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遠き灯  作者: 若葉
3/3

その三(完)


蝉鳴かず、蚊さえ飛ばずの、酷暑かな。



七月、八月。

非現実的な暑さが連日続いた。

三十五度を切れば、ありがたやと天に感謝したくなるような日々。

過酷な暑さは夜半過ぎても覚めることなく、湿気を多分に含んだ東南アジア的な暑い空気が日本列島を包み込んでいた。

誰もが疲れていた。

正気を保つのにも必死な体からは外を歩くだけで汗が果てしなく流れてはまた涌き出てきた。


地獄とはこんな場所なのかもしれない。

街灯が目に入った汗で滲んでプリズムのように見える。

彼は夜道をよろよろと歩きながら、朦朧とした意識でうわ言のように暑い暑いと繰り返すしか無かった。


猫の太郎は彼よりもなおしんどそうであった。

それはそうだろう。

いくら夏毛とはいえ全身に毛皮をまとっていてはたまらない。

彼を見て寂しげに微笑みながら近寄ってくる太郎の体はお婆さんの心労もあるのだろう、以前より一回り小さくなっていた。


大丈夫かい。頑張ろうね。太郎にご飯をあげながら、彼には他に言葉が見つからなかった。


帰ってエアコンをつけて、夕飯も食べずに死んだように眠る。

翌朝出勤するころにはもう猛暑である。

広場を通り、太郎のご飯とお水を草陰に置いて会社へ向かう。

一時間の通勤ですでに体力のかなりを持っていかれてしまう。

正直、しんどい。

けれども回り続ける歯車から降りる事さえできない。無力な彼に出来ることはただ淡々と粛々と日々を乗り切ること、そして待つことだけであった。


何を待っているのか?

上手く答えられない。

ただ淡々と粛々と待っている。それしかない。


お婆さんは未だ姿を見せない。まさか、いやそんなはずはない。脳裏をよぎる嫌な想像はどうしても日毎に大きく重く、果てしなくのし掛かってくる。その想像を必死で振り払いながら、来る日も来る日も広場の空白を虚しく見つめるしかなかった。


犯人が捕まったという話も聞かない。

彼や太郎や常連客のみんな、そして静かな住宅街に悲しみと不安と動揺とをもたらしたまま、やがて時の流れと共にひっそりと迷宮入りしてしまうのだろうか…?


彼にはやはり何も出来なかった。

ただじっと待つことだけしか出来なかった。



そんな八月も末のある夜。街の誰もがあの事件を過去の事として忘れかけていた頃の事だった。


彼も毎日のように通る街の一角でささやかな事件は起きた。


多勢に無勢で一人の少年が殴られていると警察に通報があったのだ。

警察が駆け付けると、囲んでいた同年代の少年らしき連中は蜘蛛の子を散らしたように逃げていってしまったという。

殴られていた中学生の少年は警察に無事に保護された。

そうか、良かったと思いきや、それから話は意外な展開となっていったのだった。


報道によると、警察に保護された少年は、事情やいきさつを聞かれる中でお婆さんを石で殴りお金を奪ったことを震えながら涙ながらに自供したという。

学校の同級生にカンパだのなんだので金持ってこいと言われて、最初はお小遣いを融通していたが、あっという間に底をついた。やがて家のお金に手をつけるようになり、もうどうしようもなかったと少年は力なく答えたという。

同級生は皆、ただの冗談だった、悪ふざけだったと言い、少年の忠誠心を試すための遊びだったと主張した。

学校としても特にいじめの問題は無かったと認識していると言う。



新聞で記事を読んだ彼は、ひどく悲しいやるせない気持ちになった。


弱いものたちが夕暮れ、更に弱いものを叩く。


そんな歌を思い出したりもした。


数日のうちに週刊誌は面白おかしく事件を記事にして、ネットでは加害者の少年の見るからに小心で臆病そうな痩せた顔写真や、暮らす粗末なアパートの様子まで晒されていた。


確かに少年は歴とした犯罪者である。人をましてや一人きりのか弱いお婆さんを石で殴り、なけなしの現金を無慈悲にも強奪するとは、どんな事情があったにせよ許される事ではない。

相応の重い罰を受けなくてはならない。


しかし、同時に悲しい憐れな人間である。


どこにでも悪いやつはいる。

悪いやつは概して徒党を組む。いや、誰しも人の心には悪があり、徒党を組むとよりその悪が発露しやすいと言った方が近いかもしれない。

そして、得てして自分より弱い立場の人間を時として意図的に孤立させ支配しようとする。

権力、この場合は学校や教育委員会は多数の加害者と独り凶行に及んだ被害者と天秤にかけて、被害者の少年を守るはずがない。

そんな事をすれば担任校長教育委員会の幹部まで首が飛ぶ。

所詮我が身が可愛いのは誰も同じである。

どこに失業し社会的に葬られ下手すりゃ裁判で有罪になってまで、いや私達は間違っていた。等と率先して詫びる人間がいるだろう?知っていても見てみぬ振りをしてきた、それで学校という社会が上手く回るのなら問題ないと思っていた、いや今も内心そう思っている。何も出来なかった、いや敢えて何もしなかった。とハッキリ言う人間がいると言うのか?


学校と言っても立派な小さな社会である。多数決民主主義かつ人気者がイケメンが、つまり学校の人気者になって天狗になったままの人間が、お調子のままに支配する歴とした階級社会で少年は披支配層になってしまった。

その時点でもう惨めな生活は確定されていたのであろう。


要領も悪かったのだろう。少年は親にも学校にも相談することも出来ぬまま、強盗という凶悪な犯罪に向かって深い闇にはまり、沈められていった。


彼にはいじめがなかったとは信じられなかった。

そもそもいじめという言葉の定義が曖昧すぎて、やったやられたやってないの水掛け論で終始してしまう。犯罪とはっきり言ってしまえば済むことだったと思わずにいられない。

どだい金をゆする遊びがどこにあるというのか。

中学校の誰もが事件の重大さに、今まで見てみぬふりをしてきた気まずさと後ろめたさと開き直りに、すっとぼけた振りをして口をつぐんでいるだけなのではないか…。

そんな事も考えたりした。

更に事件の話は続く。残念ながら悪い方へと。まっ逆さまに転げ落ちて行くように。


衝撃の供述から数日したある早朝、留置場の片隅でぐったりとした少年の姿が見つかった。

青く意識を失い横たわった少年の片隅には、自らが傷付けてしまったお婆さんと、それから自身の両親へ向けてのごめんなさいというお詫びの言葉が書かれた一枚の紙片が落ちていたという。


その場で蘇生措置が為された上で救急搬送されたものの、午前八時過ぎに少年の死亡が確認された。

警察は適切な管理を強調した上で、今後の再発防止に努めるというまぁよくある定型的な行政的文言で記者会見を終えた。


あっけない。


何もかもが真相の根に辿り着かぬまま曖昧なまま、被疑少年死亡の上で書類送検という、あまりにあっけなさ過ぎる幕引きであった。

一応お騒がせしました、これでもう良いでしょう的なニュアンスで校長と警察の副署長とは学校と警察の記者会見で頭を下げて見せた。

それはひどく安っぽい芝居の幕引きじみて見えた。

彼は冷たく虚しくテレビの画面を眺めていた。



秋風も、吹かぬ広場に、猫と居り。



毎日は慌ただしく過ぎて行く。


やがて九月になり、日中は未だやりきれない暑さの日が続くなかでも夜になると少しばかり熱が醒めて涼しくなってきた気がした。

彼は蓄積した梅雨から夏の疲れに、しばしば目眩や立ち眩みに悩まされていた。

しかし、取り合えずあの事件は終わった。解決したとはとても言えない中でも、形の上で無理矢理にでも、社会的には解決の印鑑を捺して蓋を閉じてしまったのだ。


二日もすると、新聞やテレビのニュースは小さな街の小さな事件などすっかり忘れたかのように新しい話題に切り替わっていた。


世間は暇ではない。

次から次へと湧いてくる刺激的なニュースに、人々の視線は素早く移ろい流れていった。


小さな街の小さな事件はこれで終わった。


小さな街の住人、特に事件に少しでも関わりのある人々にとってはひどく曖昧なモヤモヤとした不安と憂鬱とを残したままの後味の悪い終わりかたであったけれども、それは確かな事実である。

加害者の少年は、死んだ。もう新しい事実も告白も出ては来ない。


後はお婆さんの容態である。

彼は何度も警察や消防に掛け合った。

警察も消防も、一切は個人情報であるとして、何度聞いてみてもお婆さんの氏名や住所はおろか入院先も容態もなにも彼には厳として一切教えてくれなかった。


思えば人間関係など、ひどくもろくて儚い刹那的なものである。

つい先日まで毎日のように笑い会っていた人が、何かの病気や事件や些細なトラブルが切っ掛けですっと消えてしまってもうそれきりなのである。


正に一期一会。

その言葉をこの時ほど噛み締めたことは無かった。

現代でさえこの始末である。

昔の人など推して知るべしであろう。

彼はただよろめきながら、やはりぐったりと心細そうな猫の太郎と共にお婆さんの無事を祈る事しか出来なかった。



九月の夜、吹く涼風に、秋を知る、遠き小さき、懐かしき灯。



九月も下旬になった。

夜になりやっと涼しさを実感できるようになってきた。


彼は相変わらずの目眩に悩まされながら、土手をうつむいたまま歩く日々だった。夏の疲れだろうか?別の病だろうか?

考えることさえ面倒臭い。彼は疲れはてていた。


そんなある夜の事である。

うつむき歩く土手の夜道で、ふっと疲れた顔を挙げた。

遠く、遠く、小さな灯が見えた。

最初は街灯の光が目の残像で遠くに見えているのだと思った。

瞬きをしてみる。何度もしてみる。


その小さな灯りは消えはしなかった。

そこには確かに灯りがある。


彼は我知らず走り出していた。疲れてカラカラに乾いて干からびていた胸が、熱く脈打つのを体全体で感じていた。


ぜいぜいと息を切らしながら、広場に続く階段の上まで来た。


夢ではないか?幻ではないか?いや違う。確かに眼前にそれはある。


広場には懐かしい光景が広がっていた。


軽トラックの屋台、赤い提灯、焼き鳥の煙り、その匂い。常連客のささやかな笑い声、そしてあのお婆さんの楽しそうな笑い声。

見よ、嬉しそうに尻尾を立てて歩く太郎の姿もある。

ああ、やっと日常の大事な一コマがが帰ってきた。

お婆さん元気になって本当に良かった。

何度も諦めかけたささやかな幸せが戻ってきた。


かえすがえす、縁というのは不思議なものだと思う。思えば大海に浮かぶ小舟の如く、もろく儚い人の世で、いい人嫌な人数多の人とすれ違い、その中で一体幾人と知り合いになるだろうか?

人と知り合い、喪失し、また巡り会える可能性ともなれば、それこそひどく稀なものである。


悲しいやるせない事件もあった。

お婆さん始め彼も常連客の皆も街の住人も加害者の少年自身も、その身その心に傷を負った。

それでも生きている限り日常は続く。

その中で、これから幾つの出会い別れ傷付け傷付いて失意と喜び再生を繰り返すのだろうか…。


階段を一段飛ばしで駆け降りながら、彼は万感の思いが溢れて、瞳が涙で滲むのも止められなかった。


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