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水面の月  作者: 霞シンイ
第一部
11/41

繁劇の十六夜 6

 戌親と巴の諍いは、光之助と共にやって来た蔵助の二人によって鎮められた。女と子どもの喧嘩なので手が出ることはなかったが、それでも勢いは激しく、大人二人が無理やり引き離すようにして終わらせた。巴と戌親は一切口をきかず、お互いに無視することで荒れる気持ちを抑えたようだ。その後は蔵助が手配したのか、大岩を動かすため町からぞくぞくと力自慢の男たちが集まり、喧嘩後の刺々しい雰囲気は薄れていった。

「後は俺たちがやっておくから、お前たちはもう帰っていいぞ」

 蔵助は『検め衆』を一度解散させて娘たちを帰してきたそうだ。それを聞いて富爺も、老人は足手まといだから、と家に帰って行った。光之助と戌親はそのまま残り、岩の除去作業に参加するらしい。

「光之助殿から聞いて、一番でかい荷車を持ってきたがやはり乗せられないな」

「面倒だが、丸太の上を転がしてくっきゃないだろ。あーあー、疲れるのはごめんだねぇ」

 集められた男たちはそれぞれ軽口を叩きながらも手を休めることはなく、忙しそうに動き回っていた。戌親も大人に混じってあっちへこっちへと走り回っている。

「はぁ、やっぱり素敵だわ」

 男たちの働く様子を見ていると、すぐ隣で恍惚とした声が聞こえてきた。見ると、巴がうっとりとした表情で作業を見ている。視線の先にいるのはもちろん光之助だ。

「やっぱり、町の男どもとは違うわね。凛としたお姿はさすが武家のお人だわ」

「巴ちゃん、まだ居たんだ」

「居てはいけないの? 一人だけ光之助様を独り占めしようだなんてさせないわ」

 巴がまだ勘違いをしていることに内心うんざりしながら、作業の方に視線を戻した。岩にかけられた無数の縄を、誰かが連れてきたのか一頭の牛と人間とで引っ張っている。大変そうだがなんとか動きそうだ。

 ぼーん、ぼーん、ぼーん、と町のどこからか鐘が三度鳴った。これは、これから時間を知らせますよという合図で、ここへ来てから伊月は毎日この音を聞いていた。

「あら、もう八つね。昼餉を食べ損ねてしまったわ」

 八回鳴った鐘の音を聞いて、巴はお腹を軽く押さえた。

「えーと、九つが12時だから……、だいたい2時くらい? 私もお腹空いた」

 一度時間を意識してしまうと、町内を歩いているときは気にならなかった空腹感が襲ってくる。

「家に帰る前に『甘茶庵』で食べて行くわよ」

 そう意気込んで、巴は一人歩いていった。その様子を見送って、伊月もどこかで食べて帰ろうかと思案する。お昼代はお美代から貰っているので、この前吾郎太といった蕎麦屋にでも行ってみようかと思っていると、巴が戻ってきて腕をつかんだ。

「何でついてこないのよ。あなたも行くのよ、ほらっ」

「へぁっ?」

 ぐい、と引っ張られて変な声をあげてしまった。それよりも一緒に行くとはどういうことか。

「ちょっと、何っで、私までっ」

「よくよく考えてみれば、光之助様があなたみたいな地味で平凡な娘に懸想するはずないのよね。あなた、さっき『甘茶庵』に行ってみたいって言ってたじゃない。そこでたっぷり、私がいかに光之助様を好いているのか教えてあげるわ」

 確かに、町で新しくできた甘味屋に行ってみたいとは言った気もするが、そんな話は聞きたくない。しかし、伊月の精一杯の抵抗も虚しく、巴に引きずられて『甘茶庵』に押し込まれた。


「あら、そんなことがあったの。良かったじゃないの、友達は大事よ」

 土間で夕餉の片づけをしながら、げっそりして話す伊月の話をお美代は嬉しそうに聞いていた。お美代は一体自分の話のどこを聞いて良かったと思ったのか。甚だ不思議だ。

 あの後『甘茶庵』では、巴が本当に光之助への愛をこれでもかと語ったのだ。それも暮六つの鐘が鳴るまで。暮六つの鐘は現代のだいたい夕方6時くらいを指すと伊月は計算しているので、約4時間も彼女の話を聞いていたことになる。せっかく頼んだ評判の団子も、硬くなってしまえば味も分からなくなるというものだ。どこかで適当に抜ければよかったものを、タイミングをつかめず結局彼女が「あら、もうこんな時間だわ」と帰るまで居座ってしまったのだ。

「友達ではないです……」

 自分は巴にとって恋敵(ライバル)のはずだ。それなのに、甘味屋に誘われるとは思ってもみなかった。でも、悪い気はしなかったと思う。大分一方的ではあったが、女の子と甘いものを食べて、恋の話をするのは久しぶりだったから。

「まぁ、どんな子であれ、同じ年頃の子と話すのはいい刺激になったでしょ。店を手伝ってくれるのも嬉しいけど、私たちはあんたを閉じ込めてるわけじゃないんだからね」

「はい。いろいろ気遣ってくれてありがとうございます」

 なんとなくばつが悪い。やはり、お美代は自分があまり外に出たがらないことを気にしていたようだ。

「で、で、で」

 つつつ、とお美代が側に寄ってきて、にやりと口が弧を描く。

「あんたはだれか、気になる男はいなかったの?」

 口元に手を当てて、このお美代にこっそり教えておくれよ、と笑う。

「やっぱり、お美代さん。『検め衆』が合コンだって知ってたんですね!」

 向かいのとこのあいつもいいし、あそこの次男坊もなかなか……、などと一人話を進めているお美代に、伊月はむっとしながら言った。兵四郎もお美代が知っていて黙っている、と言っていたのだ。

「ごうこん? なぁに、それ。別にー? 若い男も来るだろうから、一人や二人良い人ができてもいいんじゃないかと思ってねぇ?」

 わざとらしくしらばっくれている。

「私は、そんな気はありません!」

 お美代がここまで言うのも、伊月が丁度結婚適齢期だからだろう。未婚の女性というのはあまり歓迎されない。女は夫を持ち、支え、子を産むのが役割であり、幸せである。だから、伊月にも早くそうなってほしいのだ。行き遅れる前に。ただ、現代で育った伊月にはとても抵抗があることだ。自分はまだ学生、子どもである。ずっと先だと思っていたものを目の前に出されても戸惑うだけだ。それに、いつか帰ると決めているのに、ここで恋人などつくれない。

「帰りが遅かったから、てっきり良い人と一緒だと思ったのにねぇ。残念だわ」

 ほう、とため息を吐いてお美代は居間の方へ行ってしまった。いつも面倒見の良く、しっかり者のお美代にも困った面があったものだと、その後ろ姿を見ながら思う。

「気になる男の人、か」

 手に持った茶碗を置いて、ふと思い出すのは昨夜の「彼」だった。ただ一度、顔を合わせただけの(ひと)。現代の眼鏡をかけて泣きそうな表情をした『月下辺(かすかべ)』の住人。

「気になる男の人」

 恋ではないけれど。


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