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水面の月  作者: 霞シンイ
第一部
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彼女のプロローグ

 やかましい雀と蝉の声に起こされる。まず目に入るのは、見慣れない木の天井。板敷きの床に、薄いせんべい布団を敷いてその上に伊月は寝ていた。やわらかいベッドの上が日常だった伊月には未だに信じられないことだが、それがここ一週間の一日の始まり方だった。


 気がついたら見知らぬところにいた、だなんて映画や本の中だけだと思っていた。しかし、気がついたら見知らぬ田舎にいた、ということが実際に伊月の身に起きたのだ。

 高校からの帰り道、突然蜃気楼のように目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。一体自分の身に何が起きたのか。考える間もなく、瞬く間に伊月の周りがコンクリートから土と草に変わった。濃厚な青い匂いが鼻から入ると、ようやく伊月はこれが現実に起きたことだと理解したのである。

 それからは、伊月にとってあまり思い出したくないことの連続だ。

 彼女が立っていたのは、舗装されていないむき出しの地面。周りは見渡す限りの田んぼと畑である。トラクターや田植え機が通っているとは思えない、ぐにゃぐにゃと歪んだ多角形の水田は、伊月にとって見慣れない田園の風景であった。さらに左を見れば山があり、そのまま360度見渡しても、ビルも無ければ、家も無い。どこにでもありそうな電信柱さえ見当たらない。視界はただただ真夏の濃い緑に埋め尽くされていた。

 そして、おかしいのは景色だけでない。僅かに通りかかる人々は、皆時代劇に出てくるような格好をして、伊月の前を通り過ぎていく。簡素な着物を着て、髷を結った彼らは、ブラウスに紺のスカートといった、ごく一般的な制服姿に目玉を落とすほど目を見開いて驚くと、すぐに何も見なかったとばかりに足早に去っていくのだ。ここがどこなのか、伊月が尋ねようと声をかけても、皆一様に、「うっひゃあ」と悲鳴を上げて逃げてしまう。

(お化けじゃないんだから……。しっつれー)

 その様子に、初めは伊月も不愉快が先に立っていたが、それが一人、二人と続くとだんだんと不安になってくる。最後はほとんど悲鳴に近い声をあげていた。

「お願い! ここはどこですか? 話をきいて!」

 そんな伊月の叫びもむなしく、着物の人々はもののけが出ただの何だの喚いて彼女から一目散に逃げていく。こんな態度をとられたのは初めてだ。混乱した伊月にはもう、どうすれば良いのか分からない。

 そうして途方にくれる中、反対に声をかけてくる者もいた。しかし、それは救いの手ではない。

「よう、嬢ちゃん。俺たちが力になってあげるぜ。こっちついてきな」

 3人の男たちは、伊月におびえる様子もなく近づくと、無理やり腕を掴んでどこかへ連れて行こうとする。ようやく話を聞いてもらえそうな人に出会えた、と喜んだのも束の間、彼らの上から下まで舐めるような視線に伊月は鳥肌が立った。なんとなくでも良くない人間だというのは伊月にも分かる。隙を突いて一目散に走り出し、幸運にも彼等を振り切った後は、木の陰にうずくまって夜を過ごした。

 色とりどりな人工的な光も、月明かりも全くない、生まれて初めて経験する本当の暗闇。眠ることなどできるものか。

 見つかるかもしれないと知りつつも、伊月は涙を堪える事ができなかった。



「おはよう、伊月」

 部屋の外にある井戸で顔を洗っていると、一人の若い女性が近づいてきた。

「おはようございます。お美代さん」

 お美代と呼ばれた女性は、にこにこと優しい笑みを浮かべて井戸の桶を手に取った。彼女は、この地で伊月を保護してくれている山本大吾の妻で、右も左も分からない伊月に色々とよくしてくれている。衣食住の他に、金勘定の仕方、洗濯・炊事など、日常生活にかかせない知識を、伊月が困ったときに少しずつ教えてくれるので、伊月はこの一週間で山本夫妻をかなり慕うようになっていた。

「早起きも慣れたみたいね。あんなお寝坊さんは初めて見たもの」

「あはは、すみません。もう、ちゃんと起きれますよ」

 井戸水を汲みながらお美代はからかい混じりに言った。ここの朝はとにかく早い。日が昇るか否か、位の時間に大人も子どもも起きてその日の準備に取り掛かる。その分夜も早いのだが。夜更かしと目覚まし時計に頼りきった生活をしていた伊月は、彼女の言う通り大寝坊を繰り返していたのだ。

「なんだかまだ他人行儀だねぇ。あんたを拾って七日たつけど、あたしたちはあんたを本当の家族同然に思っているんだよ。なんなら、お母さんって呼んでもいいんだから」

 しかめっ面をしながらお美代が言う。初めて顔を合わせたとき、家族が(この世界には)いないと言った伊月に、彼女たちはひどく同情してくれた。それから2人は、よくこのように自分たちを家族代わりにしていい、という。誰も頼る人間がいない伊月にはうれしい言葉だったが。

(さすがに20代の人をお母さんとは呼べない……)

 昔の日本のようなこの世界では、女は15、6歳で子どもがいるのは当たり前らしい。お美代もその頃に大吾と結婚したらしく、どう見てもまだ20代半ばだった。これで十になる息子が一人いるのだから、伊月は自分の年に置き換えて驚いたものだ。

「さあて、支度が済んだら朝餉の準備を手伝ってちょうだい。本当、かまどの使い方が分からないのには驚いたけど、一応料理はできるみたいだし。変な子ねぇ」

 お美代はくすくすと笑いながら、土間の方へ向かった。伊月もその後を追いながら、厨に立つ彼女の一挙手一投足を見逃すまいと観察していた。お美代もそれを分かっているのか、時々仕草をゆっくりと見せてくれる。重たくて切りにくい包丁で不器用に野菜の皮むきをしながら思う。まずここの生活に慣れること。常識の何もかもが違うこの世界で自分は子ども以下だ。不便はたくさんあるけれど、できない理由にしてはいけない。一日目でわかってしまったのだ。もののけと呼ばれて距離を置かれた。変な男に売られそうになった。夜の森では、獣の息遣いと男たちの追跡にびくびくしながら一夜を明かした。ここの生活に馴染めないと本当に死んでしまう。

 帰ることを考えるのはその次だ。


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