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遠き灯  作者: 若葉
1/3

その一



梅雨曇り、遠き家路や、汗流る。



遠い帰り道、最早彼はほとほと疲れはてていた。

いや、いつも疲れてはいるのだけれども、仕事の失敗でさんざんに怒られての帰り道、今日のそれはまた格別のものらしい。


心のなかは濁った沼からポコポコ湧き出る小さな泡のように、疲れた、もう嫌だ、等と気だるい呟きが湧き上がりまた弾けて消えて行く。


そこにこの蒸し暑さである。心が折れ曲がってしまっていた。

おいおいまだ六月だぜ…。山で言えばまだまだ麓だ。それなのに、この疲労はどうしたものか…。

蚊の鳴くような、か細い心の呟きを、額から絶え間なく流れ落ちる汗がせせら笑っている。


山というものは登り切らなければ、その向こうへ続く下りはない。

暑さというこの険しい山岳は、生きとし生けるもの全てに毎年の長い長い苦行を強いている。

脱落しないためには歩き続けるしかない。



今日もまた、朝から南方の湿気をたっぷり含んだ重たい雲が垂れ込めて、もやもや暑かった。夜になっても雨は降らずただ垂れ込めた雲のもたらす湿度がひどく、大気が猛烈に蒸している。体にまとわりつくように熱が籠ってしまってひどく暑く感じる。

ずっとこんな天気が続いている。

これから本格的な夏が来る。今はまだその前奏に過ぎない。果たして秋まで身が持つだろうか?乗り越えられるだろうか?

毎年毎度の事ながら、この時期は心細いこと甚だしく、命の危険さえも覚えざるを得ない。

やっと一息つくと、今度は寒くなってくる。休む間もなく入れ替わる激しい寒暖に年中狼狽している。何でも激しすぎるのだ。

中庸。安定。バランス。

何事もそれこそが肝心だと思う。思ってみても、何も変わらず大気はもやついたまま彼のまた誰もの上に重苦しくのし掛かっているのだが…。



行く道には等間隔に光る寂しげな街灯がどこまでも続く。アスファルトで舗装された土手沿いの夜道を、一歩また一歩とぐったり歩く。

歩かなければ家に帰れないからだ。帰らなければ、横たわり目を閉じて眠られないからだ。

それにしても遠い家路である。

犬の散歩をしているおばさんや夫婦でウォーキングをしている老人達が彼の横をすいすいと追い抜いては小さくなって行く。


一日の疲労と先の見えない魂の暗闇とが重たくのし掛かり、彼の足取りは重かった。


遠くポツリと街灯の下に灯りが見える。

土手沿いから住宅地に続く道の先に公園のような広場がある。そこにいつも出ている軽トラックを改造した焼き鳥屋さんの屋台である。

気のせいだろうが、いい匂いがこちらまで伝わってくるような気がする。


よし、行こう。とにかくあの店まで行こう。

ささやかでもいい。小さなかりそめのものでもいい。何か目標を持つことは精神にとても良い。

小さな光芒でも、人はそれにすがって元気を出すものなのだ。


彼も少し気分が上がった。足取りも幾らか軽くなった気がする。


近づくにつれて、今度は幻ではない、本当に焼き鳥のいい匂いが炭火の香ばしさと共に風に乗って彼の鼻先に漂ってきた。

人々の楽しげな笑い声も遠く聞こえてくる。

今日もお店は繁盛しているらしい。

嬉しいことである。


人の体なんて現金なものである。いい匂いを嗅げば、お腹が空いてくる。甘辛いたれが赤い炭火に炙られて焦げる匂いが堪らない。

早く早くとよたよた歩く。灯りがだんだん大きくなる。



町外れ、灯りは遠く、はぜる炭。



いらっしゃい。今晩は!


この屋台を一人で切り盛りしているお婆さんが炭火を扇ぐ団扇の手を止めて、よろよろと近付く彼に明るく挨拶をしてくれた。


帰る場所に帰ってきた。

なんだか知らないが、心が暖かくなる。

嬉しくなって彼もまた、お婆さんに手を振って、やぁ今晩は!等と明るく挨拶を返した。

屋台のカウンターの向こうには所々錆び付いている簡易な長椅子が置いてある。そこに腰掛けている名も知らぬ顔見知りの常連さん達も彼を見て、明るく会釈してくれた。

すでに皆かなり出来上がっているようである。一人の老人は彼に大きく手を振りながら、おう、待っていたよ!等と興奮しながら出迎えてくれたのだった。

彼は苦笑しながら、老人にどうもと挨拶しつつ灯りの輪に吸い込まれていった。


雑談というほどの雑談もなく、美味しいね…これに限るね…等と誰かが呟き、皆頷いて本当にね…等とまた誰かが呟く。

淡々と、しかし皆朗らかに酒をのみ焼き鳥を食べている。長椅子の末席に彼もまた腰を落ち着けて、取りあえずビールとねぎまを頼んだ。

お先に冷たいの。

お婆さんは大きな保冷バッグから缶ビールを取り出すと、別の保冷バッグからキンキンに冷えたグラスを取り出して彼に注いでくれた。一口、二口、ほろ苦く冷たいビールに喉がキュンキュン鳴る。

グラスを持つ手が離れない。グラスが口から離れない。

一気にグラス一杯飲み干してしまった。

お婆さんが二杯目を注いでくれる。

今度は一寸だけ。

豊潤な旨みがさっと喉を通りすぎて行く。後に残るほろ苦さがなんとも言えず爽やかな余韻を口に残して消えて行く。

うん。堪らない。

疲れた体と、それよりもなお疲れた心に爽やかな苦味が心地好く染み渡る。

はい、ねぎま。お待ちどうさま。お婆さんが焼きたてを出してくれた。

ねぎま二本二百二十円である。

表面がカリッとした鳥肉の柔らかさ。そこにネギのこんがりとした焼き目が堪らなく旨そうである。

いただきます。


ジューシーな鳥とさっぱり甘いネギが秘伝の甘辛いタレで渾然一体となって口の中でほとばしる。

熱いところにキンキンのビールを一口、油をさっと流し込む。

これだ。

彼はキュッと目を閉じる。堪らない。

しょっちゅう来ている店なのに、特に暑くなると来る度、毎回毎回新鮮な感動を覚えざるを得ない。

大袈裟でも誇張でも何でもなく、今の、この喜びの為に辛い日々を堪え忍んで生きているのかもしれない。彼は毎回そう思う。


旨いなぁ…。しみじみ味わい食べていると、足元にフワリとした柔らかな気配がある。

黒白の猫である。

彼の足に挨拶の頭突きをしているのである。

これも、この店に寄る大いなる楽しみである。


猫の名は太郎。

野良猫であるが、地元の猫好きの方によってちゃんと去勢された証しのカットが耳にちょこんと印されている。地域猫としてこの辺で生きているオス猫である。この焼き鳥屋のお婆さんが大好きで、営業中はいつもこの辺でのんびりしている。常連のお客さんもみな、太郎、太郎と呼んで、太郎もまた機嫌良く尻尾を立ててヒゲを緩ませながら呼ぶ人の足元に行きご挨拶の頭突きからの頬擦りをしてくれるのだ。

いわばお店のなくてはならないマスコット的な看板猫なのであった。



すいません。彼はお婆さんに声をかける。

ビールと猫一つ下さい。

はい。

お婆さんは例のキンキンの缶ビールと小分けの袋をくれた。

ここの店では張り紙で、猫に焼き鳥は危険です!あげてはいけません!(餌を二百円で売っています)

等と大きく書いてある。


彼も猫を飼っていたから知っていた。

甘辛いタレは猫や犬には強すぎるのだ。毒である。さらに焼き鳥に欠かせないネギ。ネギも玉ねぎも猫や犬には猛毒である。親切で猫に焼き鳥をあげようとするお客さんも多い。その度にお婆さんは慌てて猫から焼き鳥を除けてお客さんに、焼き鳥はあげてはいけませんとお願いするのだった。

小さな袋にはキャットフードが少しばかり入っている。猫に何かあげたい場合はこれをあげて下さいという事なのだ。


みな、なるほど分かったと頷いて小袋に入った猫の餌二百円なりを買い求めるのである。お陰で太郎は野良ながら野良とは思えぬ程にいい体つきをしている。一寸太っている位かも知れない。また人に警戒心の欠片もなく懐き微笑んでいる。

良心的なお婆さんであるが、ついでに言えば、猫の餌はお婆さんのささやかなビジネスでもあるのかも知れない。なかなかしたたかなのである。


彼もいつものように小袋からキャットフードを取り出して足元にそっと置く。

太郎は待っていましたと言わんばかりに喉を鳴らして喜びながらカリカリと猛烈な勢いで食べている。


彼はまたねぎまとビールを名残惜しそうにゆっくり味わう。

人も猫もみな言うに言えない苦労をしながら生きている。

疲れた一日の終わりにささやかな癒しが無ければとてもやってはいけない。

しみじみと、一口、また一口、丁寧に惜しむようにねぎまの甘いネギを食べながら彼はそう思わざるを得なかった。


楽しい時間はあっという間に過ぎて行く。

また、楽しい時間はささやかな方がよいとも思う。

しばしの幸せを大切に、お勘定を済ませてそっと帰路につく。


焼き鳥屋さんのお婆さんはにっこり笑って、また来てね、と彼に挨拶をしてくれる。常連のお爺さんが笑って彼に手を振る。一寸席をずれてくれた若いお姉さんとお兄さんの二人連れも軽く会釈してくれる。太郎が微笑んで彼をじっと見つめている。

彼はまた会いましょうと心で呟きながらそっと手を振り返す。


再び街灯また街灯の寂しい家路である。


しかし、心も足も幾らか軽くなった。


一人暮らすおんぼろアパートによっこらしょと帰り着き、汗だくの体にシャワーを浴びて万年床に横たわる。疲れからかあっという間に寝てしまう。


朝になれば、また慌ただしい時計仕掛けのルーチンまたルーチンの一日が否応なしにやってくる。

時間に追い立てられて、何も考えられずただただあくせく動き、気が付けばまた一つ年を取り、疲れが抜けなくなって行く。どこに向かって歩いて生きているのだろう。そんな事さえもう分からない。


それでも、あのビールがある。焼き鳥がある。安らげる空間がある。それだけを一念に働き続けている。



雨降りて、踊るは青葉、カタツムリ、遠く聞こゆる、魔の笛の音。



ある蒸し暑い夜、夕方から雲が黒くなり始めて、振りだした雨が夜半過ぎて更に激しくなっていた。


傘を叩くバラバラという不規則な強い雨音が帰りの長い道のりを一層険しいものにしていた。


その日は運悪く残業が長引いて終電近くなってしまった。

こんな天気でもあるし、もう焼き鳥屋さんは店じまいしているだろう…。

楽しみがない。

仕方無いさ…。

けれどもずぶ濡れの足は重たい。


とぼとぼと歩く内に、雨音に混じって赤ん坊のような何かが泣き叫ぶ声が遠く微かに聞こえる気がした。

気味悪いな…等と思いながら、歩き続けると次第に声が鮮明になってきた。幻ではない。

なんだろう…。

第六感、というほどのものではないが、いわゆる胸騒ぎがする。


そしてハッとした。

これは猫の鳴き声だ。それもケンカなんかじゃない。極めて切迫している時のそれである。

とっさに太郎の顔が浮かんだ。


太郎は大人しい猫である。やたらな事では激しく鳴いたりしない。

ましてやこの声。明らかに助けを求めて必死に泣き叫ぶ声だ。

焼き鳥屋さんの屋台がある広場の片隅に、太郎はいつも静かに暮らしている。

広場まではここからかなりある。一寸やそっとの物音は掻き消されそうなこの雨である。

もしかしたら助けてほしいという心の声が届いているのかも知れない。いわゆるテレパシーという奴かも知れない。



彼は疲れた足に活をいれると、どしゃ降りのなかに鋭く走り始めた。

普通じゃない。

ただ事ではない。

大丈夫だろうか…。

彼の心は今にも張り裂けそうであった。


いつもならば雨降りの日はお婆さん手作りの防水加工を施した猫小屋の中でのんびり寝ているはずなのだ。こんなに鳴いたりしないはずなのだ。

彼の心中半ば確信していた。これは太郎の助けを求める声だ。

待っていろ。

今、助けにいく。

彼は夢中で走り続けた。

遠い、どこまでも続く一本の道を。

なかなか進まない。

重たい足が恨めしかった。それでも一つまた一つ、等間隔に並ぶ街灯を越えていく。

待っていろ。

息が切れて、声にならない声で果てしない闇に降り続ける雨に向かって吠えた。


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