↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

球形精度

作者: 四〇四不在
掲載日:2026/09/04

直人は毎朝、自分の靴を見るたびに、少しだけ惨めな気分になった。

革靴は、旧式身体用品を扱う店で買ったものだった。

足の形に合わせて作られ、左右が分かれ、底には滑り止めがついている。

歩くたびに摩耗し、汗を吸い、定期的に交換しなければならない。

靴を履くという行為自体が、ひどく古くさかった。

直人は玄関の壁に手をつき、片脚ずつ持ち上げて靴を履いた。

五本の指で靴紐を結ぶ。

廊下の鏡には、腰を屈めた自分の姿が映っていた。

頭。

胴。

二本の腕。

二本の脚。

輪郭には、不要な突起が多すぎる。

「おはよう、お父さん」

背後から凪の声がした。

部屋の中央に、白い養育殻が浮いていた。

半透明の膜に包まれた凪の身体は、朝の光を受けて、淡い乳白色に輝いている。

直径六十二センチ。

皮膚には皺も毛穴もなく、継ぎ目もない。

わずかに縦長だった直人たち第四世代の後成球とは違い、どの角度から見ても歪みのない真球だった。

表面に少女の顔が浮かんでいた。

大きな目が直人を追い、口元が笑う。

凪が人間型として生まれていれば、こういう顔になっただろうと生成されたものだった。

美緒の目と、直人の顎を受け継いでいる。

「おはよう、凪」

直人が養育殻に触れると、透明な表面に手の形が残った。

指紋は数秒で分解され、きれいに消えた。

「今日は帰るの遅い?」

「たぶん、いつもと同じくらい」

「推薦結果、今日だよ」

「分かってる。帰ったら三人で見よう」

凪の表面の顔が嬉しそうに笑った。

もちろん、実際に凪がどの程度笑っているのかは分からない。

養育人格が神経活動を解析し、両親に理解できる表情へ変換している。

声も同じだった。

凪の身体に口も声帯もない。

養育殻が発話意図を読み取り、七歳の少女にふさわしい声を合成している。

そういう技術を不自然だと思う者は、今ではほとんどいなかった。

人間型の顔も声も、意思を伝えるための古い道具にすぎない。

凪にはもっと正確なものがある。

「行ってくるよ」

「行ってらっしゃい」

直人は玄関まで歩いた。

扉が開く直前、養育殻の表面に映り込んだ自分の姿を見た。

凪の完全な曲面に、手足のついた身体が歪んで映っている。

水面に落ちた昆虫のようだった。

直人は目を逸らした。



身体認証ゲートは、直人が近づくと淡い光を走らせた。

網膜、骨格、臓器構成、外身体接続状況が読み取られる。

《第四世代》

《自律機能残存率 78.2%》

《外身体依存率 21.4%》

毎朝表示される数字だった。

誰かがそれを凝視するわけではない。

それでも直人は、後ろに並んでいる人間から、自分の肺や胃や指の数まで見られている気がした。

「まだ七十八も残っているのか」

隣のゲートを通過したハリスが言った。

彼には腕がなかった。

肩から下は滑らかな胴体へ整形され、下半身も一つの円錐形にまとめられている。

自力歩行はできないが、移動椅子が常に重心を調節している。

「数字だけ見れば、接地者と変わらないな」

「接地者は九十を超えてるよ」

「大差ないだろ」

ハリスは笑った。

悪意のある言い方ではなかった。

直人が自分の球形成を延期した事情は、部署の多くが知っている。

凪に出生時完全球体化処置を受けさせるためだった。

「娘さん、今日が推薦結果だっけ」

「ああ」

「第七教育圏まで行けるんじゃないか。第五世代なら審査側も安心だろう」

「まだ分からないよ」

「何を謙遜してる。お前は正しい投資をしたんだ」

ハリスの移動椅子が先に進んでいった。

正しい投資。

直人もそう思っていた。

凪は、自分たちのように自律機能残存率で値踏みされることはない。

就職のために身体を使えると証明する必要もない。

働くことを前提に、手足や肺、消化器官を維持する必要もない。

完全な身体とは、何でもできる身体ではない。

何もしなくてもよい身体だった。

直人の仕事は、都市管理AIが処理できない物理的な例外への対応だった。

古い集合住宅の手動弁を閉める。

接地者区域の住民から事情を聞く。

センサーの裏に詰まった異物を取り除く。

電子契約の成立しない状況で、責任者として署名する。

その日の午前は、旧市街の給水施設で、開閉装置の交換作業があった。

直人は工具を指で握り、固着した留め具を回した。

「便利だな」

ハリスが遠隔映像越しに言った。

「何が」

「手だよ」

「交換するか?」

「まさか。仕事でしか使わない器官を常設するなんて非効率だ」

直人は笑った。

自分も同じことを考えていた。

凪の処置を選ばなければ、今頃、直人は両脚を失っていたはずだった。

腕も一本ずつ段階的に縮小し、肺と消化器官の外部化を終え、後成球体として随伴殻の中に収まっていただろう。

美緒も同じだった。

二人で少しずつ身体を捨てていく計画を立てていた。

だが、凪ができた。



「標準第四世代型であれば、出生後の選択肢を残せます」

設計医は、胎児の投影像を回転させながら説明した。

まだ十二週だった凪には、小さな腕と脚があった。

指先まで形成されている。

頭部は身体に対して大きく、膝を胸へ引き寄せ、羊水の中で丸まっていた。

「口腔、肺、消化器官、外部感覚器を残します。成長後、ご本人の意思で段階的な球形成が可能です」

標準的な選択だった。

費用も、直人たちの収入なら無理なく支払える。

「出生時完全球体化の場合は?」

美緒が尋ねた。

設計医は投影像を切り替えた。

胎児の輪郭から手足が消えた。

顔が消え、頭部と胴体の境界がなくなった。

内臓が再配置され、身体全体が滑らかな球になる。

「第五世代型として設計します。四肢、口腔、肺、消化器官、自然生殖器官は形成しません。感覚入力、移動、栄養供給、排液、体温管理は、すべて外身体が担います」

「本人は、苦しくないんですか」

直人は聞いた。

「何がでしょう」

「呼吸できないことや、歩けないことが」

設計医は、穏やかに微笑んだ。

「呼吸や歩行を、身体内部で行う必要がありません。できないのではなく、より安全で効率的な方法へ外部化されるのです」

球体の胎児の下部に、小さなくぼみが表示された。

「こちらが臍門です。出生後は養育殻と接続され、栄養、酸素、薬剤の供給と老廃物の排出を行います」

「一生ですか」

「はい。外身体契約は財産信託と一体です。生命維持設備の更新、交換、管理は、生涯にわたって自動的に行われます」

設計医は説明資料を開いた。

教育課程。

居住区。

生涯医療。

信用格付け。

就労免除基準。

第五世代として生まれることは、美しいというだけではなかった。

守られる側の人間として、生まれた瞬間に登録されることだった。

費用の欄だけが、他の数字から浮いて見えた。

「ご両親の球形成計画を延期すれば、初期費用には届きます」

担当の資産設計AIが言った。

「お二人の後成球形成を二十年延期。外身体更新を標準等級へ変更。居住区を二区画下げ、労働契約を十二年延長する必要があります」

美緒が直人を見た。

直人は、自分の手を見た。

五本の指。

曲がる関節。

爪。

皮膚の皺。

この手をあと二十年使う。

それだけで、子どもは一度も自分の手を必要とせずに生きられる。

「お願いします」

直人が言った。

美緒も頷いた。

設計医は確認画面を表示した。

《出生時完全球体化処置に同意しますか》

二人は同時に承認した。



凪が生まれた日のことを、直人はよく覚えている。

人工子宮の支持液から持ち上げられた身体は、濡れていた。

完成予測図よりも皮膚が赤く、細い血管が透けて見えた。

表面には胎脂が付着し、下部の臍門から透明な管が伸びていた。

医師は凪の身体を回転台に置いた。

《重量 3182グラム》

《直径 31.2センチ》

《球形精度 99.994%》

「おめでとうございます。第五世代認定に問題ありません」

直人は涙が出た。

人間型の子どもの出生写真は、どこか不格好に見えた。

曲がった脚。

握りしめた拳。

皺だらけの顔。

凪にはそうした未完成さがなかった。

小さく、滑らかで、どこにも無駄がなかった。

養育殻へ収められると、凪の表面に初めて顔が浮かんだ。

目が開いた。

口が動いた。

天井の発声装置から、産声が聞こえた。

美緒が笑った。

「あなたに似てる」

直人には、美緒に似ているように見えた。



推薦結果は、夫婦が夕食を終えたあとに届いた。

凪の表面に金色の円環が表示される。

「通った」

声が少し震えていた。

「第七教育圏?」

「うん」

美緒が両手で口を覆った。

直人は笑った。

「すごいじゃないか」

「お父さんとお母さんのおかげだって、先生が」

「凪が頑張ったからだよ」

凪の顔が照れたように視線を逸らした。

直人は養育殻に触れた。

美緒も隣に手を置いた。

三人の家族写真が自動的に記録された。

完全な球体の子どもを中心に、手足を持った両親が並んでいる。

翌週、上位教育圏の保護者交流会が開かれた。

会場には床がなかった。

正確には、接地するための面が設計されていなかった。

空間全体に浮遊制御が働き、参加者は任意の高さと角度で静止している。

後成球体の親たちは、光沢のある随伴殻に収まっていた。

第五世代として生まれた成人もいた。

完全な真球。

顔の投影すら常時は使用せず、感情に応じて表面の色だけが変化する。

直人と美緒には、歩行者用の支持台が用意された。

「ご両親は、まだ自力呼吸を?」

話しかけてきた球体が尋ねた。

柔らかな女性の声だった。

「ええ」

美緒が答えた。

「消化器官も?」

「残しています」

「まあ」

球体の表面が、感心を示す淡い青へ変化した。

「お子様のために、ずいぶん長く残されているのですね」

侮辱ではなかった。

だからこそ直人は、胸の奥が熱くなった。

帰宅後、美緒は玄関で靴を脱ぎながら言った。

「あの子だけは、向こう側に行けるね」

直人は養育殻の中で眠る凪を見た。

表面の顔は消え、ただ滑らかな球体になっている。

「ああ」

凪だけは、手足を隠す必要もない。

自力呼吸を告白する必要もない。

自分の身体で働く必要もない。

二人が生涯かけても届かない場所へ、凪は生まれたときから属していた。



太陽活動の異常が報じられたのは、それから三日後だった。

大規模な太陽フレアに伴い、地球方向へ進む複数の高速CME(コロナ質量放出)が観測された。

先行する噴出の後方で、さらに二つのCMEが接近し、合流しつつあるという。

通常より速い到達が予測されていたが、都市管理AIは生活への重大な影響を否定した。

《CME到達予測 明日14:40―16:20》

《推定地磁気変動 都市設計許容範囲内》

《主要演算基盤は冗長化されています》

《外身体の生命維持系には独立稼働機構が実装されています》

《誘導電力網には地磁気擾乱保護機構が実装されています》

《市民生活への重大な影響は予測されていません》

専門家の解説では、先行したCMEによって太陽風の経路が乱され、後続する噴出が通常より減速せずに進んでいる可能性があるという。

ただし、地球到達時の磁場方向には不確定性が大きく、現在の予測値であれば既存の保護機構で対応できるとされた。

接地者区域では、水や保存食を買い集める人々がいた。

その映像には、少し嘲笑的な解説が添えられた。

『自律型身体の住民を中心に、旧式の備蓄行動が広がっています』

職場で、古い手動設備を点検した方がいいと言った者もいた。

ハリスは笑った。

「都市演算が全部落ちるとでも?」

「可能性の話だよ」

「太陽が消える可能性まで心配するのか?」

直人も、それ以上は言わなかった。

その夜、凪は第七教育圏で使う電脳身体の話をした。

「人型はつまらないから、光になりたい」

「光?」

「部屋全体に広がれるの。触ろうとしても触れない」

「今とあまり変わらないじゃない」

美緒が言うと、凪は笑った。

養育殻が、その笑い声を部屋に響かせた。



翌日、午後三時十七分。

凪の顔が消えた。

声が途切れた。

養育殻が落ちた。

床が鳴った。

照明が消えた。

「凪?」

返事はない。

直人は駆け寄った。

透明な膜の中で、凪が底へ沈んでいる。

家の管理AIを呼ぶ。

応答はない。

美緒が殻を叩く。

「開けて」

開かない。

直人は指を継ぎ目に入れた。

爪が割れた。

血が透明な表面についた。

二人で引いた。

殻が開いた。

空気が抜ける音がした。

中は生温かかった。

直人は凪に触れた。

柔らかい。

湿っている。

顔がない。

皮膚の下で何かが動いた。

「生きてる?」

美緒が言った。

分からない。

臍門から透明な液体が漏れていた。

直人は端末を叩いた。

一瞬だけ、文字が浮かんだ。

《地磁気変動率 予測上限を超過》

《誘導電力網保護――》

表示が消えた。

暗い画面に、自分の顔だけが映った。

外で衝突音が続いた。

窓の向こうで、随伴殻が道路へ落ちていた。

透明な殻の中で球体が動いている。

声は聞こえない。

道路を人が走っていた。

腕に水を抱えていた。

誰かが扉を蹴った。

誰かが叫んだ。

「火が出てる! 下へ!」

直人は凪を持ち上げた。

重かった。

どこを上にすればいいか分からない。

美緒が臍門を手で塞いだ。

二人は廊下へ出た。

エレベーターは止まっていた。

階段を下りた。

直人の膝が震えた。

肺が空気を吸った。

腕が痛んだ。

凪は何も言わなかった。

四階で、停止した随伴殻を接地者の男が工具で叩いていた。

三階で、女が老人を背負っていた。

二階で、水の容器を持った子どもが駆け上がってきた。

外へ出た。

空が赤かった。

遠くで煙が上がっていた。

車両はすべて止まり、人々は道路を歩いていた。

直人は水のことを考えた。

食料。

夜の寒さ。

凪の栄養液。

臍門。

呼吸。

何を入れればいい。

何を出せばいい。

眠っているのか。

苦しいのか。

まだ生きているのか。

「どうすればいいの」

美緒が言った。

直人は答えなかった。

腕の中で、凪の身体がかすかに収縮した。

直人は子どもを抱き直した。

どこが頭なのかも分からないまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。