【幕間】はじまる前の物語 その2エリシアのリアルな話
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拙作〔メガネを掛けた悪役令嬢〕のプロローグの1つ。
ヒロイン予定のアリシア・エバンス男爵令嬢の母親エリシアのお話。
作中のゲームシナリオ『ライラックの花が咲く頃に』ではなく、本編の登場人物と時間軸が繋がってます。
どーしようもないオリビアの父ロベール・アーシュレイと愛妾エリシアとのハートフル・ストーリー(冗談です^^;)
一人娘のアリシアを神殿の寄宿学校へと馬車で送り出したエリシアは、ひとりに成った屋敷で「ほう。」と息を吐き、夏から秋へと変わりつつある王都パルスの高く青い空を見上げた。
薄い赤髪をした彼女は、エリシア・エンバス男爵未亡人である。
懐妊した15歳の頃、エリシアは恋人だったロベール・アーシュレイ次期侯爵の勧めで、病に臥せった老齢だったエンバス男爵の書類上の妻となった。
フローラル王国では、婚外子の立場が悪かった為、お腹の子を思い不安だったエリシアは、ロベールの提案に大きく安堵した。
そしてロベールから命じられる侭にエリシアは、特別婚姻誓約書にサインを綴り終え、微かな笑みを浮かべた。
(此れで、アタシの夢は叶った。
アタシは、ロベール様の妾で或るけど、建前的に男爵夫人へと成れた。
お腹の子は、産まれる前から貴族の身分を得ている。
タイミングの良い運を持ってる此の子は、きっと幸せになれるわ。)
◇
エリシアの父は、オルサ大河東部で船大工職人をしている文官だった。
フルーブ1世時代に各地の熟練した船大工職人は、フローラル王国に雇われ海軍技師と格上げされ、職人から文官へと認めらえた。
それまで船大工は、現物合わせや各職人の秘伝の技術で行っていたが、文官にすることにより帆船の設計図画を作らせ、正確な船体縮小図画提出を義務付けた。 これによりフローラル王国各地に建てた海軍造船所で、安定した帆船を作ることに成功した。
但し文官と云っても平民であることに変わりなかった。
エリシア一家が住む造船所の或るアルスナル湊地区は、喧噪に包まれた賑やかな場所だった。
父と母は、平民にしては見目が良かったとエリシアの一番上の姉が話していた。
綺麗で朗らかな母の記憶は、エリシアが2歳に成った頃までしかない。
父たちが造った大きな帆船の華やかな進水式が在った日、母は所用先で行方不明になり、消息を絶った。
未だ2歳だったエリシアは、大好きだった母の姿が突然に見えなくなったことで、毎日泣いていたことしか其の頃のことを覚えて居ない。
一番上の姉は、我が家と同じ軍属の帆船技師の準男爵家に嫁ぎ、その3年後、二番目の姉は15歳で材木商の後継との婚約が決まった。
その時に、エリシアは次女の姉から行方不明になっていた母の事を聞かされた。
『結婚準備で私自身が忙しくなる前に、消えてしまったお母さんのことをエリーに話しておくわね。エリーも11歳に成るし今後の事も或るから、、、』
3年前、一番上の姉が嫁いからは、次女の姉が長女に代り、家事や手のかかる二人の兄たちとエリシアの世話をしてくれていた。因みにエリシアは、二人の姉と二人の兄が居る5人キョウダイの末っ子に成る。
2番目の姉の話では、行方不明になった日に母は、パン種を持って共同のパン焼き窯へと向かった。
フローラル王国の平民居住区では、炭焼き小屋の隣に共同のパン焼き窯が或る。 以前のカナーン王国時代には、区域長の代官が窯の使用代に焼き税を徴収していた。
代官が管理していた場所に収入を増やすため、広場に共同のパン焼き窯を作っていたのだ。
その時代、各家屋には竈門税が課せられていた。 が、そもそも普通の平民の狭い家屋にパン焼き窯など作れる筈もなく、肉を買うよりは安い共用窯を不承不承使用していた。
フローラル王国に変わった現在は、僅かな薪代とパン焼き職人への手間賃を支払えば良い為、カナーン時代より平民がパンを食し易くなっているそうだ。
それでも購入時に国から小麦税を課されていたが、税がなくとも裕福でない平民に小麦はもとより高価だった。 だから日頃に食べるパンは、カラス麦や大麦を練ったパン種を、共同窯を管理しているパン焼き職人に焼いて貰っている。
夕食と翌朝のパンを焼いて貰うために、共同のパン焼き窯へと向かっている途中で、母は攫われたらしいとのことだ。
母が持って出た編み籠とパン種が道に落ちていたことから、事件に巻き込まれたのではないかと父が帰宅してから姉たちは告げ、母を探したらしい。
当然、父は地区の衛士たちに幾ばくかの手間賃を支払い捜索願を出した。
だが其の日は、東のノールズ公爵家から依頼されていた帆船の進水式で、アルスナル地区は多くの貴族たちが招かれ、祭日のように人々でごった返していた。
怪しげな人達の目撃情報は、とある貴族に関わりが或る所で、途切れてしまったのだ。
証拠もなく平民たちの目撃情報だけでは、手の出しようがなく、それ以上の捜索は出来なかったそうだ。
貴族家から睨まれたら、造船で成り立っているアルスナル湊で居住出来なくなるからだ。
ましてやエリシアの父の生業は、船大工職人で役職なしの1文官である。 そして上役は貴族家の子弟になるのだ。
どうにもならない事が世の中には侭或ると、二番目の姉は切なげに話し、唇を噛んだ。
そして母は戻らぬまま歳月が過ぎ、ライラックの花祭で町一番の美女に選ばれた長女は、アルスナル湊を管理している男爵の強い勧めで、準男爵の再婚相手に選ばれた。
二番目の姉は、13歳から参加出来るライラックの花祭のクイーン大会には参加せず、父の選んだ幾人かの候補から、年頃の近い材木商の後継を結婚相手に選んだのだ。
『母さんは美人だったから碌でも無い人から目を付けて攫われた侭。 姉さんも下手に綺麗な容姿で生まれたばかりに、断れないお貴族様の勧めで、年の離れた相手から再婚を望まれて嫁いじゃったし。 エリーも綺麗だから、そろそろ気をつけていないと直ぐに婚姻年齢に成るわ。 それに此の辺りは軍属関係で酒癖の悪い荒くれ者が多いから心配よ。父さんは船に乗り、留守にすることもあるから余計にね。』
二番目の姉は、優しい表情でエリシアにそう言って、エリシアの頭を柔らかく撫でた。
暫くして二番目の姉は、アルスナル区のチャペル(礼拝堂)で婚姻し、材木商へと嫁いでいった。其の後の親族達が揃った祝宴での話し合いで、エリシアは長女の夫の伝手を頼り、王城へと勤めることに成った。
エリシアが暮らして居る狭い3階建ての家屋に、第二子で長男の婚姻が決まり、嫁が嫁いで来るからでも或る。
こうしてエリシアは、パルス東南部に或る12年間住み慣れたアルスナルの町を出て、乗合馬車に乗り、王都パルスの中心地に或る巨大な王城へと向かったのだ。
◇
紹介者である義兄に連れられエリシアは、王城の裏手門から入り、下級女官長と面談した。〔下級女官長とはメイドなどの下働きを管理している役職で或る。王城内で勤務する平民女性のトップ(最上位の役職)である。〕 下級女官長と面談後、見目が良いため、内廷にあたる王居へと、エリシアは掃除メイドとして回された。
エリシアは、見回しても視界に収まり切らない王城内の巨大で豪奢な作りに圧倒され続けていた。
下級女官長から紹介された内廷メイド長の後ろから付いて歩いているエリシアの進む通路は、王侯貴族たちが歩く明々とした大理石輝く廊下とは違い、カートなどを運べる建築デザインで薄暗い使用人専用の廊下であったが、それでも時折り見える眩い世界に、ただただ呆然として呆気に取られていた。
(本当にお貴族様とアタシたちは住む世界が違うのね。)
エリシアは我が家との違いに戸惑いと諦めの溜息を洩らし、自分の想いに浸った。
我が家は、フルーブ1世が命じて作ったアルスナル造船所に勤める船大工職人たちの住居。それは漆喰と木材と石材で出来た3階建ての連棟住宅だった。
奥に長い一階の作業場は、現在玄関扉を開けて直ぐに、来客用の客間と家族の食堂になっている。裏口からは共同の水汲み場と共同の調理場へと行くのだ。 飲用できる水場は大切なのでグルリと連棟住宅で囲んでいる。 共同の調理場は、竈門税節約のためと火災防止のためだ。
二階には父と母の部屋。そして3姉妹で過ごしていた部屋は、長男と義姉の部屋となるだろう。此れで次男の兄は、兄弟との共用部屋から卒業し、1人部屋に成れるのだ。当然廊下などは無く縦長の部屋を通路として使っている。
そして極小の3階に或る真鍮製のゲージは、飼っている鶏の睡眠用小屋になる。 昔は職人見習いの部屋だったそうだ。
現在職人見習は、造船所にある独身寮で暮らして居る。
近所の家々の家主たちは、空いた3階を賃貸にして、間借り人に貸し出しているのだ。
父は、母の事があってから家の中に、他人を入れることを好まなくなった。 そこまで裕福でない我が家に区長の親切心で、間借り人を紹介して呉れようとしたが、父は断ってしまったくらいだ。
垣間見える眩い世界で呆気に取られてばかりいたアタシは、前を歩くメイド長の説明を殆ど聞いて居なかった。
(アタシは次元の違う、あの眩しい世界へ入れるだろうか。)
アタシが王城で勤めることを決めたのは、父が組んでいる班と違う船大工職人が捕縛されたと聞いたから。 彼は、アタシたちの住む連棟住宅と同じ棟に住む、父と年の近い近所の小父さんだった。
父の話だと彼は、発注のミスなどしていないそうだ。 其のミスを切っ掛けに監査が調べると、取引紹介からの収賄の証拠である彼のサインが在ったとのこと。
『上役の子爵令息は、城から監査が来るのを知って、老いた母親しか居ないアイツを身代わりにしたのだろう。クソっ。平民の俺たちからは何も出来やしない。』
世の中は理不尽だ。
苦しそうに顔を歪める父と長兄の表情を見て、アタシはそう思った。
貴族の上役から直接「サインしておけ!」と命じられたら、数多く或る発注書類には、当たり前だが仕事だからサインをしなければならないのだ。
船体製図に書き込む数値は、注意深く確認をするが、数多くある材料の発注書類に、そこまで気を配る職人は稀だ。
腐る物では無いので、多く発注すれば倉庫に仕舞って置けば良いし、少なければ取引業者にまた発注すれば良いのだから。 軍属内で起きた事なので、公開されない海軍内での裁判に成るだろう。
どの道、貴族の子弟は守られるのだ。
母が攫われた近くに居た馬車には、とある貴族家の紋章が付いていたそうだ。
父は、衛士に頼んで訊ねて貰ったが「知らない。」と、屋敷の門兵にケンもホロロに返されたそうだ。
アタシは怖くなった。
父や長兄たちが、お貴族様たちと関わりなく暮らせるなら良いが生憎と帆船作りは、国王陛下から許可の得れたお貴族様たちが注文し船体のオーナーになる。
いつ父や長兄たちが、近所の小父さんみたいな被害者になるのか、分からないのだ。
そういうことに対抗しようとしたら如何すれば良いのか。
アタシは輿入れ前に忙しくしていた二番目の姉さんへと訊ねた。
『そうね。アルスナル地区に赴任して来るのは、下位貴族の子弟が殆どだから、高位貴族の縁者と仲良く成れたら良いのだけどね。平民同士よりお貴族様たちは、ヒエラルキーがハッキリ分れているから上位の人に言われちゃうと忖度してしまうらしいわよ。姉さんからの話だと。』
アタシは其の話を二番目の姉さんから聞いて、近所に住む幼馴染たちへと相談した。
するとセントラル地区で舞台女優をしている親戚を持つ幼友達が教えて呉れたのだ。
アタシたちは、普通に暮らして居ても、身分の高いお貴族様と出会うチャンスは無い。 でも王城で勤めていると、運が良ければお貴族様と出会えて、奇跡的に見初められるかも知れない。 婚姻は無理でも愛人に成れることも或る。 お芝居では、平民の少女と王子様が結婚する物語が在ったそうだ。
アタシはコレだ!
そう思ったのだ。
その時の幼馴染は、余りにもアタシが必死でお貴族様と知り合う方法を質問していたため、落ち着かそうと思って親戚の女優から聞いた四方山話を話しただけだとは知らなかったけれど。
後にロベール・アーシュレイ小侯爵から囲われるようになり、幼友達を自宅へと招待しお礼を告げたら、「あの胡散臭い世間話を本気にしたとは思わなかった。」と呆れられた。 「でも大物を捕まえたエリーにおめでとう?カナ?」幼友達は、そう祝って呉れた。
閑話休題。
それから二番目の姉さんや一番上の姉さんに王城で働きたいと頼み込み、アタシは勤めることが出来たのだ。
容姿には、皆に褒められていたから、それなりに自信があった。
水場や川面に映ったアタシの容姿は、平民には珍しい明るい薄紅色の緩いウェーブの或る髪。緑がかった青い瞳に丸く大きな目。
通った鼻筋やふっくらとした小さなチェリー色の下唇。
昨年くらいから、かなり膨らんできた乳房は、13歳に成る来年には、もう少し大きく女性らしい曲線を描くだろうことを予感させられる。
読み書きは、兄たちがチャペル(礼拝堂)に居る修道士から学んでいたことを習っていたので、アタシも多少は出来る。そのお陰でアタシは騎士や紳士と出会いの無い洗濯係に成らずに済んだ。
文字の読めるメイドは、王城で重宝されるらしいのだ。
内廷メイド長に案内された地下に或る女性使用人居住区の一部屋で、同室の先輩メイドからの説明をアタシは聞いていた。
アタシが住むのは、J号室で8人部屋に成る。 出入り口のドアから、左右に4つ4つの木製のシングルベットが並べられている。 天井から薄いリネンのカーテンが垂らされ片側にタッセルもどきで縛られていた。 寝る時にタッセルを外して個人スペースを確保するらしい。 洗顔などは、共有スペースで行うと、先輩メイドのナタリーさんが教えてくれた。
先輩メイドのナタリーさんは、アタシより二つ年上の14歳。 メイド長からアタシの教育係を任されたと云う話。 焦げ茶色の髪をお下げにして、明るめな生成り色のメイドキャップを被っていた。
見習いメイドは、現在内廷でアタシを含め20人。
下級メイドの掃除係は、濃緑のメイド服に生成りのエプロン。 中級メイドの給仕係は、紺色のメイド服に白いエプロン。 上級メイドは、内廷の案内係や王居で部屋付きになれ、黒のメイド服に上質な白いリネンのエプロンが与えられる。 でもまあ上級メイドは、官僚の娘や裕福な商人の娘たちの限られた少女たちの部署なのだとか。
ナタリーさんから、「真面目に働いて居たら掃除係から、王侯貴族たちと顔を会わせる頻度の高い給仕係へとランクアップ出来る。」と云う話を聞いて、アタシは、俄然やる気が湧いて来た。
現在J号室は、アタシが入って、5人に成ったそうだ。
「下級メイドの皆は、王城内で勤める衛士たちと仕事を憶える前に、勤めて直ぐ結婚してしまうのよね。エリシアさんも綺麗だから、婚姻年齢の13歳になったら直ぐに結婚退職しちゃうかなあ。」
ボヤくように話した先輩メイドのナタリーに、アタシは鼻息荒く返答した。
「アタシは中級メイドを目指しているので、結婚とかは考えて居ません。 ナタリー先輩これからもよろしくお願いします。」
「ええ、こちらこそ。さて、そろそろ夕食の時間だから食堂へ行きましょう。」
ナタリーさんは楽し気な笑い声を漏らして、アタシを1階にある使用人用の食堂へと連れて行きながら、
城内の決まり事の説明をしてくれた。
下級メイドたちが、直ぐに婚姻相手を決め、婚姻退職してしまう気持ちは、アタシだって良く分かる。
城内で勤めている守衛兵士は、平民で或るがアタシたちと同様に保証人が付き、信用の出来る人物として身元保証されている。
そんな良縁を逃す者がいるだろうか?未婚の男女共に。
衛士たちの詰所では、新人メイドリストなるものが出回っているらしいので、勤務を始めて一週間も経てばアタシに求婚してくる衛士が出て来るだろうと、ニコやかな笑顔でナタリーさんは話す。
(それは不要だわ。 アタシが欲しいのは、お貴族様との縁だもの。)
アタシは、先輩メイドのナタリーさんの前で、口に出せない言葉を飲み込んだ。
とあるお貴族様に母さんが攫われてから10年が過ぎ、今更どうにもならない母さんの行方を捜そうと、アタシは思っていない。
ただアタシは、お貴族様と縁の或る職場で勤める父さんと二人の兄さんたちに、もしかしたら近所の小父さんみたいな火の粉を被らされるかも知れないと恐れているのだ。
そうなってしまったらアタシたち平民には成す術がない。
アタシが王城で下級メイドになったのは、近所や親戚の皆から綺麗だと言われるこの容姿を利用し、その術を得る為なのだから。
家族には、王城で素敵な結婚相手を捕まえて来ると、説得したのだけれど、、、アタシにとっては同じ力のない平民との結婚なんて有り得ない話となる。
◇
先輩メイドのナタリーにテキパキと指導されつつ、2ヶ月が過ぎた頃、アタシはメイド見習いを卒業し、頭部の見習い用スカーフを外して、フリルが付いた生成りのメイドキャップをメイド長から頂き、メイドとして被ることを許された。
清掃する持ち場は、同室の者たちでチーム(班)を組み任されている。
内廷(王居)は、表廷(王宮)や外廷(政務宮)より小規模で或る。
其のため、下級メイドでも極稀に王族や高位貴族たちの目に触れることが或る。 だからそこそこに見栄えの良い者を雇って居るらしい。
勤め始めて最初に教わるのは、お貴族様と出会った時の姿勢だったりする。
貴族らしい人影が目に入ったら、作業の手を止め姿勢を正し頭を下げた侭、彼らが通り過ぎるまで、只ひたすら大人しく待つ。 早めに気付いてサッと使用人用の隠し通路へと逃げ込めた時は、その日一日がラッキーだと思えたりする。
中庭と呼ぶには、余りにも広い噴水庭園に隣接した長い回廊の一辺が、アタシたちF班5人の持ち場に加わっているため、早朝から朝の9時まではやたらと忙しい。
通常、内廷が本格的に始動し始めるのは、貴族の子弟や商人たちが来訪する朝の10時過ぎ辺り。
内廷から中庭へと続く、大理石で作られた古代神殿風の列柱が並ぶ回廊は、風の悪戯で落ち葉や人々の靴底に付いた土埃で、早朝の床が汚れてしまっている。 それを毎朝箒で掃き、モップで拭き清めて居る。
中庭で催し物が或る日は、更に絨毯敷と取り外しの作業が加わり、地獄の労働量となる。
そんな時に限って、お貴族様は時折り現れるので、手を止める回数が増えるのだ。 流石に開始時間が決まっているので、この日ばかりは二つの班も加わってくれるけれども。 人影が見える度、ついつい舌打ちしてしまうアタシは悪くないと思う。
半年が過ぎる頃には、内廷での生活にも慣れ、食堂で声を掛けてくる衛士の方々を、笑顔でスルー出来るようにもなった。
F班のリーダーでもあるナタリーさんは、アタシの年を告げて、有難いことに断るフォローをしてくれる。
半年の間に1つ年を取り15歳に成ったナタリーさんは、「未だ結婚は無理。」と、アタシの「ナタリー先輩の御結婚は?」の問いに苦笑交じりで答えた。
ナタリーさんの実家は、南部地方にある毛織物の染色職人で、南のジュール公爵家所縁の方の紹介で、11歳で王城に来たそうだ。12人キョウダイの末っ子の彼女は、嫁入り支度や相手探しを自分でしないと、駄目なのだとか。
王城で給金を貰えるのは、官職に就いている人のみ。(女性だと副メイド長・メイド長・女官以上。)アタシたちメイドは、衣食住の提供と顕現祭の長期休暇前に国王さまから年数に応じた手当が支給される。
中級メイドに成ると給仕の際にチップが貰えることが或る。、、、、らしい。
「それにしても12人キョウダイって、凄い子沢山だね。」
って、アタシは思わず口にした。
「そうかなあ。南部の方では10人以上が普通だけど。 我が家もそうだけど後妻を娶る家が多いせいかなあ。 でもエリシアの家だって5人キョウダイだよね。 お父さんが再婚していたらウチくらいになりそうだけど?」
先輩メイドのナタリーさんは、事もなげにそう言った。
其の言葉へ答えるように「あははっ。」と、アタシは曖昧に笑ってみせた。
母さんが亡くなっていたのなら、誰かの勧めで父さんは再婚したかも知れないけれど、生きているのか死んでいるのか分からないものね。 もしも母さんが帰ってこれたら、、、父さんは、そう願って居るような気がする。 父さん方の祖父母は、もう亡くなっているけれど母さんの方のお祖母さんの話では、両親は幼馴染で、小さなころから仲が良かったそうだ。
「それに私の実家は、エリシアたちと違って、王都から遠い南部だから中々難しいと思うのよね。」
ポツリとナタリーさんは、呟いた。
どうやら衛士たちは、王都パルスか王都近郊出身者が殆どらしい。
そのため婚姻相手には、パルスか王都近郊出身者を選ぶ傾向にあるそうだ。 女性側の婚姻許可を得るには、親権者の許しが必要な為、わざわざ遠方の実家まで出掛ける旅費と時間が勿体ないと、男性側に思われているためだ。
先輩メイドのナタリーさんが云うには、10年くらい前から遠方出身者のメイドの婚姻許可は、身元保証人でも出せるようになったそうだ。 王城勤務の身元保証人に成る人は、大抵が王都在住の人なのだが、衛士たちに中々そのことが広まらないそうだ。
考えて見れば、アタシを含めた多くのメイドたちは、王都パルス出身者だからライバルを減らすために、身元保証人の話を敢えて広まらないようにしているのかもと邪推してみる。
頼りに成る先輩のナタリーさんと、此の頃に同室だったF班の皆とは、アタシが内廷勤めを辞めた後でも、付き合いが続くのだった。
◇
日々細々とした出来事に追われながらアタシは、偶に此方をジッと見ているニコラス王太子殿下をお見かけするようになった。
それから暫くして、アタシは中庭の噴水庭園に高貴な方、アーシュレイ小侯爵様の従者だと云う方に、食堂で呼び出された。
アタシは従者の方の後ろから、恐々と薔薇の咲き誇る散歩道を歩き、案内される儘についていった。
白金に輝く髪を目にしたアタシは、いつもの癖で緊張を走らせ歩みを止め、姿勢を正して頭を下げた。
ロベール・アーシュレイ小侯爵様は、ニコラス王太子殿下の側近で仲の良い友人だと、有名な方だ。
それだけではなく婚姻されて間がないと云うのに、様々な御婦人との風聞が堪えない二人でも有名だった。
ニコラス王太子殿下は、黄色味がかった艶やかなブロンドに、青みがかった薄紅色の瞳をした華やかな美丈夫で、まるで太陽のようだと噂されていた。
そしてロベール・アーシュレイ小侯爵はしっとりとした白金の髪に、クールな淡い空色の瞳をした知的な美青年で、月の精霊のようだと持て囃されていた。
宮廷で二人が並ぶ姿は、男女問わずに目を奪われると言われている。
其の著名な片割れであるロベール・アーシュレイ小侯爵が間近に居るのだ。
アタシは緊張で身を縮め、頭を伏せた侭で、固く目を瞑っていた。
初夏の風が薔薇の香りを運ぶ中庭で、アタシは軽い眩暈を感じていた。
「本当だ!ニコラス殿下の仰っていた通り、綺麗な髪色だね。キミ、頭を上げて呉れるかな?」
柔らかな低音ボイスで、ロベール・アーシュレイ小侯爵は、アタシに囁くように話し掛けた。
◇
「一目惚れだ。エリシア、如何か私と付き合って欲しい。」
ロベール・アーシュレイ小侯爵からの突然の告白で気が動転したエリシアは、呼吸困難に為り意識を失った。
人の多い昼間の食堂でのロベール・アーシュレイ小侯爵からの呼び出しは、食事中の使用人達の耳目を集め、一気に噂が広がった。
『あのアーシュレイ小侯爵が食堂でメイドを呼び出した。』
『今度のお相手は、下級メイドの掃除係らしい。』
『まだ13歳になったばかりの美少女ですって。』
『でもメイドというのは平民でしょう?どうなさったのかしら、ロベール様は?』
『もうロベール様とミラベル夫人との仲は、お終いかしら?』
様々な噂が飛び交う中、エミリアは内廷での仕事が難しくなり、ロベール・アーシュレイ小侯爵と3度目に呼び出されたおり、彼の提案を受け入れて仕事を辞め、囲われモノに成った。
ロベール・アーシュレイ小侯爵は、既婚者であるのに初めてエミリアを呼び出した時から、堂々と愛の告白をし、二度目に会った時には熱烈な口説き文句とプレゼントを携えていた。
それを噴水庭園で遠巻きに見ている人々を気にすることなく。
姦しい王城内で噂にならない方が可笑しいだろう。
日頃なら、既婚の貴族に口説かれ、逆らえない平民のメイドに、憐れみを向ける貴婦人や同僚のメイドたちが現れるのだが、エリシアを口説いた相手が悪かった。
既婚者であっても月と謳われる人気のロベール・アーシュレイ小侯爵だ。
エリシアに向けられるのは、羨望の眼差しと嫉妬心だった。
J号室の同じ下級メイドたちは、噂の渦中に成ったエリシアに同情的だったが、上級メイドたちや貴族令嬢・貴婦人たちの嫌がらせが始まり、メイド長からも暗に退職を示唆され、エリシアの覚悟も決まり、ロベール・アーシュレイ小侯爵の申し出を受け入れたのだ。
メイドを辞め暫くは、アーシュレイ小侯爵の用意した貴族屋敷で、エリシアは落ち着かない想いで過ごした。
エリシアが希望する屋敷が準備で来てからと、ロベール・アーシュレイ小侯爵とエリシアは、まだ閨を共に過ごして居なかったのだ。
内廷のJ号室でのお別れ会の日に、ナタリーさんを始めとした先輩メイドたちから、閨の作法を色々と教えられて、それを思い出すだけでエリシアの脳は沸騰しそうに熱く成るのだ。
いつロベール・アーシュレイ小侯爵と初夜を過ごすのかと思うだけで、エリシアの動悸が激しくなり、落ち着かなくなる。
それに屋敷で何かしようと思っても、アーシュレイ小侯爵が用意している使用人達が、エリシアの手出しを断るため、何もすることが無く時を過ぎるのを慣れない豪奢な屋敷で待つしかなかった。
(これはこれで囚われのお姫様みたいで遣り切れないわね。)
忙しく働いていた時を懐かしみつつ、エリシアはロベール・アーシュレイ小侯爵との取引内容を思い出していた。
エリシア自身をロベール・アーシュレイ小侯爵に委ねる代わりに、何か起きた時にはエリシアの家族を守って欲しい事を伝えた。
例としてアルスナル湊の造船所で起きた事件のことを話した。
エリシアは、近所の小父さんみたいな理不尽な目に、父や2人の兄たちが巻き込まれたら、アーシュレイ小侯爵に庇って欲しいと頼んだ。
そして此の貴族屋敷に連れて来られた時に、エリシアの家族や友人たちが気楽に訪問できる平民地区への転居をアーシュレイ小侯爵に願い出たのだ。
ロベール・アーシュレイ小侯爵の仕事が終わって来訪する迄、知り合いが誰も居ないこの地区の屋敷で、ただ独り待つだけの日々は寂し過ぎると、エリシアは訴えたのだ。
それが了承された1ケ月後、エリシアは貴族屋敷から平民地区でも富裕層向けのセントラル西区にある邸宅へと、引っ越した。
貴族屋敷よりかなり全体的にコンパクトだが、青銅のフェンスに囲まれた、前庭がある二階建ての大きな一軒家だった。
エリシアの実家で或る連棟建ての家屋4戸並の大きさだ。
そこは通りに面した所に剪定された美しい夏の前庭があり、ライムグリーンに彩られたファサードが設えられていた。 そしてクリームイエローの漆喰の壁に、傾斜の或る青銅色の三角屋根で、大きな窓がある邸宅。
ロベール・アーシュレイ小侯爵にエスコートされながら、鮮やかな晩夏の日差しを浴びつつエリシアは邸宅内に入ると、落ち着いた家具や調度品が設えられていて、穏やかな空気に満ちていた。
そしてエリシアはロベール・アーシュレイ小侯爵から邸内を案内され、使用人たちの紹介を受けた。
貴族屋敷からセントラル西地区へと引っ越したその夜──────
二階の寝室で、ロベール・アーシュレイ小侯爵とエリシアは、初夜を迎えて、漸く結ばれた。
それはロベール・アーシュレイ小侯爵は26歳。
エリシア13歳の晩夏の夜だった。
◇
ロベール・アーシュレイ小侯爵は、エリシアにとって必要な人であった。
正か侯爵家の令息と縁を持てる等、エリシア自身が信じられないことだった。
エリシアは、ロベール・アーシュレイ小侯爵から熱烈な告白を受けた後にすら、断れない平民の下級メイド相手の一夜限りの遊びだろうと思っていた位だ。
それがエリシアの望みを受け入れ、ロベール・アーシュレイ小侯爵は屋敷を購入して呉れてたのだ。
加えて邸宅に引っ越す前に実家が或るアルスナル地区へ行き、エリシアの父に支度金を支払いロベール・アーシュレイ小侯爵は、直に挨拶をしたとエリシアに話した。
「私としては、成人したシアに、父君から婚姻相手を下手に用意されたくなかっただけだよ。シアを誰にも取られたくないからね。」
慌ててお礼を告げるエリシアを抱き締めて、ロベールは優しく囁いた。
(ロベール様は、本当にアタシを好きになってくれていたのね。 アタシに一目惚れしたなんて信じられなかったけれど。 父さんたちには心配をかけたみたいだけど、此れも皆のためだから。)
休日の前夜、週に一度エリシアの元へ訪れてるロベールは、いつも優しく愛を囁いた。
そしてエリシアの淡い薄紅色の長くなった髪を愛おし気に撫でる。
そんなロベールに初めは、感謝の念で接していただけのエリシアだったが、徐々に情から愛へと想いが変わった頃、エリシアは懐妊した。
男と女が身体を合わせて居れば当然のことだった。
しかしエリシアは不安だった。
ロベールとの関係は、本来、国教であるユリウス教の教義に反するモノなのだ。
エリシアのお腹にいる子は、ユリウス教が認めて居ない婚外子となってしまう。
フローラル王国での婚外子の立場は恐ろしく低い。
平民は7歳で教区のチャペル(礼拝堂)で洗礼を受け、教区台帳に名を記されるが、その時に婚外子の印がつけられる。
仕事に就けようと見習いへと出そうとしても、婚外子の場合は限定された職種にしか就けないし、先ず身元保証人になってくれる人が居ない。
結局は、流れの行商人か、孤児院に預けられた子たちと同じように、出家して神殿の修道士を目指すしかないのだ。 結婚など望むべくもない。
ロベールから愛されている間は、エリシアと子供も飢えることはないが、捨てられて屋敷を追い出されたら、どうしようもなくなる。
そんな不安にエリシアが押し潰されそうになっている時、ロベールから話が在った。
「やっとシアに特別婚姻の許可が下りた。 相手はエンバス男爵だ。 此れで私たちの子供は、婚外子というダメージを受けずに済むぞ。」
ロベールの話す特別婚姻とは、教区の広場やチャペルなどで三ヶ月間の公布せずに、婚姻誓約書へサインのみを行うモノである。
親権者のエリシアの父がエンバス男爵宅へと行き、アーシュレイ侯爵家の用意した司祭により、エリシアがサインして置いた2枚の羊皮紙を持ち寄り、特別婚姻の誓約を完了させた。
事前の契約書には、妻としてエンバス男爵家の権利放棄と、エリシアの出産した子への財産放棄のサインを行っている。
約19年前に婚姻制度の爵位差が緩和されていた為、エリシアとエンバス男爵との特別婚姻が王国法で許可されたのである。
19年前までは、平民と貴族の婚姻は禁止されていた。
しかし婚活学院(王立ロイス貴族学院)が創設された際に、それまで1爵位差内での婚姻が、王国法で定められていたのが、2爵位以内と緩和された。
その為、フローラル王国では、国王の許しがあれば、男爵と平民の婚姻が可能となったのだ。 この時、アーシュレイ侯爵から国王(フルーブ3世)と教会に多額の寄付があったことは機密事項である。
(※フルーブ3世がアーシュレイ侯爵に弱味を持たれている事情は、自著の本編〔メガネを掛けた悪役令嬢〕にて参照。)
こうして不安も解消され、月満ちてエリシアは、ピンクブロンドの髪を持った愛らしい女児を出産した。
出産後に訪れたロベールは、乳児を見て大きな驚喜を露わにして〔アリシア〕と名付けた。
アリシアが生れてからロベールは、仕事と所用の無い時以外、エリシアの邸宅で過ごすようになった。
乳母を雇い、子煩悩な親バカぶりを発揮するロベールを微笑ましく思い、エリシアは愛おし気に眺める幸せな日々だった。
高位貴族の人々は、子育てをしないと先輩メイドのナタリーからエリシアは聞いていたが、ロベールの〔アリシア〕に対する子煩悩ぶりは、見ているエリシアが焼き餅を焼く程だった。
何処までも甘く優しい声で「アリシア」と名を呼び、ロベールはアリシアのピンクブロンドの頭を撫でながら愛を囁く。
そしてエリシアが注意しても度々、ロベールは二人のベットに〔アリシア〕を寝かせる程の溺愛だった。
「リシ、貴女は、とても運の良い娘よ。ロベール様をパパと呼ばせて上げられないのだけは残念だけど。」
ロベールはアリシアを優しく抱き上げて「アリシアには私の事をロベールと呼ばせるように。」とエリシアに伝えたのだ。
ロベールに関して唯一の不満は其れだけだった。
だが対外的にアリシアは、エンバス男爵令嬢となるので、仕方がないと諦めもついた。
軈て月日が過ぎ、老齢で床に伏していたエンバス男爵が亡くなり、嫡男がアーシュレイ侯爵の後押しで、エンバス男爵家を継承した。
色々な事も在ったが、概ねエリシアには、幸せな年月だった。
その間、フルーブ3世が逝去されロベールの友人であるニコラス王太子殿下の戴冠式などもあり、ロベールは多忙な様子だった。
ニコラス王太子殿下が国王陛下・フルーブ4世に成り、二年後に母を攫ったという伯爵令息は、貴族院での審議で蟄居が決まり、エリシアたちに母の死を知らされた。(その話は後日談にでも。)
悲しい想いはあったが、それよりもロベールがエリシアの話を憶えて居て、色々と手を回して居てくれたことの歓びと感謝の気持ちの方が大きかった。
それからアリシアは愛らしい天使のように育ち、7歳のソラリス祭での儀式で、祝福を授かった。
貴族たちが暮らす東区のエストール聖堂での祝福の儀だった。
得た祝福は、光属性で魔力レベルは3だった。
それを知った時のロベールは、アリシアを抱き締めて感涙し、咽び泣いた。
「ありがとう、エリシア。 私に最高の幸せを与えて呉れて。 エリシアは私に幸せな時間を取り戻させてくれた。 お礼に君の望みは何でも叶えたい。」
そう言ってロベールは、エリシアを見詰めながら淡い空色の瞳を潤ませていた。
(もう十分ロベール様はアタシに与え続けて下さっているわ。
アタシにはアリシアを授けて呉れて、アリシアを男爵令嬢として産ませて貰えた。
父さんには、準男爵の爵位を授けられるように動いてもくれていたし、区切りが付かなかった母さんの事を解決してくれた。
職人の娘としては、此れ以上も無い生活だって用意して呉れた。
此れ以上何かを望んだら、アタシに神様からのバチが下るわ、きっとね。
でもそうね。
もし許されるなら、いつの日にかアリシアにロベール様が、実の父親であることを教えてくれると嬉しいわ。)
◇
神学校へ向かうアリシアの乗る馬車を見送り佇んでいる所に、秋を知らせる風がサワサワと淡い薄紅色のエリシアの髪を揺らしていた。
◇◇
【了】




