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遠き灯  作者: 若葉
2/3

その二


濡れながら、走り走りて、梅雨の闇。



走りなれない運動不足の体である。だんだんと、早くも息が上がってきた。ああ、溺れるように苦しい。

けれども意思を越えた何物かに命じられるがまま、走り続けるしかない。


今は夢でも幻でもなく猫の悲痛な叫びが間断なく聞こえてくる。

太郎。待っていてくれ。何があったんだ?

雨に濡れてぬかるむ土に、足をとられる。

もつれる足に目をくれる暇もなく、彼は焦燥と嫌な予感に走り続けた。


やがて、遠く灯りが見えてきた。多分焼き鳥屋さんの軽トラックの明かりである。

それはひどく不可解な光景だった。

いつもならば雨降りの日は早じまいしてしまうのだ。或いはそもそも店を出さない事さえあるのだ。

例え良く晴れている夜だって、十時前には店じまいして帰るのだ。

それがこんな雨の日に、ましてやとうに日付の変わったこんな時間まで、お店を開いているはずがないのだ。


まさか。

太郎の必死の鳴き声は、自身の危険を訴えんがためではなく、お婆さんに何かあった事を伝えたかったのかも知れない。

彼はどんどん膨らみつつある、曖昧な不安から固体的なしっかりとした重量を持つ確信に移ろいそうな、嫌な気持ちに押し潰されそうであった。


後百メートル位だ。灯りが段々と近くなる。足がふらつく。太郎の声はなおも大きくなる。ザァザァと打ち付ける雨は更に勢いを増している。


土手沿いの、広場に降りる階段までやっとこさたどり着いた。

やはり軽トラックの屋台は灯りを点けたまま静まり返っている。

お婆さんの姿は見えない。

しばし立ち尽くしていると、階段を何かがかけ上ってくる。

ハッと気が付いた時には、びしょびしょに濡れて泣きそうな顔をした太郎が、泣き叫びながら彼の足に必死で頬を擦り寄せていた。


濡れた背中を撫でる。

小さな体はブルブルと小刻みに震えわなないていた。


大丈夫か!

彼の言葉に、太郎は悲しげな声で一つ鳴いて応えると、彼を導くように先に立って、振り返り振り返りとぼとぼと階段を下りて行く。

胸の嫌な鼓動がとくとくと耳にこだまする。

彼は黙って太郎の後をついていった。


軽トラックに吊るされた、焼き鳥と書かれた赤い提灯の光の輪。その外れにあのお婆さんがいた。雨に濡れ、倒れていた。


彼はサッと血の気が引いて行くのを実感しながら、慌てて動かぬ小さな体に駆け寄った。苦痛に歪んだ顔の横、こめかみの辺りから赤い血が流れ出ていた。咄嗟にしゃがみこんでお婆さんの背中を擦った。

うっうっ。

苦し気な呻き混じりながら、まだ微かな息づかいが感じられた。

良し、まだ生きている!

太郎はお婆さんに寄り添って、その頬を懸命に舐めていた。


彼は震える手で携帯を取り出すと、やはり震える指先で救急に電話した。

オペレーターの救急ですか消防ですか、という落ち着いた声がじれったくも、ひどく頼もしく感じられた。


それからの事は記憶が途切れ途切れである。

救急車が到着するまでの僅か十分程の時間が何時間にも感じられたのを強く印象に残っている

救急隊員がお婆さんをストレッチャーに乗せて、淡々としかし、てきぱきとした動作で救急車に搬送する。

すぐにパトカーが二台バイクが三台、七人ほどの警察官が雨の向こうからサイレンを鳴らして現場に来た。

彼は緊張と興奮と衝撃とに震えながら、第一発見者として彼等の問いに応えた。

たくさんの赤色灯が雨に濡れて反射している。

やがてガヤガヤと近所の人も集まってきて、静かな土手沿いの広場は結構な騒ぎとなった。


遅れて鑑識の人らしき人達も姿を現した。例の耳掻きの綿毛みたいなもので指紋を捜している。


お婆さんは救急車に乗せられて、酸素マスクの様なものを被せられてぐったりしている。

警察のやり取りから、どうもお婆さんが一人で店仕舞いの後片付けをしている最中に金銭目的の犯人に襲われた、という事らしいのが分かった。

つまり俗に言う、強盗致傷というやつだろうか…。

ニュースで良く聞く言葉だが、自身の身の回りでその言葉を聞くのは彼にとって生まれてこの方全く初めての事であった。


生と死の薄板一枚の裏表。今までの日常と非日常との曖昧な境界線が赤色灯の明滅に合わせて激しく交錯する。

異次元の修羅場。

その現場に遭遇してしまった。

その異様な緊張感に彼は我知らず蒼白になったまま深く固まっていた。


お婆さんを乗せた救急車が走り出す。どこに搬送されるのだろうか…。とにかく無事に助かってほしい。慌ただしく走り出す救急車の背中にそっと手を合わせて祈るしか出来なかった。


長いような短いような時間が流れた。何度も何人の警官にも同じような事を尋ねられ、何度も同じような仕草で同じような事を答えた。

やがて一通りの現場検証が終わり、彼は家に帰る許可が出た。

時計を見ると、すでに午前一時を大きく過ぎていた。

彼の足元には太郎がしょんぼりとうつ向いていた。


大丈夫、きっと大丈夫だよ。

太郎の心細げな背中を撫でる。太郎は不安げな面持ちで彼をじっと見つめている。

彼は振り返り振り返り太郎に手を振りながら、未だに激しく点滅する赤色灯の群れから一人とぼとぼと遠ざかっていった。


家に帰り、ため息を一つ。びしょ濡れの体をシャワーで洗い流して座布団に座りまたため息が出た。

緊張が抜けない。彼はまだ微かに震えていた。

敷きっぱなしの万年床にドサッと横たわると深い疲労に目を開けていられなかった。しかし目を閉じてみてもなかなか寝付かれずに、彼の頭の中にはじっと佇む太郎の悲しげな面持ちとお婆さんの苦悶の表情とが浮かび上がって離れなかった。


強盗致傷。

無理矢理金品を強奪して、深い怪我を負わせる事件。

なぜにあのお婆さんだったのだろう。


焼き鳥屋のお婆さんに、そんなに大金があったとは思えない。

あったとしても、その日の売上金と釣り銭用の小銭位なものだろう。

無論金額の多寡ではないが、何もそんな荒事をしなくてもよさそうなものである。

やけくその無計画の衝動的な犯行。

犯人は、そう遠くにはいない。

お婆さんがかわいそうでならぬと思うと同時にどこか背筋がゾッとして嫌な緊張を覚えざる得ない。


考えれば考える程に、なんとも非情な事件である。


穏やかなこの街に、それも身近な所でこんな残酷で凶暴な事件が起こってしまうとは…。犯人は今どこで何を考えているのだろうか…。お婆さんは大丈夫だろうか…。太郎はどうする…。明日は、といってもとうに日付は変わっているが、何か美味しいご飯を買っていってあげよう…。水もいるな…。小さな器と水を持って行こう…。


思いあぐねた思考が次第に間延びして、果てしない疲れが波のように押し寄せて来る。いつしか彼は泥のようにぐったりと眠りについた。



目の覚めて、ため息一つ、梅雨続く。



あっという間に朝になった。部屋は薄暗く、嫌な湿気がモヤモヤと満ちてている。

体が怠い。

良く眠られぬまま、ため息混じりのあくびが何度も出て止まらなかった。

よろよろと起き上がり、仕事に行く。

仕事をしながらも、昨夜の衝撃が体の中にこだましていて午前中最初の仕事はろくに手につかなかった。

しかし、彼は流石に中年である。これはいかんと、喜怒哀楽を捨て去り、すぐに機械的に社会人としての自分を取り戻して山のような仕事をあくまでも淡々と粛々とこなしていった。


これも年の功とでもいうのだろうか…?

思えば年を取ることはよろずに鈍くなることであると言っても良いかも知れない。

心身ともに若い頃の鋭さ敏感さを失い、感受性も鈍って蛇のようにずる賢く物事に動じなくなってしまう。

それが学校であれ会社であれ老人会であれ、何にせよ社会において生きるということはつまりは本音と建前の使い分けが上手くなるという事になるのかもしれない。いや、ならざるを得ないという事かもしれない。


泥のようなニヒリズム。

それが、立派な大人の証明であり本質なのかも知れない。



悲しい事である。

嫌だ嫌だと嫌悪感を抱くのも事実である。

しかし、人生、特に仕事に於いて一々本音をむき出しにして泣いたり驚いたり嘆いたりしていて、それが尾を引くようでは生きてはいけないように社会は冷たく出来ているのだ。


鈍らせた感覚で、言い方は悪くとも嘘で固めた作り笑いで機械的に人々に優しく会釈して、無情な世の中を図々しく渡り歩いていく。

それが大人の、中年の悲しさでもありふてぶてしい強さでもあるのかも知れない。

それはすれっからしになるはずである。



けれども仕事が終わり、ほっとため息をつけば、すぐに仮面は剥がれてしまう。昔の少年時代のままのセンチメンタルな心が、ムクムクと表に出てきて、彼の干からびた心と疲れはてた身とを切なくさせるのだ。



彼は帰り道で、紙の器と水、中の上位の価格帯の猫のご飯と缶詰を買った。

太郎の事が心配だった。

ひどくしょげてはいないだろうか?落ち込んでぐったりしているのではないだろうか…。


少しでも安心させて、元気付けてやりたい。

彼は猫のご飯等で膨らんだビニール袋をぶら下げて、土手沿いの未だぬかるむ道を広場へと歩き続けた。


広場は昨日の騒動がまるで嘘か夢だったかのように、ひっそりと静まり返り、道行く人の気配もない。

そして太郎の姿も見当たらない。


お婆さんが置いた、発泡スチロールの猫小屋にも姿は見えない。今はただ達筆のお婆さんがマジックで書いた、太郎の家という文字が微かにかすれて寂しさを誘うばかりである。


どこに行ったものか…。

猫はひどくデリケートな生き物である。

不安で体調を崩してしまったのかも知れない。

或いは衝撃と失意とに姿を消してしまったのだろうか…。

あり得る事である。


太郎、太郎、おおい太郎と心細い声で彼は街灯の向こうの闇に向かって呼び掛け続けた。

静まり返った闇には応えるものもない。ただ昨日の大雨で増水した川の濁った水が激しく流れ行く音が聞こえるのみである。


彼は尚も猫の名を呼び続けた。

もう帰ろうか…。諦めかけたその時であった。

何かが草むらに動く気配を感じた。

やがて草むらからがさごそと何かがうごめく音がした。と思うや否や、何かが彼に向かって飛びかかってきた。

黒い塊の正体は太郎であった。

彼のすねやふくらはぎに必死で頬を擦りつけ身を寄せてくる。

どれ程不安で寂しかったのか…。無言で喉を鳴らして尚も必死で身を寄せてくる太郎の姿が全てを物語っていた。


よしよし。

背中を撫でると喉を鳴らしてその場に寝転んだ。


太郎は安心したらお腹が空いてきたらしい。

ご飯頂戴とお願いするときの、独特な甘え声で鳴いて彼をニコニコと見つめてきた。

よしよし。

缶詰と粒状のキャットフードとを混ぜて、お水の皿と二つ並べて出した。

余程お腹が空いていたのだろう。太郎は無我夢中で食べている。

彼は苦笑しながら、少し安堵した。

まずは体力である。

それが大事である。


お婆さん早く良くなるといいね…。

太郎もきっと同じ思いであろう。

また明日。お互い心細いけど頑張ろうね…。


食べ終えてのんびり毛繕いを始めた太郎を微笑ましく眺めながら、彼は再び家路についた。


昨夜の疲労と今日の疲労とで、今にも倒れ込みそうに疲れはてていたのだ。


明くる日から、彼と太郎とは毎日広場で会ってはご飯のやり取りをしつつお婆さんを待った。来る日も来る日も彼は太郎のもとへご飯をあげに行き、馴染みの赤提灯の無い、ただ無機質な街灯に照らされた薄暗い殺風景な広場の片隅で太郎としんみり寂しさを分かち合っていた。

時には常連客のおじさんも姿を見せて彼等と共に寂しさと不安との入り交じったため息を交わしたりした。

やがて梅雨が明け、常軌を逸した猛烈な暑さの夏が来た。

彼も太郎も毎日が必死であった。夜になっても一向に涼しくならないその暑さに、セミの声さえ街から消えた。

疲労と暑さとで頭がフラフラになりながら、帰り道には必ず太郎のもとへ通った。

きっと好転する。

大丈夫だよ。

ぐったりとした太郎に話しかけながら、力尽きそうな自身の魂に声をかけてもいた。



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