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水面の月  作者: 霞シンイ
第一部
15/41

立待月に語る 4

 満尋と話をした翌日。今日は新しく作る扇子もないので、お客さんが来ていない間、伊月は大吾に手習いをしてもらっていた。

 墨を磨るところから始まり、筆に浸して紙の上を滑らせる。現代のように紙は大量に消費できるものではないので、書き損じの裏を使わせてもらっている。前に、字は読めるがくずしたものが読み書きできないといったら、大吾はひらがなをまず手本で書いてくれたことがあった。時々筆の持ち方を正されながら、それを見て同じように書いていく。シャーペンと同じ感覚でつい手をついてしまうが、利き腕は机に触れないように、肘を浮かせなくてはいけないらしい。

 何度か練習したあと、ふぅ、と一息ついて姿勢を楽にした。手首から肘まで浮かせているのは結構大変なのだ。

「疲れただろう。余計な力が入りすぎている」

 肩の力をもっと抜くように、と大吾がアドバイスをくれる。あまり喋らないが、彼は教えるのが上手だ。もう少し愛想を良くすれば教師に向いているかもしれない。

 少し休憩をもらってのんびり足を伸ばしていると、昨日満尋に出された「宿題」を思い出した。

「あの、大吾さん。今更ですけど、ここってなんという国なんでしょう?」

 大吾は伊月が練習に使った紙を一枚一枚見ていたが、顔を上げて、

「ここはワクレの国だ」

と言って、紙の端に「歧呉」と書いた。満尋のいる国も「別暮(わくれ)」だったはずだが、これはどういうことだろうか。漢字が違う同名の国が他にあるのかもしれない。伊月は筆を取って、大吾が書いた国の隣に「別暮」と楷書体で書いた。

「これでワクレと読む国や地名はありませんか?」

 満尋のいる場所が分かるかもしれない、と伊月は少し期待したが、大吾はそれを見て首を横に振った。膨らんだ気持ちが一気に萎んでいく。やはり『月下辺(かすかべ)』は、幻のようにここには存在しない場所なのだろうか。


 皆が寝静まった頃を見計らって、伊月は外に出た。今は夜五つを少し過ぎたくらいか。ここの人たちは夜暗くなったら寝るのが普通なので、現代では九時にもなっていないだろう。夕方用意しておいた明かりセットを持って、昨日の池のところまで向かった。幸い月が明るいので、明かりなしでも道が分かる。

 しんと静まり返った池のほとりに腰を下ろし、火打石を使って火をつける。石に火打鎌を打ち付けて、何度目かにやっと火がついた。その火をあらかじめ魚油を入れてきた皿に移す。

「う、……くっさ」

 安い魚油はひどい臭いだった。鼻をつまんでぱたぱたと空気を仰ぎ、少し皿を遠ざける。明かりは遠くなるが、この方がまだましだ。

 何か変化はないかと水面を見ていると、不意にゆらゆらと水面が動き出した。『影映り』だ。水面をじっと見ていると、影が浮かび上がってきた。

「こんばんは」

 現れた満尋の影にそう言うと、向こうも「こんばんは」と返してきた。

 伊月はさっそく昨日出された「宿題」のことを話した。自分が今いる国は「歧呉」といって、満尋のいる「別暮の国」とは違う漢字を用いること。今日は天輝四年の八月十八日で、領主は「山下清太義孝」という人物だということ。それを聞いて満尋は考え込んだり、何か思いついたりしたようだが伊月に言うことはなかった。

「満尋は普段何をしてるの?」

 自分ばっかり話すのもつまらないので、今度はこちらから尋ねてみた。満尋は少し悩んだ後、(のすり)衆という小さな傭兵集団に所属していると言った。

「まだ、仕事はもらってないけど。今は剣術や馬術……の基本を教えてもらってる」

 馬術と言ったところで満尋はどこか遠い目をした。何かあったのか聞いてはみたいが、本人がなんとも言えない顔をしているのでやめておく。代わりに自分が、こちらに来てから扇子屋でお世話になっていることを話した。扇子作りは奥が深いこと、お世話になっている山本夫妻がとても優しいこと、二人の息子の吾郎太に妹扱いされている、などの話を満尋は目を細めて聞いていた。

「伊月は、いい人たちに出会えて良かったな」

 心からそう思っているのか、満尋はとても優しい顔をしていた。「うん」と頷いて、「満尋もそうでしょう?」と聞いたら、ほんの少しだけ笑顔が翳った。鵟衆の人たちは、満尋に辛く当たっているのだろうか。水面の向こうの彼は慌てて違うと否定した。

「鵟衆の人たちは、本当にいい人達ばかりだ。あの人達がいるから今の俺がいる、と思う。男ばっかりだし、莫迦で変な奴も多いけど」

「……そっか」

 そこで会話が途切れてしまった。夜風が流れてきて、皿の灯を揺らす。何か話題は無いだろうかと頭を働かせていると、先日行った『検め衆』のことを思い出した。

「そうだ、満尋のところは『影映り』で物がなくなったりしない?こっちはこの間……」

 あんなことこんなこと、まるで小さな子どもが、母親に一日の出来事を話すように伊月は満尋に話して聞かせた。同郷だというだけで、こんなにも心を許せるとは思わなかった。しばらくして、皿の火がずいぶん小さくなった。油がもう切れかけている。

「もうそろそろ寝た方がいいな」

 明かりが弱まったのが向こうにも分かったのだろう。満尋は苦笑してお開きにしようと言った。その時になって、ようやく自分だけぺらぺらと話しすぎてしまったことに気付き、伊月は紅くなった。これでは巴のことが言えない。気を悪くしただろうかと満尋を見たが、表情からでは何も分からなかった。

「明日も『影映り』できるか?ちょっと実験したい」

 満尋は実験の内容を簡単に話した。この間気になった、同じ場所以外でも繋がるかどうかだ。伊月は、山本家に内緒で『影映り』をできそうな場所は、ここ以外に思いつかなかったので、満尋が今日とは違う場所から試してみることになった。『影映り』が失敗した時のことも考えて、明後日はお互い今日と同じ場所にしようと決めた。

「よし。じゃぁ、また明日。……上手くいけばな」

「うん、またね。おやすみなさい」

「……おやすみ」

 昨日と同じように、満尋が手を伸ばして『影映り』を終わらせた。影が完全に見えなくなったのを確認してから、火を消し山本家へ戻る。

 三人を起こさないようにこっそり布団に戻ってから、『影映り』で現代が見えると考えたことを思い出した。

(これって、案外「はずれ」てはいないよね)

 『月下辺』の人間を通して、現代を感じているのだから。


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