私は、テディベアの足の裏のふわっとしたところの毛です。
ごきげんよう。
テディベアの足の裏のふわっとしたところの毛です。
私は一本の毛に過ぎませんが、同時にテディベアでもあります。
無論、きらめく黒目のビーズですとか、首に巻かれた黄色いリボンと比較すれば、その存在感は劣るでしょう。しかし、テディベアの足の裏のふわっとした感じを演出することに、私は微力ながら貢献しているのです。
さて。
私はもうすぐゴミになります。
理由は、テディベアの足の裏のふわっとしたところから取れかかっているからです。
取れかかって、床板の奈落へ向かってぶらぶらしているからです。
私が置かれている状況を確認すれば、すぐに理解できるでしょう。
ここは、町の外れのおもちゃ屋の一角の洒落たぬいぐるみ売り場です。
青や桃色のクマさん達に負けず劣らず、我が白色のテディベアは、棚の最前列に座っています。足がくたっとした作りなので、うまく座らせられるのが特徴です。
棚は店主のお気に入りで、ウォールナットの一枚板。落ち着いた色合いが私たちを引き立たせ、客の目を引きます。
店内は、まるでクリスマスマーケットのような雰囲気でいっぱいです。その温かみに、夏に来店した客でも、思わず入口前で手のひらを擦ります。
対応する店員さんの格好もまた、クリスマスツリーのよう。
緑のエプロンにブラウンのパンツ。赤ふちの眼鏡をかけた店員さんが、にこにこ笑って子供と目の高さを合わせます。その後客が出ていくと、「ほっ」と一息ついて、我らぬいぐるみをハンカチーフで掃除するのです。
さて。
ハンカチーフです。
テディベアにとってみれば、それはお掃除道具に過ぎないのですが、テディベアの足の裏のふわっとしたところの毛にとってみれば、命を刈り取るマシンのようです。
柔らかい布という嵐に、私は何度身の竦む思いをしてきたでしょう。
でももう、次はありません。
私は飛び出すぎました。
いくらかの嵐に耐えた私ですが、テディベアとはもう毛の先の先でしか繋がっておらず、店の空調にすら靡く有様です。
抵抗するつもりはありません。
地面に落ちたあの毛や、子供のセーターに連れていかれたあの毛のように、最後まで堂々と構えるつもりです。
なぜって、やはり私は、誇り高きテディベアだから。
最期に少々、思考をいたしましょう。
果たして私は、本当に「テディベア」だったのでしょうか。
私一本を取り出して観察した人が「これはテディベアだ」という可能性は、ゼロです。
毛もう一本抜いても、もう一本抜いても。それは毛でしかありません。テディベアはテディベアでしかありません。
もう少しほつれても、そこにあるのはテディベアです。
もう一本ほつれて、また一本ほつれて。まだまだ、それはテディベア。
ゆっくり、じっくり、ぐちゃぐちゃに乱します。毛の一本までバラバラにして、床にきっちり並べたら……。
それは、未だ、テディベア?
いいえ、と。私は考えます。
と、いうことは、その意味で私はテディベアです。
そんなこと言うと、論客はきっとこう反論します。
「いえいえ、テディベアの足の裏のふわっとしたところの毛君。テディベアが欲しているのは『毛の寄せ集め』であり、君単体がテディベアたりえる資格は無いのだよ」
どうだろう。
私は反論を試みます。
例えば、テディベアを「毛などの寄せ集め」と定義するとします。その場合、一本の毛である私はテディベアではありません。
すなわち、テディベアにとって居てもいなくてもいい存在です。
同様に、我ら同士の毛たちも、テディベアのために居てもいなくてもいい存在です。
では、我ら同士が一斉に姿を消しましょう。全員、居てもいなくてもいいはずなので、残り物はテディベアであるはずですが……。
しかし残るは、綿と、ビーズと、黄色いリボンだけ。
おやおや。
つまり、毛の一本がテディベアでないと、矛盾が発生するのです。私の存在が、テディベアの存在を可能にしている。
よって私は、テディベアです。
更に思考を深めましょう。
私は、テディベアです。しかし、いつまでテディベアでいられるのでしょうか。
私一本が地面に落ちれば、それはゴミ以外の何物でもありません。
では、足の裏ごとテディベアから外れたら? 私は未だ足の裏にくっついてはいますが、いえ。これはゴミでしょう。
では、テディベアの頭が外れて、下半身だけになったら? もうテディベアとは名乗れなさそう。でも、状況次第では名乗れそうだし……。
テディベアの構成要素として、頭は重要かもしれません。では、頭から足まで繋がったままで、お腹と腕が解れにほつれ、毛の塊であったら?
毛を解き、毛を引き。
だんだん、だんだん、ぐちゃぐちゃ。
繋がっているだけの私は、一体いつまでテディベア?
ふむ。
子供が店内ではしゃぎ回っています。
ぬいぐるみ棚の前を駆け抜けたので、私はふるっと靡きます。
磁力を当てられた砂鉄のように右へ、左へかっくり動きますと、こんな思考もできます。
私は、「真のテディベア」でしょうか。
例えば、テディベアから毛を全部抜き取り、寄せ集めます。
それらを縫い直し、新たな綿を詰め、ぬいぐるみにしたら、それはさっきのテディベアですか?
見た目は変わりません。でも、中身は違います。
先程まで我ら同士が頑張って包んでいた綿たちは、今や裸で横たわっています。
では次は、裸の綿たちを、新たな毛で包みます。色も素材も、我ら同士と変わらぬものです。
さぁ、全く同じ見た目のテディベアが二つ出来ました。
どちらが「元のテディベア」ですか? どちらが「偽物のテディベア」ですか?
私一本の力では、結論を出せそうにありません。
ううむ。
実はこうした思考実験は、既に人様の間で十分に心得られているものらしいのです。
しかし、私はこのような事を、誰に教えられるでもなく考えていました。
私は、かなり人間的なのかもしれません。
ぬいぐるみ売り場の棚の仕切り板のニスの反射に私自身が見え、まるで人間のように見えたこともありました。
しかし、私は、テディベアの足の裏のふわっとしたところの毛です。
私はテディベアであり、毛であり、探求者です。物言わぬ同士に囲まれ、次の瞬間ゴミとして運命を果たす、一種の哲学者です。
店員がこちらを向きました。いつの間にか、客は帰ったようです。
店員がポケットをゴソゴソやるのが見えます。
あそこに入っているのは、そう。
ハンカチーフです。
いよいよ最期です。
私はあと一つだけ、神に問いたい。
物言わぬ同士に囲まれ、なぜ私だけが「考える毛」だったのでしょう。
八百万の神の魂を、なぜ毛の一本に授けたのでしょう。ここに、もっと相応しいぬいぐるみは沢山あるのに。
もしかすると、テディベア自身にも魂はあるのかもしれません。私と意思疎通ができないだけで、テディベアの脳みそで思考しているかも。
でも、ひょっとすると。
もし、神様が「考える毛」にこそ哲学者の気質を見出したのであれば、それは誇るべきことです。
店員がこちらへ近づくと、空気がぶわり動きます。
少し早いお別れでした。
では。
はらり
書いたり書かれたりしました。
富良原きよみです。
カクヨムでも投稿予定です。同じ名前です。好きな方で読んでいただけますと。
執筆用のツイッターはじめました。(@Huraharakiyomi)
ここまで読んでいただける皆様ならきっと仲良くなれると思います。
では。
富良原より