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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

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22/50

代打の切り札は、二杯目の人生を走り出す

神戸港近くの純喫茶「霧笛」は、午後になると少しだけ時間の流れが遅くなる。


磨き込まれた木のカウンター。

アンティーク調のランプ。

壁に飾られた古い港の写真。

深煎りのコーヒーと、やや苦いカラメルの香り。

この店に入ると、外の世界で肩に積もったものが、少しずつ落ちていくようだった。


岡本玲奈は、そのカウンターの中でカップを磨いていた。


元警察官。

元戦隊ヒロイン。

かつては冷徹なる美貌のボスとして、仲間たちを率いていた女。

いまは純喫茶「霧笛」で修行中のウェイトレスである。


霧笛には、かつての仲間が時折お忍びでやってくる。

任務の話はしない。

肩書きも出さない。

ただコーヒーを飲み、霧笛プリンを食べ、少しだけ息を整えて帰っていく。


その日、扉のベルを鳴らして入ってきたのは、大西結月だった。


香川県観音寺市出身。

元女子競輪選手。

怪我による成績低迷の末、代謝制度によって競輪の世界から強制的に退いた女。


玲奈は彼女を見るなり、わずかに目を細めた。


結月には、競技者だった人間特有の空気がある。

静かに立っていても、脚に力が残っている。

無駄のない姿勢。

瞬時に距離を測るような目。

一度スピードの世界で生きた者だけが持つ、風を知っている身体だった。


「いらっしゃいませ」


玲奈が水を置くと、結月は少し照れたように笑った。


「玲奈さん、ほんまに喫茶店の人になってるんですね」


「現在は修行中です。ご注文は」


「ブレンドと、霧笛プリンお願いします」


「承知しました」


玲奈は伝票に書き込み、深煎りの豆を挽いた。

結月はカウンター席に座り、店内をゆっくり見渡す。


「ええ店ですね。落ち着きます」


「女主人の店づくりが良いから」


玲奈はそう答え、カップを温める。


結月は、常勤の戦隊ヒロインではなかった。

だが、玲奈がボスだった頃、彼女は何度も重要な局面で呼ばれた。


代打の切り札。


それが、大西結月の立ち位置だった。


市街地の自転車追跡。

狭い路地での機動。

車両では入れない場所への急行。

元競輪選手の脚力と判断力は、普通のメンバーでは届かない場所に届いた。


派手な主役ではない。

だが、必要な時に現れ、必要な結果を出す。

玲奈は、そういう人材を高く評価していた。


ブレンドを置くと、結月は一口飲んだ。


「苦い。でも、好きな味です」


「霧笛の味です」


しばらく静かな時間が流れた。

外の路地では、港へ向かう風が建物の隙間を抜けていく。

結月はカップを両手で包み、ぽつりと話し始めた。


「競輪、今でも未練あります」


玲奈は黙って聞いた。


「怪我せんかったら、とか。もう少し結果出せてたら、とか。代謝で切られんかったら、とか。考えても仕方ないこと、今でも考えます」


結月は小さく笑った。

その笑いは明るいが、底に少しだけ苦味があった。


「数字で切られる世界ですからね。強いか弱いか。残れるか残れへんか。はっきりしてる。私、まだ走りたかったんです」


玲奈は、結月の脚を見た。

鍛えられた脚。

けれど、競輪場からはもう降ろされた脚。


「競輪場で走れなくなった時、自分は終わったんかなって思いました」


結月はカップの湯気を見つめる。


「でも、戦隊ヒロインプロジェクトが、本気で戦える場所をくれました。常勤じゃないし、代打のスポット起用ですけど、それでも必要とされた。玲奈さんが呼んでくれた時、まだ自分の脚は役に立つんやって思えたんです」


玲奈は静かに答える。


「こちらこそ、何度も助けられました。あなたでなければ間に合わなかった場面がある」


結月は少しだけ照れた。


「元競輪選手に“間に合った”って言われるの、なんか嬉しいですね」


霧笛プリンが運ばれる。

固めのプリンに、深い色のカラメル。

結月はスプーンを入れ、一口食べる。


「これも苦いんですね」


「霧笛の名物です」


「でも、最後は甘い」


「ええ」


結月はプリンを味わいながら、自分の今の話をした。


セカンドステージは、思ったより順調だという。


戦隊ヒロインとしてのスポット起用。

イベントでの自転車安全教室。

子どもたちにブレーキの使い方や、交差点での確認を教える仕事。

そして最近は、スポーツジムで怪我防止のストレッチインストラクターも始めた。


「怪我で競輪を辞めた私が、怪我防止を教えてるんです。皮肉みたいですけど、意外と向いてるんですよ」


結月は少し笑う。


「競技してる人って、無理しますから。私もそうでした。痛いのに走る。張ってるのに追い込む。休んだら置いていかれる気がする。でも、壊れたら全部止まるんです」


玲奈は、その言葉を聞いて、自分の胸の奥が少しだけ動くのを感じた。


壊れたら、全部止まる。


玲奈もまた、ずっと走り続けてきた。

警察官として。

戦隊ヒロインとして。

誰かを守るために。

誰かを追うために。

自分が壊れていることに、気づかないふりをしながら。


結月は続ける。


「だから今は、若い選手とか、ジムに来る人に言うんです。強くなるためには、休むことも技術やって。伸ばすことも、守ることも、鍛えることの一部やって」


玲奈は静かに頷いた。


「良い仕事ね」


「そう言ってもらえると嬉しいです」


結月はプリンをもう一口食べた。


「未練はあります。でも、セカンドステージは順調です」


その言葉は、強がりではなかった。

痛みを抱えたまま、次の道を走り始めた者の言葉だった。


玲奈は、少しだけ遠くを見る。


自分も今、セカンドステージの入口に立っている。

警察官を辞めた。

戦隊ヒロインも降りた。

純喫茶で修行し、いつか南の島でカフェを開く。


けれど、その道はまだ輪郭がぼやけていた。

亮介を待つこと。

カフェを作ること。

過去を抱えたまま、人を迎えること。

それは結月のように「順調です」と胸を張れるほど、まだ確かなものではない。


結月は、そんな玲奈の沈黙に気づいたようだった。


「玲奈さんも、これからですよね」


玲奈は顔を上げる。


「そうね」


「大丈夫ですよ。玲奈さんは、どこに立ってもちゃんとやる人ですから」


玲奈は少しだけ目を細めた。


「あなたにそう言われると、説得力があります」


「私、代打ですから。途中から出る人間は、状況を読んで走るしかないんです」


結月は明るく言った。


「玲奈さんのセカンドステージも、たぶん途中出場みたいなもんです。最初から完璧に流れに乗らんでもええんちゃいますか。出番が来た時に、ちゃんと踏めばいいんです」


玲奈は少しだけ、口元を緩めた。


「競輪らしい表現ね」


「元ですけどね」


結月は霧笛プリンを食べ終え、満足そうに息を吐いた。


「また来ます。セカンドステージの途中経過、報告しに」


「お待ちしています」


「その時は、ストレッチも教えます。玲奈さん、姿勢は綺麗ですけど、肩こりそうなんで」


「検討します」


「それ、やらへん返事ですね」


女主人がカウンターの奥で笑った。


結月が店を出る。

扉のベルが鳴り、港町の午後の光が一瞬だけ差し込む。

その背中には、かつて競輪場を走っていた女の未練と、それでも次の道を走る覚悟があった。


玲奈は空になったカップを下げる。

苦いブレンドの香りが、まだ少し残っていた。


女主人が言う。


「あの子、ええ顔してたね」


玲奈は短く答えた。


「ええ。強い人です」


「玲奈ちゃんも、セカンドステージやね」


玲奈はしばらく黙った。


「まだ、スタートラインです」


女主人は笑う。


「ほな、ええやないの。始まったばっかりが、一番おもしろいんよ」


玲奈はカップを磨きながら、南の島の海を思い浮かべた。


まだ遠い。

まだ不確か。

それでも、いつかそこに自分の店を開く。

苦いコーヒーと、甘さを残すプリンを出す店。

誰かの二杯目の人生を、少しだけ支えられる店。


代打の切り札は、もう次の道を走り出している。

玲奈もまた、自分のセカンドステージへ向けて、静かにカウンターを拭き始めた。

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