒に来た子よね。この間はせっかくいらしてくれたのに、ごめんなさい」

 向こうも伊月のことを覚えていたようだ。客を追い返すような形になって、気にしているのだろう。「少しお話しませんか?」と控えめな誘いを受けた。

「伊月さん、よね。巴から聞いたわ。私を元気付けるために来てくれたって。それなのに……」

「えっ、あの、気にしてないから、大丈夫。私もまた会いたいなって思ってたところだから!」

 歩きながら話をしていると、おキヨはだんだんと暗い表情になっていく。これは自分から話題を振った方がよさそうだ、と伊月は考えると何か共通の話題はないかと頭をめぐらせた。結局、思いついたのは天気の話か、巴についてだった。

「巴ちゃんはよくお店に行くの?」

「え? あ、ええ。いつも一人で来てくれるわ」

 巴の話を振ったのは正解のようだった。ぱっと顔を明るくさせると、巴が何を頼んだとか、どんな話をしてくれるのかなどを話してくれた。

「私、あまり外行かないから……、いつも面白い話を持ってきてくれるの」

 恥ずかしそうに頬を染めると、おキヨは下を向いた。話をしてみて分かったことは、おキヨは数日前の自分に良く似ていたことだ。消極的で、他人に対して遠慮しがち。巴は自分とおキヨはきっと気が合う、と言ったが、たぶんそれに気付いてのことだろう。

「お店が忙しいと中々外に出れないよね。あ、じゃぁ、おキヨちゃんも光之助様の話を巴ちゃんから聞いたりするんだ」

 性格的にきっとこの子も同じ経験をしただろうな、と思って聞いてみると彼女は目の色を変えて、今までとは違う、少し強気な態度で伊月を見た。

「巴、光之助様の話をしたの? 好きって?」

「え? あ、うん」

「そっか。……そっか……」

 おキヨは少しずつ寂しげな表情になっていく。これは拙いことを言ってしまったかもしれない。異性の話をして暗くなるなんて理由は一つに決まっている。

「ご、ごめんね。おキヨちゃんも光之助様のこと好きだなんて、私、知らなくて……、えっと巴ちゃんには言わないから……だから……」

 恋の大三角形を作ってしまったかも、と慌てる伊月に一瞬きょとんとしてから、おキヨはくすくすと笑い出した。ふふふ、と口元に手を当てて「ごめんね」と言う。

「違うの。……ふふ。私は別に光之助様に懸想などしていません。あれはそういう意味ではなくて――」

「おい! あれ、影憑きの妹じゃぁないか」

 突然、下品な男の声がおキヨの声を遮った。見ると烏帽子をかぶった男が何人か、こちらをにやにやとした表情で見ていた。着物を見たところ、武士ではないが裕福な町民であろう。彼らを一瞥したおキヨは眉をひそめ、そのまま立ち去ろうとしたが、尚も男たちは大声で喋り続けた。

「まったく、影憑きだなんて可哀想になぁ。いつまでも嫁にいけないんじゃぁ、親父さんも心配でたまらないだろうに」

「この間の望月も影に向かって一人、あられもないことをしていたんだろうよ」

「いいねぇそりゃぁ、ぜひ見たかったな。もしかして、お前も姉と同じことをしてたんじゃないか?」

 この男たち、立派なのは身なりだけのようだ。影憑きがなんなのかは分からないが、ひどい侮辱のなのだろう。おキヨは怒りと恥で白い顔が真っ赤になっている。卑しい表情を貼り付けた男たちは、おキヨを舐める様に見ていた。吐き気がするようなその視線と言葉に、伊月もふつふつと怒りが沸いてくる。その中で、神経質そうな男が一人前に出てきた。

「丁度良い。君の姉君に伝えてくれ。お前のような女を娶るのは私ぐらいのものだと。父君を早く安心させたいだろう?」

「あ、姉は影憑きなどではありません!」

「ふん、まあ良い。色よい返事を待っているぞ」

 そうして言いたいことだけを言って、男たちは踵を返し去っていった。しかし、残されたほうには奇異の目が待っている。伊月とおキヨは逃げるようにしてその場を後にした。


「ご、めんね。家の、ことに、巻き込んでしまって……」

 走るだけ走って、気がつけば随分と離れたところに来ていた。周りは家がまばらに立ち、小さな菜園や田んぼがあるだけ。ただ、その分人通りはほとんどない。

「えっと、さっきの、影憑きって……」

 まだあがったままの息をなんとか整えて、おキヨのほうを見た。

「姉さんは……! 姉は影憑きなんかじゃないの。本当よ。信じて……」

 伊月の小袖にすがり付いて必死で姉の潔白を訴えるおキヨに、影憑きのことは聞けなかった。おキヨの背をとんとんと叩きながら、

「大丈夫。あんな奴の言うこと信じるわけないじゃん」

と言う以外にできることはなくて、それがなんとも歯がゆかった。しばらくすると興奮状態が落ち着いたのか、するりと袖を握っていた手が離れた。

「あの方は土倉の若旦那なの。昔から、姉に言い寄っていて。最近は、いつまでも振り向かない姉に腹を立てて、あんなことを……」

「……最低だね」

 好きな人の悪口を言えるなんて、どうかしている。しかもあんな往来で。名前も知らない男たちに怒りが再燃してくると、また胸の辺りでなにかが燻るような、焼けるような感覚に襲われた。なんとなくここへ来た最初の日を思い出したのだ。誰も自分を相手にしてくれなくて、近寄ってくるのは下心のあるものばかり。初めて受ける不当な扱いにどうしてよいか分からなかった。おキヨやお姉さんも同じ気持ちなのかもしれない。

 それからお互いに何かを発することはなかった。伊月は深く踏み込んでよいものかどうか判断つかなかったのだ。なにしろおキヨとは今日初めて言葉を交わしたのだから。また次合った時に笑顔で一緒にいてあげることが最善のような気がした。それでもこの胸の気持ちの悪さは取れることがなく、山本家には暗い顔をして帰っていった。


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